第三部:神々の黄昏(ラグナロク)

第七章:禁忌の捕食者

​ その男が現れた時、誰も彼を佐藤健二だとは認識できなかった。

 かつての猫背で気弱なサラリーマンの影はない。

 ボロボロの灰色のローブを纏い、その体からは黒い靄(もや)のようなものが立ち昇っていた。

​ 健二は、午前六時のリセットを待たなかった。

 彼が三ヶ月前のあの夜、最後に願ったこと――それは物理的な現象ではなく、システムへの干渉だった。

 『俺が殺した人間の「権利」を奪いたい』

 それは、ルールブックの余白に無理やり書き込まれたバグのような願いだった。通常なら却下されるか、あるいは脳が焼き切れるはずの願い。しかし、狂気に満ちた世界はこの「悪意」を受理した。

​ 健二は歩いていた。

 美咲が支配するエリアの境界線。

 見張り役の男が二人、血相を変えて飛び出してくる。

「止まれ! ここが誰の土地か分かって……」

​ 健二は無言で右手を振った。

 瞬間、男たちの首が、見えない刃で切り落とされた。鮮血が噴き出すより早く、彼らの体から青白い光の粒子が抜け出し、健二の胸元へと吸い込まれていく。

 《権利獲得:+2》

 脳内でカウンターが回る音がした。

​「……足りない」

 健二の声は、擦り切れた金属音のように響いた。

「世界を黙らせるには、まだ全然足りない」

​ 彼は奪ったばかりの魔法を使い、空中を蹴って飛翔した。

 目指すは公園の中心。偽りの女王が座る玉座だ。

​第八章:硝子の女王

​ 公園は阿鼻叫喚に包まれていた。

 空からは雷が降り注ぎ、地面からは槍のような岩が突き出す。健二はそれらすべてを、奪い取った無数の魔法で相殺しながら進撃した。

 信者たちは恐慌状態に陥っていた。

 「なんだあいつは!」「魔法が効かない!」「逃げろ!」

 逃げる背中に、健二は容赦なく「停止」の魔法を撃ち込む。石像のように固まった人間から、また一つ権利を奪う。

​ やがて、彼は広場に辿り着いた。

 瓦礫と死体の山の上に、美咲は立っていた。

 彼女の周りだけ、奇妙なほど静かだった。白いドレスには一滴の血もついていない。

​「……久しぶりね、佐藤くん」

 美咲は微笑んでいた。だが、その笑顔は陶器の人形のように無機質だった。

「随分と、男らしくなったじゃない」

「美咲さん」

 健二は立ち止まった。黒い靄を纏ったまま、かつて愛した女性を見つめる。

「終わらせに来ました。このふざけたごっこ遊びを」

​「終わらせる? どうやって?」

 美咲は艶然と笑い、両手を広げた。

「世界はもう、こういう風になっちゃったの。強い願いを持つ者が勝ち、弱い者は食われる。貴方も今、それをやっているじゃない」

​ 彼女の背後から、巨大な影が立ち上がった。

 彼女に心酔する信者たちの魂を融合させて作った、半透明の巨人だ。

「佐藤くん、貴方のその力、素敵ね。私のコレクションに加えさせて」

​ 巨人の拳が振り下ろされる。

 健二は動かなかった。ただ、悲しげに呟いた。

「……貴方は、何も見ていないんだな」

​ 健二は右手をかざした。

 彼の中にストックされた数百人分の「祈り」が一斉に励起する。

 防御も、回避もしない。

 彼が選んだのは、もっと単純で、残酷な魔法だった。

​ 『その美しさを、永遠に固定しろ』

​ 閃光が走った。

 巨人の拳が霧散する。

 そして、美咲の体が、足元から急速に透明な物質へと変異していく。

「え……?」

 美咲が自分の手を見る。透き通るガラス。血管も、骨も、すべてが美しいクリスタルに変わっていく。

「いや……待って、佐藤くん、いや……!」

 恐怖に歪む表情すら、芸術的なまでに美しかった。

「私は女王よ! 世界の……!」

​ パキリ、と音がした。

 高橋美咲は、その絶望の表情を浮かべたまま、精巧な硝子細工の像へと変わった。

 彼女は永遠の若さと美しさを手に入れた。もはや誰にも傷つけられず、老いることもない。

 ただ、二度と動くことも、喋ることもできないけれど。

​ 健二は硝子の像に近づき、その冷たい頬に触れた。

「さよなら」

 彼の手が離れると、像はバランスを崩し、地面に倒れた。

 ガシャン、という乾いた音が、静寂を取り戻した広場に響き渡った。

​第九章:飽和点(サチュレーション・ポイント)

