『飽和する祈り』
さんたな
第一部:崩壊の序曲
プロローグ:0日目の黙示録
世界が終わる瞬間、天使のラッパは鳴らなかった。
地割れも起きなければ、空が割れることもなかった。
ただ、二〇二X年四月一日、午前零時ちょうど。
世界中の七十億人の脳髄に、ある「機能」が静かにインストールされただけだった。
――《本日の魔法行使権が付与されました》
――《残数:1/1》
――《リセット時刻:明朝06:00》
それは音声ではなく、認識として訪れた。
まるで「右手の動かし方」や「呼吸の仕方」を思い出すように、人類は唐突に理解したのだ。「願う」という行為が、物理法則を書き換えるトリガーになったことを。
最初の数分間、世界は深夜の静寂に包まれていた。
誰もが酔っ払いの戯言か、集団幻覚だと思った。
だが、事態はすぐに動き出した。
東京、ある大学病院の集中治療室。
末期癌でモルヒネの投与を受けていた老人が、激痛の中で最後の息を吐きながら念じた。
『死にたくない』
次の瞬間、心電図のモニターが異常な数値を示し、直後に停止した。死んだのではない。老人の皮膚が泡立つように波打ち、全身の腫瘍が黒い蒸気となって毛穴から噴出したのだ。老人はチューブを引きちぎり、十代の若者のような肌艶でベッドの上に立ち上がった。
駆けつけた看護師の悲鳴が、新しい時代の幕開けを告げた。
同時刻、地球の裏側では、残業に疲れたプログラマーが『会社ごと消えてしまえ』とキーボードに突っ伏して呟いた。
翌朝、そこには巨大なクレーターだけが残されていた。
神は死んだのではない。
人類全員が、質の悪い神になったのだ。
第一章:満員電車の密室劇
午前七時五十分。
佐藤健二(二十九歳)は、いつものように東西線の吊革にぶら下がっていた。
彼という人間を構成する要素は貧しい。
中堅食品商社の営業事務。手取り二十三万。独身。趣味は特になし。将来の夢は「平穏無事」。
そんな彼の脳内にも、昨夜から奇妙な感覚が居座っていた。
(魔法、ねえ……)
ネットニュースは既にその話題で持ちきりだった。「アメリカ大統領が会見中に空を飛んだ」「富士山が金色になった」などの真偽不明な情報が錯綜している。
だが、健二にとって目の前の現実は、隣のおじさんの強烈な整髪料の臭いと、肋骨を圧迫するサラリーマンの鞄だけだった。
魔法が使えるなら、もっとマシな世界になっているはずだ。そう自分に言い聞かせ、健二は目を閉じた。
異変は、車両が大手町駅に近づいた頃に起きた。
車両の奥で、赤ん坊が泣き出したのだ。
火がついたような絶叫。母親が必死にあやすが、泣き止まない。
混雑率百八十パーセントの密室。湿気と疲労。乗客たちの神経はささくれ立っていた。
健二の斜め前にいた、充血した目をした大柄な男が舌打ちをした。
「……うるせえな」
男は憎々しげに赤ん坊の方を睨んだ。
「黙れよ、クソガキ」
その言葉に、明確な殺意と「意志」が乗ったのを、健二は肌で感じた。
ふっ、と音が消えた。
赤ん坊が泣き止んだのではない。赤ん坊の顔から、「口」という器官が消失していた。
鼻から下が、つるりとした皮膚だけで覆われている。のっぺらぼう。
「ひっ……!」
母親が悲鳴を上げた。「口が! 口がない! 息ができない!」
赤ん坊は紫色になり、手足をバタつかせはじめる。呼吸ができないのだ。
車内が凍りついた。
全員が理解した。これは「魔法」だ。そして、犯人はこの中にいる。
だが、誰も動かなかった。
健二もまた、凍りついていた。
(助けなきゃ。願えばいいんだ。『元に戻れ』と)
脳内のスイッチに意識を向ける。だが、押せない。
もしここで魔法を使えば、自分の一回分が消える。この異常事態の中で、自分を守るための切り札を失うことになる。
見知らぬ他人のために? 自分が無防備になっても?
