第2話

結論から言うと、そのタスクは削除も、完了済みにすることもできなかった。


それはそうだ。手探りで作っているうちに、タスクの作成以外の機能に重大なバグを抱えてしまっていたらしく、タスクの削除・編集が不可能になってしまった。

そこで心が少し、ほんの少しだけ折れてしまい、しばらく放置していたのだ。

それが進級前の三ヶ月足らずくらい前の話だ。


それ以降コードすら見ていないのだが、晴れて昨日、遂に長き沈黙を破り、なんとクラスのクールビューティーのタスクが自動追加されるアップデートがいつの間にか実装されていた。


なにそれ……怖い……。

冷静に考えたらホラーである。


異変に気づいたのは昨日。それも、体育の授業前の休み時間だ。

しばらく放置されていたアイコンに一件のバッジがついていた。そもそもバッジ機能も実装した覚えがないので、その時点で異変に気づいてもよさそうだが、しばらく記憶の彼方に追いやっていた半黒歴史アプリを、俺は何も考えることなく開いてしまった。


そこには「hoge」タスクと、それこそ見覚えのない「体育着忘れちゃった…保健室でズル休みってのもちょっと…」タスクがあった。


……いやいやいや。


まず、「体育着忘れちゃった」とか書くタイプじゃない。

俺の人生で、そんな可愛げのある言い訳をした記憶は一度もない。


そもそも、このアプリにタスクを追加する画面は、俺しか知らないはずだ。

ログイン機能なんてかっこいいものはないけれど、スマホはロックしているし、家族が勝手に触るとも思えない。


あと、気になるのが「保健室でズル休みってのもちょっと…」の部分だ。

このクラスの女子には、忘れ物をしたときに「なんか気分悪い」と言って保健室で休む――そんな裏技を使う子が何人かいるらしい。小耳に挟んだ程度の話なので真偽は分からないが、体育を休むときの口実に使っている……のかもしれない。


どちらにせよ身に覚えがないし、どうやって追加されたのか見当もつかない。

そのときは、どうしたら授業準備を言い渡されない完璧なムーブになるのか、更衣室への移動と着替えの時間を計算するほうが優先だったため、困惑はしたが深く考えずにアプリを閉じた。


体育の授業開始時に、それに気づいた。


「……東雲。今日は見学か?」


開始前の点呼で体育担当教師の声が、授業準備疲れでぼけっと立っていた俺の耳に届いた。

ちなみにこの疲れは石田のせいである。


「……すみません。体育着忘れてしまいました」


冷静でいるようで、いつもよりどこか申し訳なさを含んだ東雲理央の声が聞こえた。


「そうか。新学年だからって油断するなよ」

「……すみません」


今度は、少し落ち込んだような謝罪の声。

表情こそいつも通りクールビューティーな具合であるが、ほんのちょっと落ち込んでいる気がする。


そのとき思い出した。さっきの「体育着忘れちゃった…保健室でズル休みってのもちょっと…」タスクを。

この授業で見学または欠席している生徒は東雲理央ただ一人。しかも、体育着を忘れたことによる見学だ。どう見ても、あのタスクは彼女のタスクだったのだ。


それに気づいてからというもの、ToDoアプリ「ToDo:Me」のことが気になり、俺はバレーの試合内容は散々なうえ、顔面レシーブをかますという失態で体育の授業を終えることになった。

ちなみに顔面スパイクを決めたのは石田だ。覚えてろ。


授業終了後、鼻血を押さえながら急いで更衣室に戻り、アプリを開く。

しかし、そこに彼女のタスクは影も形もなかったのだ。


「……夢、ってことはないよな?」


さっきまでのバレーの試合内容を振り返るかぎり、意識ははっきりしていた。顔面にスパイクを食らったときでさえ、石田のドヤ顔はばっちり視界に焼きついている。


『体育着忘れちゃった…保健室でズル休みってのもちょっと…』


あのタスクの文面と、東雲の「体育着忘れてしまいました」という淡々とした報告。それに続いた、少しだけ落ちた肩。


偶然、と言い切るには、出来すぎている。


「……バグで片づけていいのか、これ」


俺はロッカーにもたれかかりながら、アプリの画面をぼんやり眺めた。表示されているのは、使い古されたテスト用の「hoge」タスクが一件だけ。無機質に並んだ文字列は、さっきまでそこにあった“誰かのタスク”の気配をきれいさっぱり消し去っていた。


東雲理央のタスクが、俺のアプリに勝手に追加されて、現実の彼女の行動とリンクして、用が済んだら消える。


事実だけ並べると、いよいよ意味が分からない。


「……いやいや、待て。本当に東雲のタスクだって証拠、どこにもないしな」


自分で自分にツッコミを入れてみる。

たまたま体育着を忘れたやつが、たまたま見学になって、たまたま俺の妄想が暴走しただけ――そう言われたら、それまでだ。


そう思い込もうとした、そのときだった。


ポン、と短いバイブレーションが右手の中で震える。

画面の上部、アプリのアイコンに、さっきと同じ小さな赤いバッジがついていた。


「……え?」


心臓が、さっきの顔面スパイクより嫌な跳ね方をする。

震える指でアプリを起動すると、「hoge」の下に、新しいタスクが一行、追加されていた。


『数学のノート忘れちゃった…今日当てられるかもしれないのに、どうしよう…』


「……マジかよ」


ちなみに、昼休みを挟んだ午後の授業は数学と英語である。

ここまで揃えられてしまうと、さすがに偶然で片づけるのは無理がある。


東雲理央のタスク。


彼女自身も口には出していないような、心の中の「やらなきゃ」が、俺のアプリにだけ流れてきている。

そう考えると、急にこの画面が、とんでもなく覗き見じみたものに思えてきた。


「いや、これ見てる俺、だいぶアウトでは……?」


クラスメイトの心の内側を勝手に盗み見て、苦しんでいるところだけ察知するアプリ。

コンプライアンス的にも倫理的にも、どこからどう見ても真っ黒だ。


「……ほ、本物と決まったわけではないしな?」


誰にともなく周りを見渡したが、幸いというか、急ぎ足で来たおかげで周りには誰もいない。なんとなく後ろめたい気持ちを落ち着かせながら、スマホをロッカーに戻して着替えを始める。


このままアプリを閉じて、何も知らなかったことにする。

それが一番平和だし、俺のメンタルにも優しい。


けれど、もし本当にこのタスクが東雲のものだとして、彼女が困っているのだとしたら。

俺だけが、それを知っているのだとしたら。


「……くそ。なんでよりによって、クラスのクールビューティーなんだよ……」


せめて石田の「バレーのスパイクフォーム改造したい」とか、そのレベルのタスクから始まってくれればよかったのに。


画面の中で、「数学のノート忘れちゃった…今日当てられるかもしれないのに、どうしよう…」という文字列が、じっと俺を見返してくるような気がした。


――東雲に、ノート写させてやればいいじゃん。


頭のどこかで、非常に軽いノリの自分がそう提案してくる。問題は、東雲と今まで一度も会話したことがない、という決定的な事実だ。


着替え終わった俺は再びスマホを握りしめたまま、更衣室のベンチに座り込み、昼休みまでの残り時間を計算し始めた。


彼女に話しかけるべきか、それともやっぱりアプリをアンインストールして全部忘れるべきか。

二択のタスクが、俺の頭の中でいつまでも完了済みにならなかった。

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