第11話 借金生活の始まりと、異世界の「トイレ事情」
扉の向こうからは、羽根ペンが紙を走る微かな音が聞こえる。
俺はドアの前で立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
「準備はいいか? 教授」
俺は背後のテレサを振り返った。
「……」
彼女は返事もせず、俯(うつむ)いていた。
おかしいな、さっきから妙に大人しい。
まあいい。気合で負けるわけにはいかない!
俺は手を使わず、足を振り上げ――
バンッ!
高そうな彫刻入りの扉が、俺の草鞋のキックを受けて悲鳴を上げ、壁に激突した。
クソッ、足いてぇ……。
オフィスは広く、インクと古い紙幣の匂いがした。
クラウスは巨大な執務机の後ろに座り、淹れたての紅茶を手にしていた。この乱暴な訪問に対しても眉一つ動かさず、優雅にカップを置き、金縁眼鏡を押し上げた。
「公共物損壊。さらに罰金金貨二枚追加です」
彼は淡々と言った。
「ツケておきますよ」
俺はその鼻につく態度を無視し、大股で机の前まで歩み寄った。
ジャラッ。
俺は腰の革袋――バアルから奪った戦利品だ――を解き、机の上に叩きつけた。
ここに来る途中で原材料の買い出しや生活費のために少し使ったが、それでも中身の重量感に机が鈍い音を立てた。
「これは手付金だ!」
俺は両手を机につき、身を乗り出してクラウスの目を睨みつけた。
「一週間! 俺たちが用意する品が、競売で三百枚以上の値を付けることを保証する! 条件は、今すぐ錬金室の封印を解くこと。中の機材には一切手を触れるな!」
クラウスは机上の革袋を一瞥し、次に俺の後ろにいるテレサを見た。
「ほう? どうやら随分と優秀な助手を拾ったようですね」
「無駄口はいい」
「それとも、この賭けに乗るのが怖いか?」
「挑発は通用しませんよ、助手さん」
クラウスは引き出しから羊皮紙を取り出し、机の上に広げた。
「ですが、賠償金を回収できる見込みがあるのなら、断る理由もありません」
彼は羽根ペンを俺の前に差し出した。
「これは『債務執行猶予合意書』です」
「サインを。この一週間、錬金室の使用権はお二人に返還しましょう」
「ただし……」
彼は言葉を切り、声の温度を下げた。
「もし競売の後、金貨三百枚を一銭でも下回った場合……」
「契約の強制力により、錬金室内の全設備は強制競売。そしてお二人も人身の自由を失い、北方の鉱山へ送致されます」
「『債務者の首輪』をつけられ、家畜のように死ぬまで働くことになりますが」
債務者の首輪。名前を聞くだけでロクなもんじゃないとわかる。
だが、ここで引くわけにはいかない。
「上等だ」
俺は羽根ペンをひったくり、羊皮紙に自分の名前を書きなぐった。
「そしてあなたもです、テレサ教授」
クラウスが俺の後ろを見た。
「……」
ずっと俺の背中に隠れていたテレサが、恐る恐る手を伸ばした。
俺の予想では、「たかが三百枚!」と大見得を切るかと思っていたのだが。
逆に。
彼女は不気味なほど静かだった。
ペンを受け取る手が、小刻みに震えている。
サインを終えると、彼女は脱兎のごとく俺の後ろに隠れた。
「……?」
俺は呆気に取られた。
こいつどうした? 馬車の上で大勢のゴロツキを爆破したあの覇気はどこへ行った?
演技か? 同情を引く作戦か?
クラウスはテレサの反応を気にする様子もなく、羊皮紙を回収し、インクを乾かすように息を吹きかけた。
「契約成立です」
彼は「どうぞ」と出口を示した。
「では、ご武運を。カウントダウンは……すでに始まっています」
俺はこれ以上言葉を交わすことなく、踵を返した。
テレサの手を引き、大股でオフィスを出た。
廊下の突き当たりまで歩き、あの息苦しい部屋が見えなくなるまで離れてから、俺は足を止めた。
「おい」
俺は振り返り、呆れたように言った。
「もう出たぞ。いつまで猫かぶってるつもりだ?」
テレサが顔を上げた。
「あの……レン……」
その声は蚊の羽音のように小さく、弱々しかった。
「本当に……何か手があるんだよね?」
「私たち……本当に鉱山送りになったりしないよね?」
「……は?」
マジかよこいつ?