葛藤している間に、赤ん坊の動きが鈍くなる。
その時、車両の隅にいた女子高生が泣きながら叫んだ。
「やだ! 助けて!」
彼女の体から光が溢れた。
次の瞬間、赤ん坊の口が「割れた」。空気を吸い込み、再び大きな泣き声を上げる。
女子高生はその場に崩れ落ちた。彼女は「今日の権利」を使ってしまったのだ。
犯人の男が、ニヤリと笑ったのを健二は見た。
男は勝ち誇っていた。自分は気に入らない音を消そうとし、それを他人のリソースで修復させた。自分は匿名の中に隠れたままだ。
電車が緊急停止する。
ドアが開いた瞬間、健二は逃げるようにホームへ吐き出された。
嘔吐感が止まらなかった。
赤ん坊の姿への恐怖ではない。
目の前で死にかけている子供を見ながら、「自分の権利を温存しようとした」自身の浅ましさに、吐き気がしたのだ。
第二章:極彩色のディストピア
会社に辿り着いた時、そこはもう健二の知る職場ではなかった。
世界は数時間で変貌していた。
誰かが空の色を変えたらしく、窓の外は毒々しい紫色の空に覆われている。重力がバグを起こしているのか、向かいのビルの看板が空中に静止していた。
オフィスに入ると、異様な熱気が渦巻いていた。
真面目一筋だった経理の女性が、絶世の美女に若返って鏡に見とれている。
万年平社員の田中が、札束の山をデスクに出現させてばら撒いている。
もはや仕事など誰もしていない。
当然だ。欲しいものは願えば出る。嫌な上司は消せばいい。
「あ、佐藤くん。おはよう」
声をかけてきたのは、総務部の高橋美咲だった。
社内のマドンナ的存在。健二にとっては高嶺の花であり、密かに想いを寄せる相手だ。
彼女はいつもと変わらぬ笑顔だったが、その手には見たこともない宝石のネックレスが握られていた。
「おはようございます、美咲さん……これ、どうなってるんですか」
「素敵よねえ。佐藤くんはもう使った?」
「いえ、まだ……」
「そう。それは賢いかも」
美咲は意味深に微笑み、声を潜めた。
「さっきね、部長が消されたの」
「えっ」
「営業の誰かがやったみたい。『消えろ』って。そしたら本当に塵になっちゃって。……スッキリしたけど、ちょっと怖いわよね」
彼女はそう言いながらも、部長の席――今はただの空洞――を冷めた目で見つめていた。
そこには倫理観など微塵もなかった。あるのは、タガが外れた世界への順応だけだ。
その日の午後、事態は悪化した。
政府(と呼べるものがまだ機能していればだが)から緊急放送が入るはずだったが、テレビ局が爆破されたのか、砂嵐しか映らない。
窓の外では、あちこちで火の手が上がっていた。
「あいつを殺したい」「あのビルが邪魔だ」「俺を最強にしろ」
無秩序な願いが交錯し、物理法則が悲鳴を上げている。
夕方、美咲が健二のデスクにやってきた。
彼女は震えていた。
「佐藤くん、家まで送ってくれない?」
「え、あ、はい。もちろん」
「私、怖くて。今日まだ使ってないよね? お願い、私を守って」
彼女の懇願に、健二の胸が高鳴った。
頼られている。この世界の終わりのような状況で、彼女は自分を選んでくれた。
健二は力強く頷いた。
「任せてください。僕が必ず守ります」
それが、自分の首を絞める契約だとも知らずに。
第三章:渇きと裏切り
夜の街は戦場だった。
アスファルトには一万円札がゴミのように散乱し、誰も見向きもしない。
時折、上空を巨大な怪鳥のような影が横切る。誰かの悪夢が具現化したのだろうか。
健二と美咲は、路地裏を避けて大通りを急いだ。
すれ違う人々は、互いに距離を取り、ポケットに手を入れて牽制しあっている。
「撃つか、撃たれるか」
一日に一発だけの弾丸が入った銃を突きつけ合う、ロシアンルーレット。
どうにか健二のワンルームマンションに辿り着いた。
ドアをロックし、さらに家具でバリケードを築く。
窓の外からは、絶え間なく爆発音と悲鳴が聞こえてくる。
「ありがとう、佐藤くん」
暗い部屋の中で、美咲が健二の隣に座る。
彼女の甘い香りが、死の臭いが充満する世界で唯一の救いだった。
二人は身を寄せ合い、ただ朝を待った。
午前六時になれば、魔法の使用権が回復する。そうすれば、また一日生き延びられる。
だが、深夜二時。
運命のノックが響いた。
ガン、ガン、ガン!
