第8話 勉強とキャッチボール
火曜日の朝、敦は目覚ましが鳴ると同時に目を開けた。
体のだるさはあまりない。
筋肉痛も、「これくらいならちょうどいい」と思える程度だ。
(投げて、受けて、走って、この程度で済んでるのは……やっぱりスクリーンのおかげなんだろうな)
カーテンを開けると、晴れた空が広がっていた。
春と初夏の境目のような、少しだけ暖かさを増した空気が部屋に流れ込んでくる。
*
「おはよう」
「おはよう。昨日、テスト返ってきたんでしょ?」
母が、味噌汁をよそいながら振り向いた。
「うん。小テストだけど」
「どうだったの?」
「数学は満点だった」
「え?」
母の手が一瞬止まる。
「満点?」
「うん」
「本当に?」
「疑うのやめてくれない?」
そう言いながら、鞄からプリントを取り出してテーブルの上に置いた。
赤いペンで書かれた「100」の数字が、はっきりと目に入る。
「……すごい」
母が、素直に声を漏らした。
「いや、本当に。前はこんなの見たことなかったから」
「こっちも初めてだよ」
そこへ、新聞を読んでいた父が顔を上げた。
「何だ」
「これ。昨日の小テスト」
母がプリントを父の前に滑らせる。
父は視線を落とし、「ふむ」と短くうなずいた。
「たまたまかもしれないけどな」
「そう言うと思った」
「だが、“一回は取れた”という事実は残る。問題は、これを一度で終わらせるか、当たり前にするかだ」
「それは……そうだな」
十五歳の耳で聞くと少し説教めいているが、五十歳の頭で聞くと、ただの正論にしか聞こえない。
「部活が忙しいから勉強できません、という言い訳だけはするな」
「わかってるよ」
味噌汁をすすりながら答えると、視界の端でスクリーンが静かに光った。
――学業ミッション
・中間テストまで:あと28日
・現在の進行度:5% → 7%
「……上がり方が細かいな」
小さくつぶやいて、味噌汁椀を置いた。
*
教室に入ると、すでに何人かのクラスメイトが集まっていた。
「おはよう」
「おはよー」
席に向かおうとすると、中村がプリントをひらひらさせながら寄ってきた。
「おい、天才」
「誰のことだよ」
「数学満点の山下さん以外にいる?」
「その呼び方やめろ」
「だって事実だろ。昨日、答案見せてもらったけど、意味わからんレベルで全部合ってたぞ」
「ちゃんと勉強しただけだよ」
「はいはい。で――」
中村は、ノートを机に叩きつけるように置いた。
「中間テスト前に数学教えてくれるって話、覚えてるよな?」
「覚えてるよ」
「今日の放課後、部活までの時間に少し見てもらっていいか? 教室でも、図書室でもどこでもいいけど」
「いいよ。野球部の集合時間までなら」
「助かる」
中村は、心底ほっとしたような表情をした。
「最近、本当に危機感あるんだよな。部活と違って、勉強は根性だけでなんとかならない気がする」
「珍しく正しいこと言ってるな」
「そこは素直に褒めろよ」
そんな他愛もないやりとりをしているところへ、担任が教室に入ってきた。
「席つけー。ホームルーム始めるぞ」
月曜の重さは、もうそこまで残っていなかった。
火曜日からは、ちゃんと一週間が動き出す感じがする。
*
放課後。
野球部の集合時間まで、一時間弱。
敦と中村は、空き教室の一つを借りて、机を二つ向かい合わせにくっつけた。
「それじゃあ、特別講座・一次関数編を始めます」
「タイトルつけるな」
中村はノートを開き、シャーペンを握った。
「どこがわからないんだ」
「全部」
「それは困る」
「いや、その……グラフの読み取りとか、式を出すあたりまではまだついていけるんだけど、文章問題になると一気にわからなくなる」
「なるほど」
敦は、自分のプリントを取り出しながら言った。
「じゃあ、まずは“何を文字にするか”から決めるところだけ、一緒にやろう」
「そこから?」
「そこからだよ」
文章問題を一つ選び、問題文に線を引きながら説明する。
