第10話 背番号の重さ
木曜日の朝、敦は目覚ましが鳴る前に目を開けた。
いつもどおりカーテンを開け、軽く体をひねる。
肩、肘、腰。
全体にだるさはあるが、「重い」というほどではない。
(ここ数日、毎日それなりに投げて、受けて、打って……それでもギリギリ回ってるのは、やっぱりこいつのおかげか)
そう思った瞬間、視界の端にスクリーンがふっと現れた。
――状態表示
・コンディション:良好寄り
・疲労度:中
・肩・肘:問題なし
※推奨:本日は投球強度を6〜7割に抑えてください
「強度のパーセンテージ管理までされるのかよ」
小さくぼやいてから、敦は制服に袖を通した。
*
「おはよう」
「おはよう。今日はなんだか機嫌よさそうね」
母が、フライパンでウインナーを炒めながら振り向いた。
「そんなことないけど」
「土曜の練習試合、ベンチ入り決まったんでしょ?」
「……どこから情報が」
「昨日、先生から電話あったわよ。“土曜日、ユニフォーム一式持たせてください”って」
「ああ、その件か」
テーブルには、すでにトーストとサラダ、牛乳が並んでいる。
父は新聞を広げたまま、ちらりとこちらを見た。
「ベンチには入るらしいな」
「ああ。そこまでは決まった」
「出るかどうかは?」
「まだ未定。状況次第、って言われてる」
「それなら――」
父は、新聞をたたんでテーブルに置いた。
「ベンチからでもいい。相手校の選手を、よく見てこい」
「見てこい?」
「どういう投げ方をしてるか。どういう打ち方をしてるか。うちのチームと比べて何が違うか。そういうのを、自分の目でちゃんと見てこい」
その言葉に、敦は少しだけ驚いた。
「てっきり、“出ろ”って言うのかと思った」
「出られるに越したことはないがな」
父は、コーヒーを一口飲んだ。
「だが、試合に出るやつだけが経験を積めるわけじゃない。ベンチで見ているやつにも、やれることはいくらでもある」
十五歳の身体の耳には少し説教めいて聞こえる言葉も、五十歳の頭には、ただの事実として入ってくる。
「……わかった。ちゃんと見てくる」
「それでいい」
父はそれ以上何も言わず、再び新聞を開いた。
スクリーンが、さりげなく一行を追加する。
――新規サブミッション
・土曜の練習試合で「観察メモ」を三つ以上残すこと
「メモ係まで増えるのか」
敦は苦笑しながら、トーストをかじった。
*
学校に向かう自転車のハンドルを握りながら、敦は、土曜日のイメージを何度も頭の中で再生していた。
相手校のグラウンド。
見知らぬユニフォーム。
マウンド。
ベンチ。
ブルペン。
(どこに立たされるかはわからない。だから、どこに立たされてもいいようにしとくしかない)
そう考えていると、後ろからいつもの声が飛んできた。
「おーい、天才!」
中村だ。
「その呼び方、そろそろやめない?」
「いやだ。今やクラスのブランドだからな、“数学満点の山下”」
「変なブランドいらないんだけど」
並んで自転車をこぎながら、土曜の話になる。
「土曜さ、一年で何人呼ばれるか、なんとなく聞いた?」
「ピッチャーで二人、捕手絡みでもう何人かっぽいけど、正確な人数までは」
「やっぱそんなもんか……。俺は普通に“応援組”だな」
「応援も大事だろ」
「まあな。でも、正直、ちょっと羨ましいのはある」
中村は笑ってそう言った。
「だから、その代わり、中間テストで見返すわ。お前の教え方がよかったって証明してやる」
「そこに責任転嫁してくるのやめてくれない?」
「期待と言え」
くだらないやりとりをしながらも、敦の胸の奥には、じわじわと緊張が溜まりつつあった。
*
午前中の授業は、いつもどおり淡々と過ぎていった。
ホームルームのあと、教室を出ようとしたところで、藤井に呼び止められた。
「山下くん」
「ん?」
「これ、学年通信。先生が“野球部にもちゃんと配っといて”って」
「ああ、ありがとう」
プリントを受け取りながら、ちらりと目を通す。
一学期の行事予定、中間テストの日程、諸注意――いつもの内容だ。
「土曜日、練習試合なんでしょ?」
「そうみたいだな」
「“そうみたい”って」
藤井は呆れたように笑う。
「ベンチ入りなんでしょ? がんばりなよ」
