第10話 借金5000枚(2.5億円)VS 現代化学チート

 馬車は巨大な鉄門の前で止まった。

 王立魔法学院。

 尖塔が空を突き刺し、巨大なステンドグラスが陽光を浴びて極彩色の光を放っている。色とりどりのローブを着た学生たちが、分厚い本を抱えて手入れの行き届いた芝生の上を行き交っていた。

「入れ」

 テレサは高慢な表情に戻った。

「まっすぐ、あそこの塔へ行け」

 馬車はキャンパスのメインストリートへと入っていく。

 賑やかだった並木道は、俺たちの馬車が現れた瞬間、水を打ったように静まり返った。

 談笑していた学生が口をつぐんだ。浮遊魔法の練習をしていた女子生徒が、手にした羽を落とした。道端の犬でさえ尻尾を巻いて茂みに逃げ込んだ。

 無数の視線が一斉に突き刺さる。

 直後。

「テ……テレサ教授だ!!」

 誰かの悲鳴が上がった。

 ザッ――!!

 学生たちはまるで疫病神を見たかのように、左右に割れて逃げ出した。

「逃げろ! 酒乱が帰ってきたぞ!!」

「目を合わせるな! トカゲにされるぞ!」

「あぁ……やっといなくなったと思ったのに……」

 一瞬にして、広い大通りは無人になった。

「……」

 俺は空っぽになった大通りを見て、頬を引きつらせた。

「おい」

 俺は隣で平然としている教授を見た。

「なんか……ここの学生、みんな俺たちを避けてねぇか?」

「フン」

 テレサは鼻を鳴らした。

「凡人はいつだって天才を理解できないものさ」

 ある意味では……確かに天才的だ。悪い意味で。

 馬車はモーセの海割りのごとく開かれた道を悠々と進み、目的地に到着した。

「ここだ」

 テレサが前方を指差した。

 その先には、キャンパスの隅にぽつんと佇む一本の塔があった。

 周囲の煌びやかな校舎とは異なり、この塔は古びていて、壁には枯れた蔦(つた)が絡まり、最上階の窓からは怪しげな黒煙が漏れている。何より、この塔の周囲だけ草一本生えておらず、地面が焦土と化していた。

「……あの、テレサさん」

 俺はゴクリと唾を飲んだ。

「何だ?」

「本当に……ここですか?」

 テレサは俺を睨みつけ、今にも崩れ落ちそうなオーク材の扉を押し開けた。

 ギイィ――

 積もり積もった埃が舞い上がる。

「ゲホッ、ゲホッ!」

 俺は口元を覆い、目の前の埃を払った。

 これが王立学院の施設?

 塔の内部は巨大な吹き抜けになっており、螺旋階段が壁沿いに上へと続いている。空気には硫黄、水銀、そして何かの薬草が焦げたような複合臭が充満していた。

 臭いが、どこか妙に落ち着く匂いでもあった。

「ボロいからって馬鹿にするなよ」

 テレサは埃だらけの階段を軽快に上っていく。

「最上階の『錬金室』には王国最高峰の錬金設備が揃ってる。原材料さえあれば、作れないものはない」

「へいへい、名誉教授様」

 俺は彼女の後ろをついて、息を切らしながら階段を上った。

 口では軽口を叩いているが、内心では少し希望を抱いていた。

 設備さえあれば。この頭の固い土着民には作れないものを作れれば。

 俺はこの世界で足場を固め、最初の軍資金を稼ぎ、そして……

 毎日昼まで寝て、金勘定で指を痛め、あわよくば……

「着いたぞ!」

 どれくらい上っただろうか。テレサはようやく重厚な黒い金属扉の前で足を止めた。

 この扉は下の階のボロ扉とは違い、表面に複雑な紋様が刻まれ、微かに威厳のあるオーラを放っていた。

「ここが私の聖域だ」

 テレサは腰に手を当て、自慢げに扉を指差した。

「この扉さえ開ければ……」

 彼女の声が凍りついた。

「ん?」

 扉には、二本の封印テープがバッテンに貼られていた。その中央には、巨大な印章が押されている。

 そして、その真ん中に白と黒の張り紙があった。

【資産凍結通知】

【所有者による長期にわたる巨額の負債滞納および規定違反により、学院資産管理条例第七条に基づき、本錬金室を強制封鎖する。】

【違反して侵入した者は、即時免職および鉱山での強制労働に処す。】

【――学院資産管理委員会】

「……」

「……」

 空気が重く沈黙した。

 テレサは石像のように固まっている。

「あ、あの……テレサさん?」

 俺はおっかなびっくり張り紙を指差した。

「『強制封鎖』って書いてあるようですが……」

「見ればわかる!!」

 テレサが叫んだ。

 彼女は駆け寄り、封印テープを引き剥がそうとしたが、指が触れる直前、テープが赤く発光した。

 バチッ!