「ここ、“ある商品の値段と売れた個数の関係を式にしろ”って書いてあるだろ」
「ああ」
「つまり、“値段”と“個数”の関係を見つけろってことだ。だから、どっちかを x、どっちかを y にすればいい」
「どっちでもいいのか?」
「基本は、変わる方を x にして、結果の方を y にすることが多いかな」
中村は、少し唸りながらノートに書き込んでいく。
説明しながら、自分でも驚いていた。
前の人生では、こんなふうに誰かに勉強を教えたことなどほとんどなかった。
(口に出して説明すると、自分の理解も整理されるな)
スクリーンが、さりげなくメモを表示する。
――学習効率アップ
・他者に教えることで、自身の理解定着率が上昇します
「それは知ってる」
心の中で返事をしながら、もう一問、文章問題を解いてみせた。
「ほら、さっきの考え方を使えば、この問題もほとんど同じ構造だろ?」
「……あ、本当だ」
中村の顔に、ようやく「ああ、そういうことか」という表情が浮かんだ。
「なるほど。なんとなく、霧が少し晴れた感じはある」
「よかった」
「英語も頼める?」
「一気に増やすな」
そう言いながらも、敦は教科書を開いた。
*
勉強会を切り上げ、敦がグラウンドに向かったときには、すでに上級生の何人かがアップを始めていた。
「おはようございます!」
「おはよう」
佐伯が声を返してくる。
「今日は守備メインだ。特に、捕手も含めた内野の連係をしっかり確認する」
村井の声に、部員たちが整列する。
この日のメニューは、ランニングとストレッチのあと、すぐにシートノックへ移った。
打球は内野と外野にまんべんなく飛ばされ、捕って、投げて、カバーに入る動きが何度も繰り返される。
「山下!」
ファースト方向に転がった打球を処理していた一年の声が飛ぶ。
「はい!」
敦はカバーに入り、ボールを中継に回す。
キャッチャーの位置には佐伯がいて、ホームベース上でしっかりとボールを受け止めていた。
ひと通りのノックが終わると、捕手候補三人が呼び集められた。
「山岸、田島、山下。昨日に引き続き、捕手の基礎な」
佐伯が、キャッチャーミットをそれぞれに配る。
「今日はブロッキングとスローイングを少しだけ。まずはワンバウンドの止め方からだ」
敦はホームベースの後ろにしゃがみ、ミットを構えた。
目の前には、投手用のマウンドではなく、少し前に出た位置でボールを投げる先輩が立っている。
ショートバウンドのボールが、次々に飛んでくる。
膝と腰でボールに寄り、ミットの下側を使って前に落とす。
「体で止めろ。“捕りに行く”より、“後ろにそらさない”意識だ」
「わかってます」
土の上を跳ねる感触が、じわじわと足腰に響いてくる。
前の人生で経験した草野球とは、明らかにボールの質も、練習の密度も違っていた。
「よし、次は二塁送球だ」
佐伯が言うと、マウンドには別の先輩が立ち、軽く投球フォームでボールを投げてくる。
それを捕り、素早く立ち上がって二塁に投げる練習だ。
「一歩目の足の位置を意識しろ。慌てて投げようとして、足が絡まるやつが多い」
「了解です」
敦は、ボールをミットで受け、すぐに右手で握り直してステップを踏む。
グラブからボールが離れた瞬間、腕のしなりが自然に出た。
シュッという音を立てて、ボールが二塁ベース付近へ一直線に飛ぶ。
「ナイススロー!」
二塁で受けていた内野手が声を上げる。
「送球タイム、今のは――」
タイムを計っていた部員が、ストップウォッチを見た。
「二秒〇八です!」
「おいおい、いきなりそれは反則だろ」
佐伯が苦笑する。
「普通は、最初は二秒二〜三あたりだぞ」
「すみません……」
「謝るところじゃない。ただ、だからこそ、正確さを優先しろ。暴投したら意味がないからな」
「はい」
スクリーンが、視界の隅で小さく光った。
――捕手スキル
・二塁送球ポテンシャル:高
・現状安定度:低(再現性要改善)
