第9話 ベンチのライン

 水曜日の朝、敦は、目覚ましが鳴る一瞬前に目を覚ました。


 体を軽くひねってみる。

 肩、肘、腰。

 どこも「痛い」と言うほどではないが、じんわりとした疲労感は残っている。


(捕手の練習を足すと、やっぱりくるな)


 そう思った瞬間、視界の端にスクリーンがふっと現れた。


――状態表示

 ・コンディション:良好

 ・疲労度:中

 ・筋肉ダメージ:軽〜中(下半身)

 ※推奨:本日の全力投球は三十球以内


「制限つけてくるなあ」


 苦笑しながらベッドから起き上がる。


 カーテンを開けると、少し曇りがちな空が見えた。

 雨が降るほどではなさそうだが、どこか重たい色をしている。


(グラウンド、ぬかるまなきゃいいけど)


     *


「おはよう」


「おはよう。今日はなんか眠そうね」


 母が、フライパンで目玉焼きを焼きながら振り向いた。


「ちょっとだけな。昨日、キャッチャーの練習してて」


「キャッチャー? ピッチャーじゃなかったの?」


「どっちも」


「どっちもって……」


 母はあきれたように笑った。


「あんまり無理しないでよ。肩とか壊したら元も子もないんだから」


「わかってるよ」


 食卓では、父が新聞を広げていた。


「土曜、練習試合が入ったそうだな」


「知ってたの?」


「先生から連絡が来た。“ユニフォームと道具の準備を忘れないように”ってな」


「ああ、プリント渡さないと」


 鞄から連絡プリントを取り出し、テーブルの端に置く。


「これ」


 父はざっと目を通し、うなずいた。


「一年も何人か連れて行くらしいな」


「うん。人数だけは書いてあるけど、誰がベンチ入りかはまだわからない」


「そうか」


 それ以上、父は何も言わなかった。

 だが、その「そうか」の中には、いろいろな意味が含まれている気がした。


(行けるかどうかは、自分次第ってことだよな)


 トーストをかじりながら、敦はスクリーンにちらりと視線をやる。


――今週の主目標

 ・土曜の練習試合までに、監督の信頼度を「微妙」→「期待」ランクへ


「ランク名が雑なんだよ」


 小さくつぶやいて、牛乳を飲み干した。


     *


 通学路の途中。

 自転車をこいでいると、後ろから声が飛んできた。


「おーい、敦!」


 振り返ると、中村が片手運転で追いついてくる。


「おはよう」


「おはよ。昨日の“特別講座”、マジで助かったわ。家で復習したら、いつもよりスッと入ってきた」


「それはよかった」


「今日も放課後、ちょっとだけいい?」


「いいけど、内容は自分で決めとけよ。わからんとこ丸投げされても困るから」


「わかってるって」


 そう言いながら、中村はちらっと敦の顔を見た。


「土曜の練習試合、さ」


「ああ」


「出たいよな」


「出たいな」


 正直に答えると、少しだけ胸の奥が熱くなった。


「一年から、何人ぐらい連れてってもらえるかな」


「さあ……。ベンチ入り二十人として、三年と二年を合わせて十五前後使ったとして……一年は多くて五人くらいじゃないか」


「五人か……狭き門だな」


「試合に出るのは、その中でもさらに一部だしな」


「お前はほぼ確定じゃね?」


「さすがにそれはないだろ」


 自転車のペダルをこぎながら、敦は空を見上げた。


(もちろん、行きたい。投げたい。打席にも立ちたい。

 ……でも、それを口にするのは、まだ早い)


 スクリーンが、視界の端で小さく文字を浮かべる。


――自己評価と他者評価のギャップに注意

 ・過小評価しすぎると、チャンスを逃す可能性があります


「その辺のバランスが難しいんだよ」


 心の中で返事をしながら、学校の門をくぐった。


     *


 午前中の授業は、淡々と進んでいった。


 数学では、新しい範囲の説明。

 英語では、教科書本文の音読と文法解説。

 国語では、古文の助動詞。


(古文の助動詞なんて、前の人生でも苦手だったな……)


 教科書を眺めながら、敦は少し頭を抱えた。


 「き・けり・つ・ぬ・たり・けむ・らむ・めり・らし・べし……」


(こういうの、スクリーンにまとめてもらえないかな)


 そう思った瞬間、視界の端がほんのりと明るくなる。


――古文助動詞簡易表(抜粋)

 ・「き・けり」:過去

 ・「つ・ぬ・たり」:完了

 ・「べし」:推量・意志・当然 など


「おお……」


 思わず声が出そうになって、慌てて口を閉じた。


(便利すぎるだろ。これ、ちゃんと自分でも覚えないと、頼りきりになりそうだな)