「痛っ!」

 テレサは手を引っ込め、指を口に含んで涙目で扉を睨んだ。

「なんで……なんでこんなレベルの術式が!?」

「これは高位魔獣を封印するためのやつだぞ! それを私の錬金室に!?」

 ん? 高位魔獣? この世界にはそんな物騒なものもいるのか。

 俺は壁に力なく寄りかかった。

 大物の太客(ふとキャク)を掴んだと思ったら……泥舟だったか!?

「絶対になにかの間違いだ!」

 テレサは振り返り、俺の肩を掴んで激しく揺さぶった。

「私はただ……ほんの少し、機材の損耗費を滞納してただけだぞ! 封鎖されるなんてありえない!」

「少し?」

「本当に『少し』か?」

「と、当然だ!」

 テレサの目が泳ぐ。

「壁をいくつか吹き飛ばして……机を数脚燃やして……あと前回、うっかり床を溶かして下の階まで貫通させただけで……」

「……」

「ええい! 入るぞ!」

 テレサは歯噛みした。

「この程度の術式……」

 彼女は手をかざし、掌に青い魔力を収束させ始めた。恐ろしい魔力の波動が狭い階段に充満し、壁の漆喰(しっくい)がパラパラと剥がれ落ちる。

「おい! やめろ!」

 俺はマズいと思い止めた。

「『即時免職』と『鉱山送り』って書いてあるぞ! そんなことしたら……」

「知るか!」

 テレサは俺の声など耳に入っていない様子だ。

「開けぇぇぇ————!!」

 その時だった。

「おやめになった方が賢明ですよ、テレサ教授」

 氷のように冷ややかな男の声が、階段の下から響いてきた。

 テレサの動きが止まった。

 俺は振り返り、階段の踊り場を見た。

 影の中から、一人の長身の男が現れた。

 濃紺の制服を隙なく着こなし、胸には金色の徽章が輝いている。彼は痩せていて、まるで竹竿のように背が高い。鼻梁には金縁の眼鏡をかけ、手には黒革の帳簿を持っていた。

「ク、クラウス……」

 さっきまで暴力的にドアを破ろうとしていたテレサが、まるで生活指導の教師に見つかった小学生のように首を縮め、俺の背後に隠れようとした。

「ごきげんよう、テレサ教授」

 クラウスと呼ばれた男は眼鏡の位置を直した。レンズがキラリと光る。彼の声には抑揚がなく、感情が読み取れない。

「そしてこちらの……名もなき共犯者さんも」

「共犯者じゃありません! 被害者です!」

 俺は手を挙げて潔白を主張した。

 クラウスは俺の抗議を無視し、封印された扉の前まで歩み寄った。

「学院の公共物を不法に破壊しようとした罪、および封印の強行突破未遂」

 彼は手元の帳簿を開き、羽根ペンを取り出してサラサラと書き込んだ。

「罰金、金貨五枚」

「待ってよ! まだやってないじゃない!」

 テレサが俺の背中から顔だけ出して抗議した。

「あなたの詠唱の予備動作が長すぎたのです」

 クラウスは顔も上げずに言った。

「今ここで止めなければ、この塔の壁は風穴だらけになっていたでしょうから」

 パタン。

 彼は帳簿を閉じ、ようやく顔を上げて俺たちを直視した。

「テレサ・ヴェスパ。財務部の最新の統計によれば、先月あなたが逃げ出した実験ガエルへの対処で、東校区の時計塔を粉砕した件も含め……」

「現在、あなたが学院に滞納している賠償金、違約金、および延滞金の総額は……」

 彼は一呼吸置き、無慈悲な数字を告げた。

「金貨五千枚です」

「……」

「な、なんだって?」

 俺は耳を疑った。

「金貨五千枚」

 クラウスははっきりと繰り返した。

「これでも端数を切り捨てた、友情価格ですよ」

 村長から貰った金と、ここに来るまでの物価から計算すると……。

 この世界では、銅貨一枚で黒パン半分(約五十円)。

 銅貨百枚で銀貨一枚。

 銀貨十枚で金貨一枚。

 つまり……金貨一枚の購買力は、日本円にして約五万円。

 五千枚……。

 五千×五万……。

 二億……二億五千万!?