「試合に出るかどうかはまだだけど」
「出なくても、ベンチにいるってだけで全然違うでしょ」
さらっと言われた一言が、少しだけ胸に刺さる。
「……まあ、な」
「怪我だけはしないようにね」
そう言って、藤井は自分の席に戻っていった。
*
放課後。
グラウンドに出ると、いつもより少し早めに部員が集まっていた。
「おはようございます!」
「おはよう」
村井が手にしているホワイトボードには、いつものメニューのほかに、「土曜メンバー案」と書かれた欄があった。
「今日はまず、土曜の練習試合のメンバーと、大まかな起用方針を伝える」
その一言で、全員の背筋が伸びる。
「ただし、ここで伝えるのは“現時点での案”だ。今日、明日の練習内容次第では、多少入れ替える可能性もある。そのつもりで聞け」
村井は、上から順番に名前を書いていく。
三年生。
二年生。
そして、一年。
「ピッチャー、一年から二人。山下、丸山」
敦の名前が、ホワイトボードに書き込まれる。
その瞬間、心臓が一段階早く打ち始めた。
「捕手候補として、一年から田島、山下を連れて行く」
(捕手としても、か)
自分の名前が二度書かれているのを、敦は複雑な思いで見つめる。
「当日の先発は、三年の矢部。中継ぎに二年の高木。それから――」
一拍おいて、村井は続けた。
「状況によっては、一年の山下を“お試し登板”させるつもりだ」
「お試し」という言葉に、ざわめきが起こる。
「もちろん、試合の流れ次第だ。先発と二番手で試合作りができていない状態で、一年をマウンドに上げるつもりはない。逆に、ある程度試合を作れているなら、その中でどこまで通用するかを見てみたい」
嬉しさと、怖さと、期待と、責任感。
いろんな感情が、一気に胸の中に渦を巻いた。
「それから――」
村井は、捕手の欄を指さした。
「終盤、相手が足を使ってくるようなら、捕手を交代する選択肢もあり得る。そのとき、山下がマスクをかぶる可能性もゼロではない」
佐伯の顔が、視界の端に入る。
その表情からは、怒りも不満も読み取れなかった。
ただ、静かに現実を受け止めているように見えた。
「以上が、現時点での構想だ」
村井は、ホワイトボードから離れて全員を見渡した。
「“出られるかどうか”に一喜一憂するな。ベンチ入りするやつも、応援に回るやつも、全員がこのチームの一員だ」
そう言いながらも、視線は確かに、ところどころの一年の顔を細かく見ていた。
敦の胸の奥で、何かが静かに燃え始める。
(スタートラインには、立てた)
スクリーンが、視界の隅で淡く光った。
――状況更新
・土曜練習試合:ベンチ入り確定
・登板可能性:中
・捕手起用可能性:低〜中
「数字で出すなっての」
心の中でツッコミを入れる。
*
この日のメニューは、実戦形式の守備と、短いイニングの紅白戦だった。
「今日は、いつもより“試合”を意識する。ミスをしたやつは、その場で理由を説明しろ」
村井の言葉に、全員が緊張する。
敦は、まずピッチャーとしてマウンドに立った。
登板イニングは二回。
相手打者は、同じチームの先輩たちだ。
一人目。
ストレートでカウントを整え、外のスライダーで空振り三振。
二人目。
内角を突いて詰まらせ、セカンドゴロ。
三人目。
ファウルで粘られた末に、アウトコースいっぱいのストレートを見逃させて三振。
数字だけ見れば、上出来といっていい内容だ。
(球自体は悪くない。問題は――)
マウンドからベンチに戻る途中、村井と目が合う。
「山下」
「はい」
「今の二回、結果は悪くない」
「ありがとうございます」
「だが、ランナーが出た後のイメージがまだ薄いな」
図星だった。
この二回、ランナーは出していない。
「ランナーが一塁に出たとき、三塁に出たとき、満塁のとき――そのときにどういう“球の使い方”をするか、頭の中でイメージしておけ」
「はい」
「土曜に投げることになったら、その場でいきなり試すことになる。頭の中で“予習”しておけ」
スクリーンが、さりげなく文字を浮かべる。
――イメージトレーニング
・特定状況を事前にシミュレーションすることで、実戦時の判断がスムーズになります
(言われなくても、やる)
敦はベンチに腰を下ろし、水を一口飲んだ。
*