(そう簡単に“武器”扱いにはしない、ということか)
少しだけ悔しさを覚えながらも、敦は次のボールを待った。
*
捕手練習が終わると、今度は打撃練習の時間になった。
「山下、お前も多めに打席に入れ」
佐伯が、バッティングケージの方を指さす。
「投手組だからといって、打席を減らすつもりはない。紅白戦の一本が“たまたま”かどうか、確かめる」
「わかりました」
敦はヘルメットをかぶり、バットを握った。
「球数は?」
「とりあえず二十。タイミングとスイングの軌道を見たい」
ピッチャー側には、マシンではなく上級生が入っていた。
実際の投球フォームで、打ちやすめの球を投げてくれる練習だ。
第一球。
アウトコース低めのストレート。
見送ってストライク。
(今のは無理に打ちに行かなくていい球だな)
スクリーンが、バットの軌道を線で示しながら表示する。
――スイング解析(簡易)
・トップ位置:安定
・バットの出方:やや遠回り
(やっぱり、まだ無駄があるか)
二球目。
今度はミドル付近に来たストレートを、コンパクトに振り抜く。
カキン、といい音が鳴り、打球はセンター方向へ伸びた。
フェンスまでは届かないが、外野の頭上を越えるライナー性の打球だ。
「ナイスバッティング!」
外野の先輩が声をかける。
三球目、四球目も、甘い球はしっかり捉えた。
凡打になる打球もあったが、完全に差し込まれているわけではない。
途中で、村井がネット越しにこちらを見ていた。
「スイング自体は悪くないな」
最後の球を打ち終えたところで、村井が声をかける。
「ただ、少し“打ちに行きすぎている”ところがある」
「打ちに行きすぎている?」
「そうだ。なんとか前に飛ばそうとして、体幹よりも腕の力でインパクトしようとしている」
そう言いながら、村井は敦の両肩に軽く手を置いた。
「もっと、下半身でボールを受け止めて、腕は最後に“ついてくる”くらいでいい」
「なるほど……」
言葉は簡単だが、実際に身体で表現するのは難しい。
だが、スクリーンがさりげなく助け舟を出してくる。
――打撃ヒント
・インパクト時、前脚の膝の角度を意識
・上半身の開きを抑え、ボールを引きつける
(細かいな)
敦は、素振りで感覚を確かめた。
下半身で軸を作り、ボールをできるだけ引きつける。
そのまま最短距離でバットを出す。
「もう十球いけるか?」
村井が問う。
「いけます」
「じゃあ、今の意識で」
再び打席に入り、投球を待つ。
体の軸を意識し、ボールを引きつけて――振る。
打球は、さっきよりも少しだけ角度のついたライナーになった。
「いいじゃないか」
村井が、わずかに口元を緩めた。
「山下、お前の打撃は“意外性”だけで終わらせるつもりはない。どうせ投げるなら、打席でも相手にプレッシャーを与えられる存在になれ」
「はい」
「そのためにも、フォームは今のうちに固めておけ」
短い言葉。
だが、それは明らかな期待の表れだった。
*
練習が終わると、空はすっかり暗くなっていた。
グラウンド脇で荷物をまとめていると、背後から声がかかる。
「お疲れ」
振り向くと、クラスメイトでもある女子が立っていた。
ポニーテールにした髪を後ろでまとめ、体操服の上からウインドブレーカーを羽織っている。
「……藤井?」
「あ、ちゃんと覚えてたんだ」
同じクラスの藤井沙耶。
クラス委員の女子で、学級日誌を書いていたり、先生に頼まれごとをされていることが多い。
「どうした」
「先生に頼まれて、野球部の連絡プリント持ってきた。今週の土曜日の練習試合のやつ」
「練習試合?」
初耳の単語に、敦は思わず聞き返した。
「うん。相手校から連絡が来たらしくて。先生、職員会議行っちゃったから、“野球部の誰かに渡して”って頼まれた」
藤井は、少し申し訳なさそうに笑った。
「たまたま廊下で捕まっただけ」
「助かる。預かるよ」
プリントを受け取りながら、ざっと目を通す。
土曜日の午後、近隣の公立高校との練習試合。
