第二部:沈黙の冷戦
第四章:銃を構えた平和
世界から「音」が消えて、三ヶ月が過ぎた。
佐藤健二は、午前五時五十分に目を覚ました。目覚まし時計は必要ない。生存本能が、リセットの時刻に合わせて脳を叩き起こすからだ。
薄暗い部屋。窓は厚いベニヤ板と鉄板で塞がれている。
健二は息を潜め、壁に耳を当てる。
隣の部屋の住人が動く気配はない。上の階からも物音はしない。
生きているのか、死んでいるのか。あるいは、息を殺してこちらの様子を伺っているのか。
(……あと一分)
健二は右手を握りしめ、冷や汗を拭った。
この三ヶ月で、人類はひとつのルールを学習した。
『魔法を使った者から死ぬ』
誰かを攻撃するために魔法を使えば、その瞬間、自分は丸腰になる。防御手段を失った人間は、ハイエナたちの格好の餌食だ。
だから、誰も使わない。
誰もが「いつでも撃てるぞ」という顔をして、互いに銃口を突きつけ合いながら、沈黙を守っている。
これを平和と呼ぶのなら、これほど神経を削る平和はなかった。
午前六時ちょうど。
脳内で小さなクリック音がした。
《残数:1/1》
弾丸が補充された。健二は深く息を吐き、緊張で強張っていた筋肉を緩めた。
今日もまた、何も願わない一日が始まる。
第五章:灰色の巡礼
食料を探すために外へ出る。
街の風景は一変していた。
かつてのオフィス街は、シュルレアリスムの絵画のように歪んでいる。
四月一日の「祭りの日」に、誰かが重力を半減させ、誰かがビルを巨大なケーキに変え、誰かが空を深海に変えた。それらの魔法の効果は永続し、奇妙な生態系を形成している。
空には、魚のような形をした雲が泳ぎ、地面にはガラス質の植物が生い茂っている。
健二は灰色のフードを目深にかぶり、足音を立てずに歩いた。
すれ違う人々は皆、亡霊のようだ。
目を合わせてはいけない。目を合わせることは「敵意」とみなされる。
口を開いてはいけない。言葉を発することは「詠唱」の予備動作とみなされる。
コンビニエンスストアの跡地に辿り着く。
棚は空っぽだが、瓦礫の下に缶詰が埋もれていることがある。
健二が慎重に瓦礫をどけていると、背後で砂利を踏む音がした。
ビクリとして振り返る。
中年男が立っていた。右手にバールのような鉄パイプを持っている。
この世界で、物理的な武器は意味を持たないはずだ。魔法の前では鉄パイプなど爪楊枝に等しい。だが、男はそれを構えていた。
意味はひとつ。
「俺は魔法を温存したまま、暴力でお前を殺せる」というアピールだ。
男の目が血走っている。
(やる気か?)
健二は右手をポケットに入れたまま、相手に向けた。
ここで魔法を使えば、男を消せる。だが、その瞬間を誰かに見られていたら? 帰り道、丸腰の自分は別の誰かに狩られるだろう。
男もそれが分かっている。だから、ギリギリまで魔法を使わせようと圧をかけてくる。
チキンレースだ。
睨み合いが十秒続いた。
健二の額を汗が伝う。
その時、遠くで爆発音が響いた。
誰かが理性を失って発砲したのだ。
男の気が逸れた。健二はその隙に、脱兎のごとく走り出した。
背後から怒号が聞こえたが、追ってはこなかった。男もまた、走って体力を消耗するリスクを恐れたのだ。
路地裏に逃げ込み、肩で息をする。
心臓が早鐘を打っている。
「……クソが」
声にならぬ声で悪態をつく。
こんな毎日。
ただ呼吸をするためだけに、精神をすり減らす毎日。
健二の心から、かつての温厚さは完全に削げ落ちていた。残っているのは、鋭利で冷たい殺意だけだ。
第六章:女王の凱旋
その光景を見たのは、逃げ込んだ先の公園だった。
かつて噴水があった場所広場に、数十人の集団がいた。
彼らは全員、同じ白いコートを身に纏っている。
健二は植え込みの陰に隠れ、息を呑んだ。
「組織」だ。
孤独な個人が互いを牽制し合うこの世界で、最も恐ろしい存在。
十人の仲間がいれば、十発の魔法がある。一人が攻撃に使っても、残りの九人が守ればいい。数の暴力が、ここでは絶対的な支配力を持つ。
集団の中央に、豪奢な椅子に座る人物がいた。
周囲の人間が、跪いてその人物に缶詰や水を献上している。
健二は目を疑った。
煌びやかなドレス。透き通るような肌。そして、周囲を睥睨する冷酷な瞳。
「……美咲?」
そこにいたのは、三ヶ月前、健二を見捨てて出て行った高橋美咲だった。
彼女は見違えるほど美しく、そして禍々しくなっていた。
彼女の横に、屈強な男が捕らえられて引きずり出された。先ほど健二を襲おうとした中年男だ。
「女王様、この男が我々の縄張りに侵入しました」
部下の報告に、美咲はあくびを噛み殺しながら答えた。
「そう。じゃあ、処分して」
美咲は指先ひとつ動かさない。
部下の一人が前に進み出た。
「私がやります」
部下が手をかざす。
中年男が絶叫する。「待ってくれ! 俺はまだ使ってない! 道連れにしてやる!」
男が最後のあがきで魔法を使おうとする。
だが、それより速く、部下の魔法が発動した。
ドンッ!
男の体が、内側から破裂したように四散した。血の雨が降る。
美咲は顔色ひとつ変えず、ワイングラス――中身は本物のワインか、あるいは血か――を傾けた。
「ご苦労さま。貴方の『今日の献身』、覚えておくわ」
美咲が微笑むと、魔法を使って無防備になった部下は、恍惚とした表情で涙を流した。
「光栄です……!」
健二は震えが止まらなかった。
彼女はシステムを作り上げたのだ。
信者たちに日替わりで魔法を使わせ、自分は常に魔法を温存したまま君臨する。
「飽和する祈り」を束ね、暴力装置として運用する悪魔的才能。
その時、美咲の視線が、ふと健二の隠れている植え込みに向けられた気がした。
目が合った。
いや、気のせいか?
数秒の沈黙の後、美咲は興味なさそうに視線を外した。
彼女にとって、今の健二など、路傍の石ころ以下の存在なのだ。
健二は這うようにしてその場を去った。
恐怖と、そしてどす黒い屈辱が胸に渦巻いていた。
(僕は這いつくばって泥水をすすっているのに、彼女は女王だって?)
許せない。
この歪んだ世界も、それを支配する彼女も。
そして何より、何もできない無力な自分が。
アパートに戻った健二は、暗闇の中で一点を見つめ続けた。
生き残るだけではダメだ。
この膠着状態(コールド・ウォー)を打破するには、まともな手段では不可能だ。
健二の脳裏に、ある狂気的なアイデアが閃いた。
それは、世界中の誰ひとりとして試そうとしなかった、タブー中のタブー。
「魔法で、魔法そのものを書き換えることはできるのか?」
たとえば、他人の魔法を奪うことは?
たとえば、一日の回数制限を突破することは?
もし失敗すれば、自分は消滅するだろう。
だが、このまま野垂れ死ぬよりはマシだ。
健二は三ヶ月ぶりに、声を出して笑った。
乾いた、壊れたラジオのような笑い声が、狭い部屋に響いた。
(第二部 完)
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