乱暴な音だ。
「おい、水を出せ!」
ドアの向こうから男の声がする。
「上の階の者だ。水道が止まったんだよ。魔法で水を出せ!」
健二は息を呑んだ。
水なら、さっきコンビニで奪い合うように確保したペットボトルがある。だが、ドアを開けるのは危険すぎる。
「……すみません、ありません」
健二は震える声で嘘をついた。
沈黙。
そして、ドスの効いた声が響いた。
「ケチな野郎だ。……てめえなんか、一生喉が渇き続けろ!」
ゾクリ、と悪寒が走った。
次の瞬間、健二の喉から水分が消滅した。
口の中が一瞬で砂漠になる。舌がひび割れ、喉の奥が焼きつくように痛む。
「あ、が……っ!?」
健二は床に転げ回った。水を飲もうとするが、ペットボトルの水は口に入れた瞬間に蒸発する。
呪いだ。
「渇き続けろ」という魔法が、物理的に水分を拒絶しているのだ。
呼吸もできない。死ぬ。
「佐藤くん!」
美咲が叫ぶ。
「使って! 魔法を使って治して!」
健二の視界が霞む。
今、魔法を使えば。
自分の命は助かる。だが、権利を失う。
あと四時間、自分たちは丸腰になる。
しかし、この痛みには耐えられない。
(治れ……ッ! 俺の体、元に戻れ!)
脳内のスイッチを押した。
清涼な風が体を駆け巡る。喉の痛みが消え、唾液が溢れ出す。
健二は激しく咳き込みながら、生還した。
「はあ、はあ……助かった……」
床に大の字になり、荒い息をつく。
よかった。死なずに済んだ。
そう思って顔を上げた時、健二は見てしまった。
美咲の目が、冷たく光っているのを。
「あーあ」
美咲はため息をついた。
「使っちゃったね、佐藤くん」
「え……?」
「期待してたのに。いざという時の弾除けになると思ったからついてきたのに。もう弾切れじゃん」
彼女の声から、媚びや甘さが完全に消え失せていた。
美咲は立ち上がり、部屋の隅にあった健二の防災リュックを背負った。
「じゃあね。私、もっと強い人のところに行くから」
「ま、待って、美咲さん……?」
「ついてこないでね。無防備な人間と一緒にいると、こっちまで狙われるから」
彼女は躊躇なくバリケードをどけ、ドアを開けた。
廊下からの冷たい風が吹き込む。
美咲は一度も振り返らず、闇の中へと消えていった。
残されたのは、佐藤健二ひとり。
魔法を使い果たし、食料を持ち去られ、愛した女性に見捨てられた、二十九歳の男。
彼は開け放たれたドアの前で、膝を抱えた。
涙は出なかった。
ただ、心の奥底で、ドロドロとした黒い感情が渦を巻き始めていた。
それは「祈り」などという綺麗なものではなく、もっと原始的な「呪い」に近い何かだった。
(許さない……。全員、消えてしまえ……)
遠くで時計台の鐘が鳴る。
午前三時。
世界が壊れていく音を聞きながら、健二の長い長い一日目が、ようやく終わろうとしていた。
(第一部 完)
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