場所は相手校のグラウンド。
集合時間や持ち物が細かく書かれていた。
(公式戦ではないけど、“対外試合”だな)
心臓が、少しだけ早くなる。
「野球、大変そうだね」
藤井が言う。
「グラウンドの方から、毎日すごい声聞こえる」
「まあ、それなりに」
「でも、楽しそう」
その一言は、素直な感想のように聞こえた。
「……そうかもな」
敦は、正直に答えた。
「辛いことも多いけど、やり甲斐はある」
「勉強の方は?」
「それなりに」
「さっき、数学満点って先生が職員室で言ってたよ」
「職員室で話題にするのやめてほしいんだけど」
「いいじゃない。褒められてるんだから」
藤井は、少しだけ真剣な表情になった。
「中間テスト、がんばるんでしょ?」
「まあ、一応」
「“一応”じゃなくて、“ちゃんと”がんばりなよ。部活も、テストも」
言われなくてもそのつもりだ――と返しかけて、敦は口をつぐんだ。
前の人生で、こういう「まっすぐな言葉」を向けられた記憶はあまりない。
だからこそ、少し照れくさい。
「……がんばるよ」
結局、短くそう答えた。
「うん」
藤井は、それで満足したようにうなずいた。
「じゃあ、プリントのこと、監督にちゃんと言っておいてね」
「わかった」
藤井がグラウンドを離れていく背中を見送りながら、敦はプリントをもう一度見た。
(土曜日の練習試合か)
スクリーンが、視界の端で静かに明滅する。
――新規ミッション
・初対外試合での登板チャンス
→ 条件:監督からの信頼度・現在値では“微妙”です
「勝手に“微妙”とか言うな」
心の中でツッコミを入れる。
だが、現実として、まだ一年で公式の試合経験もない自分が、すぐに登板機会を与えられるとは限らない。
(それでも、準備だけはしておく)
そう決めて、自転車置き場へ向かった。
*
家に帰り、風呂と夕食を済ませると、敦は机に向かった。
英語の教科書とノートを開き、単語と文法の確認をする。
しばらく問題を解いていると、スクリーンがそっと現れた。
――学業ミッション進行度
・本日の勉強時間:1時間14分
・累計:目標の9%
「地味だな」
そう思いながらも、少しだけ達成感はあった。
ペンを置き、軽く伸びをしたとき、スクリーンが別のウィンドウを開く。
――人間関係・信頼度(簡易)
・中村:友人/信頼度 35
・佐伯:先輩(捕手)/信頼度 32
・篠原:先輩(投手)/信頼度 30
・藤井:クラスメイト/興味度 18
「……興味度?」
思わず、そこだけ読み返した。
「余計なパラメータをつけるな」
そう言いながらも、なぜか視線がその数字から離れなかった。
(まあでも、確かに……)
クラスメイトとの距離感は、前の人生よりも少しだけ近い。
それは、間違いない事実だ。
窓の外を見ると、住宅街の明かりが点々と灯っている。
学校。
野球部。
家族。
友人。
その一つ一つが、今の敦にとっての「居場所」になりつつある。
(どれかを捨てて何かを手に入れるんじゃなくて、全部抱えたまま、どこまで行けるかやってみたい)
そんな欲張りな考えが、自然と頭に浮かんだ。
スクリーンが、静かに一行だけメッセージを表示する。
――長期ミッション補足
・“全部欲しい”という欲は、成功に必要な要素の一つです
「たまには、いいこと言うな」
小さく笑いながら、敦はベッドに横になった。
土曜日の練習試合。
そのマウンドに、自分が立っている姿を想像してみる。
投げる自分。
打席に立つ自分。
そして、捕手としてマスクをかぶる自分。
どの姿も、まだ頭の中でしか存在していない。
それでも、そのどれもが「不可能だ」とは思わなかった。
そう思えるだけの“やり直しの時間”が、今はちゃんと目の前にある。
目を閉じると、グラウンドの土の匂いと、バットの音が、かすかに耳の奥で蘇った。
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