​ 女王を倒した健二は、その場の生存者全員から権利を吸い上げ、天へ向かった。

 空を飛び、雲を突き抜け、成層圏へ。

 眼下には、歪みきった地球が広がっていた。

 毒々しい紫の海、隆起した大陸、燃え続ける都市。

 70億の欲望が描き殴った、汚い落書きのような惑星。

​ 健二の脳内には、今や数千、数万回分の魔法行使権が渦巻いていた。

 これだけのエネルギーがあれば、あるいは。

​「戻れ……」

 健二は宇宙空間で、地球に向かって叫んだ。音のない世界で、思考だけが絶叫する。

『世界を、あの日以前に戻してくれ!』

​ 莫大な光が地球を包み込む。

 一瞬、地上の景色が揺らいだ。壊れたビルが修復され、歪んだ重力が正されようとする。

 だが。

 すぐに強烈な「抵抗」が発生した。

​ 地上に生きる何億もの人間たちが、無意識に願っているのだ。

 『今のままでいい』『もっと奪いたい』『あいつを殺したい』『死にたくない』

 無数の汚いノイズが、健二の願いを押し返そうとする。

 

 (ダメか……!)

 健二は歯噛みした。

 システムは民主主義だ。一人の強大な願いよりも、七十億人の「現状維持(カオス)」への渇望が勝る。

 このままでは、押し切られる。

​ 健二の目から血涙が流れた。

 脳が焼き切れそうだ。

 どうすればいい? どうすれば、この騒音を止められる?

 「平和」とはなんだ?

 争いがないことだ。

 なぜ争いが起きる? 願いがあるからだ。

 なぜ願いがある? 「私」があるからだ。

​ 健二の中で、ある冷徹な論理が組み上がった。

 世界を元に戻すことは不可能だ。人間が人間である限り、この地獄は続く。

 ならば。

 世界を救う方法は、ただ一つ。

​ 健二は最後の力を振り絞り、全人類の脳髄に接続されているシステムに向かって、新たなコマンドを入力した。

 それは、究極のバッドエンドへの引き金。

​ 『全人類の、「自我」を削除しろ』

​最終章:楽園の箱庭

​ 二〇二X年、×月×日。

 世界は平和になった。

​ 朝の光が、廃墟の街を照らしている。

 佐藤健二は、瓦礫の山の上に座って、ぼんやりと空を見上げていた。

 お腹が空いた。

 彼は右手を振った。虚空から温かいパンとスープが現れる。

 彼はそれを口に運ぶ。味は美味しい。栄養も満たされる。

 だが、「美味しい」という感想はない。

 「もっと食べたい」という欲求もない。

 ただ、カロリーを摂取するというタスクが完了しただけだ。

​ 街を見下ろせば、他の人間たちも同様だった。

 彼らは徘徊し、腹が減れば魔法で食事を出し、眠くなればその場で魔法でベッドを作って眠る。

 争いは消滅した。

 誰も他人に関心がないからだ。

 羨むことも、憎むことも、愛することもない。

 彼らは高度な知能を持った昆虫のように、ただ「生存」というプログラムを繰り返していた。

​ 魔法はまだ存在している。

 だが、もはや誰も「世界を変えたい」とは願わない。

 「空を飛びたい」とも、「あの子を振り向かせたい」とも思わない。

 飽和した祈りは、完全な真空へと変わった。

​ 健二の足元には、砕け散った硝子の破片が転がっていた。

 かつて高橋美咲だったものの残骸だ。

 健二はそれを踏みつけて歩き出す。何も感じない。

 思い出も、後悔も、悲しみも、すべて消えた。

​ 彼は廃墟の中を歩き続ける。

 死ぬまで。いや、死ぬことすら願わないまま、永遠に。

 そこは、苦しみのない世界。

 誰も傷つかない世界。

​ ――これぞまさしく、人類が求め続けた「理想郷(ユートピア)」の完成形だった。

​(『飽和する祈り』 全三部作 完)

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『飽和する祈り』 さんたな @Konnithiha

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