 板書を写しながら、頭の中で何度も助動詞の一覧を繰り返した。


 スクリーンに全部任せるのではなく、「自分で覚えたうえで補助的に使う」。

 そう決めておかないと、後で痛い目を見そうな予感がした。


     *


 放課後。


 前日と同じように、空き教室で中村に数学を教えたあと、敦はグラウンドへ向かった。


 空はどんよりと曇り、風が少し強くなっている。

 グラウンドの土はかろうじて乾いているが、ところどころ黒く湿った部分が残っていた。


「おはようございます!」


 声を出して列に加わると、村井がいつものホワイトボードを持って現れた。


「今日は、土曜の練習試合に向けて、ある程度メンバー構想を固める」


 その一言で、全体の空気が一気に張り詰める。


「もちろん、今日の練習の内容も含めて判断する。だから、“もう決まった”と思って手を抜くなよ」


 ランニング。

 ストレッチ。

 キャッチボール。


 いつも通りのメニューなのに、足取りもボールの感触も、少し違って感じられた。


「山下、肩の具合は?」


 キャッチボールのペアになった篠原が聞いてくる。


「問題ないです。疲れはありますけど」


「捕手の練習もやってるのに、よくそれで持つな」


「スク……いや、ちゃんとケアしてるから」


 危うく「スクリーン」と言いかけて、慌てて言葉を飲み込む。


「土曜、投げたいか?」


「投げたいです」


 即答だった。


 篠原は、その答えに少し満足そうな顔をした。


「よし。そうでなくちゃな」


     *


 この日は、守備と走塁を中心とした実戦形式の練習だった。


 ベースランニング、リードの取り方、スタートの切り方。

 そして、投内連係。


 敦は、ピッチャーとしてマウンドに立ち、盗塁時のクイックモーションや牽制を重点的に練習した。


「もっと、投げる直前まで“投げるか投げないか”わからないように見せろ」


 佐伯の声が、マウンドまで届く。


「ランナーのリードが少し大きくなった瞬間を逃すな。目線と足音を拾え」


「了解です」


 ランナー役の一年が、リードを大きく取り、タイミングをうかがおうとする。


(今だ)


 敦は、投球動作に入る直前で素早く一塁に振り向き、牽制球を投げた。


 矢のような送球が、一塁手のミットにおさまる。


「おっけー!」


 一塁手がボールを掲げる。


「今のタイミングはいい。けど、試合でやるときは、もっと“さりげなく”だな」


 佐伯が笑いながら言った。


「いかにも“牽制しますよ”って顔してたぞ」


「そんな顔してました?」


「してた」


 敦は苦笑しつつも、頭の中で動きを反芻する。


 スクリーンが、さりげなく助言を表示した。


――牽制ヒント

 ・セットポジションに入る前の「静かな間」を一定に保つ

 ・目線で牽制のタイミングを予告しない


(細かい……けど、確かにその通りだな)


     *


 練習の後半、捕手候補三人は再び集められた。


「今日は、簡易的な配球練習もやる」


 佐伯が、ホワイトボードの前に立つ。


「ここに打者の傾向を書いていく。お前らは、それを見て“どう攻めるか”を考えてみろ」


 ホワイトボードには、架空の打者の名前と、打ち方の特徴がいくつか書かれていく。


 「高めの速球に強い」

 「変化球に弱いが、追い込まれてから粘る」

「インコースを嫌がる傾向」 など。


「じゃあ、カウント0-0から始めるとして、初球どこに投げる?」


 佐伯の問いに、まず山岸が答えた。


「外角低めのストレートで様子見です」


「理由は?」


「高めが得意なら、下から入って反応を見る方がいいかなと」


「悪くないな」


 次に、田島が口を開く。


「自分は、最初からスライダーで」


「いきなり変化球か?」


「はい。変化球に弱いなら、そこを最初に見せておきたいです」


「ふむ……」


 佐伯は、二人の意見を聞いてから、敦の方を見た。


「山下は?」


「自分も、最初はストレートです」


「コースは?」


「インコース寄り」


「インか?」


「はい。高めに強いなら、逆に“高めを意識させるインコース”を最初に見せます。そこから、外の変化球を使いやすくなるので」


 佐伯は、少しだけ目を細めた。


「なるほどな。じゃあ、2ストライク1ボールまで進んだと仮定して、決め球は?」


「フォーク、もしくは外に逃げるスライダーです」


「理由は?」


「高めの速球を待っているところに、手元で落ちる球か、外に逃げる球を混ぜたいです。“得意なゾーンの逆”を最後まで見せないようにしたいので」


 言いながら、自分の言葉に少し苦笑した。


(配球なんて、草野球レベルでしか考えたことなかったのに)