紅白戦の後半、捕手候補の練習も行われた。
「山下、マスクかぶれ」
「はい」
ミットとレガース、プロテクターをつけてホームベースに立つ。
ピッチャーは二年の投手。
実戦に近い強度でストレートを投げ込んでくる。
顔の前でボールが変化する。
回転の質、球の重さ、コース。
受けながら、頭の中で情報を整理していく。
(この感覚、悪くない)
投げる側だったときには見えなかったものが、捕る側の視点からは見えてくる。
ボールがミットに収まるたび、佐伯の声が飛ぶ。
「もっとボールの“先”を意識しろ! ミットに入って終わりじゃない! その先、どこに送るかまで考えとけ!」
「はい!」
ボールを返しながら、敦は自分の中で一つ確信した。
(投げるだけより、しんどい。
でも――こっちも、面白い)
スクリーンが、小さく表示を更新する。
――捕手スキル
・ブロッキング:Lv1 → Lv2
・スローイング:Lv1 → Lv2
・配球:Lv1(伸びしろ大)
「ゲームじゃないんだから、レベル表示やめろって」
そう言いながらも、胸の奥が少しだけ誇らしかった。
*
練習が終わるころには、空はすっかり暗くなっていた。
道具を片付け、グラウンドを出ようとしたところで、佐伯に呼び止められる。
「おい、山下」
「はい」
「土曜さ」
佐伯は、ほんの少しだけ言いよどんだ。
「もしお前がマスクかぶる場面が来たら――」
「はい」
「遠慮すんなよ」
その一言に、敦は少し目を見張った。
「遠慮、ですか」
「“先輩に悪いから”とか、“正捕手のポジションだから”とか、余計なこと考えるな。試合でマスクかぶった時点で、それは“お前の守備位置”だ」
佐伯の声は、静かだが明らかに本気だった。
「マウンドでも、ホームベースの後ろでも、中途半端に立つと怪我するぞ」
「……はい」
「どうせやるなら、ちゃんと“取りに来い”。ポジションも、試合も、勝ちも」
その言葉に、胸の奥で何かがカチリと音を立てて噛み合うのを感じた。
「わかりました」
敦は、まっすぐ佐伯の目を見て答えた。
「全力で、取りに行きます」
「よし」
佐伯は短くうなずき、グラウンドの方へ視線を向けた。
「その方が、見てる方も燃えるからな」
その横顔は、どこか清々しく見えた。
*
家に帰って風呂と夕食を済ませたあと。
敦は机に向かいながら、スクリーンを意識的に呼び出した。
「ランナー一塁、ノーアウトからの配球シミュレーション。相手は右打者、中軸。足そこそこ速い」
声に出して条件を指定すると、スクリーンがすぐさま反応する。
――シミュレーション開始
・状況:一回裏、同点、ランナー一塁、ノーアウト
・打者:右打ち、中軸、長打力あり
画面の中で、仮想の打者がバッターボックスに立つ。
敦は、頭の中で投手になったり、捕手になったりしながら、初球のサインを考えた。
(初球、外角低めのストレート。ランナーのスタートを警戒して、クイックで)
送球、打者の反応、ランナーの動き。
スクリーンが、それぞれの結果をいくつかのパターンとして見せてくる。
(こういうのを、今のうちにどれだけやっておけるかだな)
時計を見ると、もうすぐ寝る時間だ。
勉強用のノートを閉じ、部屋の電気を少しだけ暗くする。
ベッドに横になり、天井を見つめながら、敦はゆっくりと息を吐いた。
(ベンチのラインは越えた。
次は、マウンドのライン。
それから――ホームベースの後ろのライン)
背番号はまだ練習用のままだ。
それでも、土曜日に袖を通すユニフォームは、今までとは違う意味を持つ。
チームの一員としてベンチに座る。
いつでも出られるように準備をしておく。
そして、もし「行け」と言われたら、迷わずマウンドか、ホームベースの後ろへ走る。
想像だけでも、心臓の鼓動が少し早くなる。
スクリーンが、静かに一行を表示した。
――土曜の目標
・「怖さ」よりも、「楽しさ」を一度でも感じること
「……それは、悪くない目標だな」
小さく笑いながら、敦は目を閉じた。
土曜日まで、あと二日。
その一日一日が、今までより少しだけ重く、そして少しだけ楽しみになっている自分がいた。
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