 目の前が真っ暗になった。

「五千枚だぁ!?」

 俺はテレサの襟首を掴んで激しく揺さぶった。

「お前一体何したんだよ!? 隕石でも落として校長室を吹き飛ばしたのか!?」

「むぐぐぐ……(違うもん! ちょっと魔力が暴走しただけだもん!)」

 テレサは白目を剥きながら否定した。

「どうやら、こちらの助手さんは常識をお持ちのようですね」

 クラウスは無表情に俺たちを見つめた。

「ならば、これからの通達もご理解いただけるでしょう」

 彼は封印された扉を指差した。

「理事会の決定により、この錬金室は担保資産として凍結されました」

「期限は一週間」

「もし一週間後の今日までに、少なくとも金貨三百枚を返済できなければ、この錬金室……および中の全設備は競売にかけられます」

「ダメ!!」

 テレサが悲鳴を上げた。

「あれは私の魂よ! あの機材は私の命なの! 特にあの特注の……」

「今やそれは学院の資産です」

 クラウスは冷たく遮った。

「それに、もし競売の売上が赤字を補填できなければ……」

 彼は眼鏡を光らせた。

「テレサ教授、あなたは名誉教授の称号を剥奪され、北方の鉱山へと移送されます」

「終身刑に相当する……強制労働のために」

「ひいっ!!」

 テレサは情けない悲鳴を上げ、俺の太ももに抱きついた。

「鉱山……やだ……」

「話は以上です」

 クラウスは帳簿を脇に抱え、踵を返した。

「残りの一週間、精一杯楽しんでください。おそらく……これが王都での最後の一週間になるでしょうから」

「待て!」

 俺は彼を呼び止めた。

「もし……もしもだ。俺たちが一週間以内に三百枚を用意できたら、王都にいてもいいのか?」

 クラウスは足を止め、振り返った。彼は俺を、まるで計算のできない猿を見るような目で見た。

「一週間? 金貨三百枚?」

「大手商会でさえ、一週間でそれだけの純利益を出すのは困難ですよ」

 そう言い残し、彼は階段の闇へと消えていった。

 廊下に静寂が戻る。

 テレサは俺の太ももにしがみついたまま震えていた。

「終わった……全部終わった……」

 彼女は泣き声混じりで、鼻水を俺のズボンに擦り付けた。

「錬金室が……私のお酒が……鉱山で石掘りなんて嫌だ……ううう……」

 俺は封印された扉を見上げ、次に足元のこの駄目人間を見下ろした。

 逃げるか?

 今ならまだ間に合うか?

 だが……逃げてどこへ行く?

 身分証も金もコネもない。外には危険な魔獣がうろつく世界だ。テレサという「教授」の身分という後ろ盾を失えば、俺は高確率で野垂れ死ぬか、奴隷落ちだ。

 逃げない?

 残って借金を返す?

 一週間で三百枚? ふざけんな!

「ねぇ……」

 テレサが顔を上げた。真っ赤に腫れた目が俺を見ている。

「助けてくれるよね? 助手? 私の助手だよね?」

「あなたが言ってた……あの『生命の水』……売れるんだよね?」

「鉱山送りにならなくて済むなら……何でも言うこと聞くから! 本当だから!」

 彼女の惨めな姿を見て。

 あの眼鏡男のムカつく顔を思い出して。

 そして、この数日間、このクソみたいな異世界で受けた理不尽な扱いの数々を思い出して。

 無名の怒りが――腹の底から湧き上がってきた。

 俺はため息をつき、彼女の腕から足を引っこ抜いた。

「あ……」

 テレサが絶望的な目で俺を見た。

「泣くなよ、ポンコツ教授」

 俺はニヤリと笑った。

「たかが金貨三百枚だろ?」

 俺は地面に座り込むテレサに手を差し出した。

「見せてやろうぜ。化学……いや、本物の錬金術ってやつを」

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