 佐伯は、しばらく黙ってから言った。


「山下は、“投げる目線”と“受ける目線”を両方持ってるな」


「そうですか?」


「そうだよ。だからこそ、いろんな可能性が見える。そこをどう整理していくかは、これからの課題だな」


 スクリーンが、静かに表示を更新する。


――捕手スキル

 ・配球センス:ポテンシャル高

 ・現状:アイデア多め/選択と絞り込み要


(なんでもかんでも“多いから偉い”ってわけじゃない、ってことか)


 心の中でうなずきながら、ホワイトボードに書かれた架空の打者たちを見つめた。


     *


 その日の練習終わり。

 荷物をまとめようとしていたところで、村井に呼び止められた。


「山下、ちょっと来い」


 敦は、少しだけ心臓が跳ねるのを感じながら、村井のそばへ歩み寄った。


「はい」


「土曜の練習試合だが……」


 村井は、手にしていたメモ用紙をちらっと見た。


「一年からは、ピッチャー二人と、捕手候補を含めて数人連れて行くつもりだ」


「はい」


「結論から言うと、お前は連れて行く」


 その一言に、敦の胸が熱くなる。


「ありがとうございます」


「ただし」


 村井は、すぐに続けた。


「“試合に出す”とまではまだ決めていない。ベンチ入りはさせるが、登板は状況次第だ」


「……はい」


 期待と不安が、同時に胸の中に広がる。


「当日の先発と、中継ぎの基本プランは、明日か明後日までに伝える。そのとき、改めて説明する」


「わかりました」


「もう一つ」


 村井は、敦の目をまっすぐに見た。


「土曜は、ピッチャーとしてだけじゃなく、捕手としてベンチに入れる可能性も考えている」


「捕手として、ですか」


「そうだ。試合展開によっては、終盤の守備固めや、二塁送球を意識した捕手交代もあり得る」


 佐伯の名前が、頭に浮かんだ。


「もちろん、今の正捕手は佐伯だ。そこは揺るがない。だが、試合の中で“違う選択肢”が必要になる場面は必ずある」


 村井は、メモ用紙を折りたたみながら言った。


「お前の役割は、今のところ“保険”に近い。だが、保険が必要なくなるくらいの存在になれれば、それはそれでいい」


 その言葉は、厳しくもあり、同時に大きな期待にも思えた。


「……やれるところまで、やります」


「それでいい」


 村井は短くうなずいた。


「明日からの練習で、“ベンチに置いておきたい理由”をもっと増やせ」


「はい」


 敦は深く頭を下げた。


     *


 家に帰り、風呂と夕食を済ませたあと。

 敦は机に向かい、教科書とノートを開いた。


「土曜に向けて、野球のこと考えたい気持ちもあるけど……」


 そうつぶやきながら、数学と英語のページをめくる。


(ここで勉強をサボったら、“両立”なんて口だけになる)


 ペンを走らせていると、スクリーンがそっと現れた。


――本日のミッション進行状況

 ・投球フォーム安定:+3%

 ・捕手スキル:+2%

・打撃フォーム調整:+2%

 ・学業との両立:+2%


「ちょっとずつだな、本当に」


 数字だけ見れば、微々たる前進だ。

 だが、その「ちょっとずつ」の積み重ねが、今の敦には何より大事に思えた。


 ひと通り問題を解き終えたあと、敦はペンを置き、ベッドに仰向けになった。


(ベンチには、行ける。

 でも、マウンドに立てるかどうかは、まだ決まってない)


 土曜日のグラウンド。

 相手校のユニフォーム。

 見知らぬバッターたち。


 その前に立つ自分の姿を想像しようとして――途中でやめた。


(想像だけで満足したくない)


 そう思ったからだ。


 スクリーンが、静かに一行だけメッセージを表示する。


――ベンチ入りは「スタートライン」です


「わかってる」


 小さく答え、目を閉じる。


 ピッチャーとしてのライン。

 捕手としてのライン。

 そして、ベンチというもう一つのライン。


 そのどれもが、今の敦にとっては、まだ“途中”の印にすぎなかった。


 その線を、いつか「越えた」と胸を張って言える日が来るのかどうか。

 答えは、まだ遠く先にある。


 それでも、少なくとも――

 土曜のグラウンドに、敦は確かに足を踏み入れることになる。


 

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