***
行政棟を出たのは、ちょうど正午頃だった。
「ふぅ……」
俺はかなり軽くなった金袋を掌で弾いた。
このわずかな資金で一週間の生活費を賄い、さらに「錬金」に必要な原材料まで揃えなきゃならない。一銭たりとも無駄にはできない。
「あの……レン?」
「私たち……今から塔に戻るの?」
「戻ってどうする? 霞(かすみ)でも食うのか?」
俺はため息をついた。
「あのボロ錬金室に一週間も缶詰になるんだ、生活必需品がいるだろ」
「行くぞ、街へ」
俺は歩き出した。
「街……そんなとこ行って何するの?」
「買い出しだ」
***
王都の下町。
俺は道行く人に場所を尋ねながら、下町の構造を観察していた。
ここは上流区画のような魔法灯の輝きはない。空気には香辛料、腐った生ゴミ、そして何かの薬草が混ざったような刺激臭が漂っている。狭い通りの両側には怪しげな品物を売る露店がひしめき、フードを被った冒険者や目の鋭いゴロツキが行き交っていた。
「……おい、離せよ」
俺は足を止め、ため息をついた。
「これ以上引っ張るとズボンが脱げる」
「や……やだ……」
背後のテレサは俺のベルトを死守し、背中に張り付くようにして歩いていた。
「人が……人がいっぱいいる……」
「みんな私を見てる……さっきの独眼竜、私を睨んだ……うう……」
彼女の声は涙声で、その恐怖は本物だった。
どういうことだ?
衛兵に怒鳴り散らしていたあの名誉教授が、すれ違うゴロツキに怯えてガタガタ震えているなんて。
二重人格か?
「誰も見てねぇよ。あいつは元からあんな顔なんだ」
俺はまるで子連れのシングルファザーのように、ズボンを押さえながら人混みをかき分けた。
「ほら、顔上げろ! そんなんだと余計怪しまれるぞ!」
「無理……できない……帰りたい……」
「帰るか! まだ材料が揃ってないんだよ!」
俺は一番ボロそうな雑貨屋に入った。
「親父、一番安い着替えを二着くれ。大きいサイズと、中くらいのやつだ」
俺は入り口に吊るされた粗末な布服を指差した。
「丈夫で、動きやすいやつな」
「それと……歯を磨く道具はあるか?」
ある程度の覚悟はしていたが、一縷の望みをかけて聞いてみた。
腐っても魔法がある世界だ、自動で口内洗浄してくれる道具くらいあってもいいだろ?
「歯を磨く?」
店主はカウンターの奥の壺から、干からびた植物の根っこを二本掴んで投げてきた。
「ほらよ、甘草(カンゾウ)の根だ。先端を噛んで繊維状にして磨きな。甘みがあるから口臭も消える」
「……」
俺は手の中の木の根っこを見つめ、予想通りとはいえ深いため息をついた。
やっぱねぇか、歯ブラシ。
「へいへい、いくらだ?」
「銅貨二枚」
「じゃあ……紙はあるか?」
俺は最後の希望を口にした。
「できるだけ柔らかくて、吸水性のいいやつだ」
「紙?」
店主はバカを見るような目で俺を見た。
「羊皮紙なら本屋に行きな。一枚で銀貨が……」
「違う、そうじゃなくて……その……トイレで、尻を拭くための……」
俺は身振り手振りで伝えた。
「はぁ?」
店主は一瞬ポカンとし、直後に爆笑した。
「あんたどこの田舎貴族だ? 紙でケツを拭く? ギャハハハハ!」
彼は笑いながら、カウンターの下から表面がツルツルした薄い木片を取り出し、バンと机に叩きつけた。
「ほらよ。『ヘラ』だ。使った後は洗えばまた使えるぞ」
「……」
本で読んだことはあったが、実物を目にした時の衝撃はデカすぎた。
これが異世界か。
帰りたい。ウォシュレットが恋しい。三枚重ねの柔らかいトイレットペーパーが恋しい。
「あ、あの……」
背後のテレサが見るに見かねたのか、俺の袖を引いて小声で言った。
「実は……水魔法を少し使えば……その、洗えるから……綺麗になるよ……?」
俺は思わず、この世界の魔法という技術に敬意を表したくなった。
待てよ……肝心の俺は魔法使えねぇじゃん!
「服だ。選んどいたぞ」
店主が埃っぽい服を二セット、カウンターに投げ出した。
それは標準的な肉体労働者(クーリー)用の服だった。素材は粗悪な麻、装飾ゼロ、裁断は雑。唯一の長所は——安いことだ。
「男物?」
テレサはその粗末なシャツを見て、きょとんとした。
「当たり前だ」
俺は金を払いながら、さも当然のように言った。
「女物は高いんだよ! 言っとくがな、フリフリのレースがついた服なんて期待すんなよ……」
「おぉ……」
テレサは服を手に取り、自分の体に当ててみた。
彼女はそのガサガサした、しかしゆったりとした生地を撫で、あろうことか満足げな表情を浮かべた。
「いい感じ……」
彼女はボソボソと呟いた。
「広い……お腹苦しくない……」
「それにズボンも長い……安心感がある……」
ん?
苦しくない? 安心感?
こいつ……中身はおっさんか?
まあいい、本人が文句を言わないなら好都合だ。
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