第9話 王都入城! 「名誉教授」の正体と消えた研究費

 王都、アルカディア。

 今、俺はこのいわゆる王都の正門前にいた。認めざるを得ないが、この都市は腰が抜けそうになるほど壮大だった。高さ三十メートルはある白い城壁が真昼の日差しを浴びて輝き、城門には入城待ちの長い列が二つもできている。

 だが。

 今の俺にとって、壮大な建築物を鑑賞する余裕などない。心配なのは、このまま捕まって牢屋行きになるんじゃないかということだ。

「あっつ……」

 俺は馬車の隅に縮こまり、奪い取った毛皮のコートの襟を立てて、顔の半分を隠そうとした。

 背筋を汗が伝い落ちる。このコートは変な格好を隠すには最高の迷彩だが、この気温の中ではただの拷問器具だ。

「次!」

 城門の衛兵が叫ぶ。

 馬車がゆっくりと進む。心臓が早鐘を打つ。

 身分証なし。通行証なし。おまけに荷台には危険なロリの酔っ払いを積んでいる。

「止まれ! 検問だ!」

 鋭い声と共に、俺たちのボロ馬車――さっきの爆発でオープンカー仕様になった――は検問所の前で停止した。

 銀色の鎧を着た、いかにも強そうな衛兵が歩み寄ってくる。彼は眉をひそめ、煤(すす)けた馬車をジロジロと見た。

「何者だ? どこから来た? 荷物は何だ?」

 衛兵の手が剣の柄にかかる。

 俺は深く息を吸い、あらかじめ用意していた「落ちぶれた行商人が強盗に襲われた」というシナリオで誤魔化そうとした。

 その時だ。

「助けてくれぇぇ————!!!」

 御者台で震えていたはずの御者が、突然転げ落ちるようにして馬車から飛び降りた。

 彼はそのまま衛兵の足にしがみつき、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き叫んだ。

「衛兵様! 助けてくだせぇ! 誘拐されたんです! こいつらは強盗だ! 人殺しだ!!」

「……は?」

 俺は一瞬反応できなかった。

 この野郎! 腹の中の蠱毒(こどく)が怖くないのか!?

「強盗だと?」

 衛兵の顔色が変わった。

「総員、警戒!!」

 ガシャン――!

 一瞬だった。列を作っていた平民たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。十数本の鋭い槍の穂先が四方八方から突きつけられ、俺たちの馬車を完全包囲した。

「降りろ! 直ちに降りろ!」

「両手を頭の後ろへ! さもなくば斬り捨てる!」

 冷たい槍の切っ先が日光を反射している。

 終わった。

 俺は両手を挙げた。冷や汗が一瞬で背中を濡らす。

 どうやら絞首台行きは確定らしい。

「うるせぇな……」

 俺がどう言い訳しようか考えている時だった。

 荷台のボロ毛布の下から、極めて不機嫌そうな声が聞こえた。

 テレサが、雑多な荷物の山の中から起き上がった。

 銀色の長髪は乱れ放題で、直射日光に目を細めながら、気怠げに目をこすっている。

「誰だよ……」

 彼女はあくびをした。声はしゃがれている。

「私がいかに低血圧か知らないのか? 何邪魔してんだ?」

「き、貴様!」

 若い衛兵が槍を向けた。

「誰に向かって……」

「黙れッ!!」

 衛兵が言い終わる前に、隣にいた衛兵隊長が荒々しく遮った。

 彼は衛兵の槍を掴んで押しとどめる。

 見れば、隊長は荷台のテレサを凝視し、兜の下から冷や汗を流していた。

「あの銀髪……紅い瞳……そしてあの酒臭さ……」

 隊長の声が震えている。

「間違いない……」

 次の瞬間、威厳たっぷりだったはずの隊長が、突然「ビシッ」と音を立てて直立不動の姿勢を取り、見事な敬礼をした。

「敬礼!!」

 隊長は裏返った声で絶叫した。

「テレサ名誉教授に敬礼!!」

 場が静まり返った。風が吹き抜け、枯れ葉が舞う。

「……え?」

 俺は両手を挙げたまま、ポカンとした。

「きょ……うじゅ?」

「はぁ? 隊長、こいつはどう見てもただの……」

 隣の若い衛兵はまだ状況が飲み込めていない。

「気でも狂ったか!?」

 隊長は衛兵の口を塞ぎ、声を潜めたが、いくつかの単語が俺の耳に漏れ聞こえてきた。

「あれは……王立学院の……悪名高き……酒乱……素面(しらふ)かどうかも怪しい……下手に刺激すれば……俺たち全員消し炭に……」

「……」

 俺はギギギと首を回し、隣で呑気に目ヤニをほじっているロリを見た。

 教授? 王立学院の? 特権階級?

 待てよ。

 こいつが合法的な身分を持つ大物だというなら……。

 生存本能が羞恥心を上書きした。

 俺はゆっくりと挙げていた手を下ろし、深く息を吸った。

「はぁ……」

 俺はわざとらしく大きな溜息をつき、「やれやれ」といった風情で自分の頭を指差した。

「お恥ずかしいところをお見せしました」

「こ、この方は?」

 隊長が恐る恐る俺を見た。

「私は教授が新しく雇った……助手です」

 俺は落ち着き払って襟元を正し、地面で泣き喚いている御者を指差した。

「そして、この男ですが……」

 俺は慈悲深い表情を浮かべた。

「道中で保護した哀れな男です。古代の呪いを受けたせいで精神錯乱を起こし、重度の被害妄想に取り憑かれていましてね。教授が学院へ連れ帰り……『深度治療』を施す予定なのです」

「なんと! そうだったのですか!」

 隊長は合点がいったように頷いた。

「ちが……俺は違う……」

 御者がまだ何か言おうとする。

 俺は歩み寄り、遠慮なく彼を蹴り飛ばした。そしてしゃがみ込み、衛兵から見えない角度で、二人だけに聞こえる声でドスを効かせた。

「死にてぇのか?」

 御者は、周囲の衛兵たちがテレサに対してペコペコしている様子を見た。

「……す、すいやせん……」

 御者は地面から這い上がり、涙を拭って、引きつった作り笑いを浮かべた。

「発作が出やした……俺ぁ病気でして……妄想癖が……」

「よろしい」

 俺は満足げに頷き、立ち上がって隊長に優雅に手を振った。

「では、通してもよろしいですか? 教授は寝起きが非常に悪いもので」

「も、もちろんです! どうぞ! 道を開けろ!!」

 隊長は厄神を送り出すかのように手を振り、バリケードを撤去させた。

 車輪が跳ね橋を渡り、このアルカディアという名の王都が、ついにそのベールを脱いだ。

 なんというか。

「くさっ……」

 これが、この偉大なる王都に対する俺の第一印象だった。

 空気中には香辛料と、油と、そして……馬糞が混ざり合った複雑な臭気が漂っていた。

 街道の両側には確かに立派な建物が立ち並び、塔の頂上には巨大な発光クリスタルが浮遊していたりもする。

 だが、その壮麗さの下にあるのは、カオスなほど混雑した街並みだ。

 高そうな服を着た貴族が、顔をしかめてドレスの裾を持ち上げ、慎重に水溜りを避けて歩いているかと思えば、その横では自分よりデカいハンマーを背負ったドワーフが、露天商相手に大声で値切っている。

「都市計画のかけらもねぇな……」

 俺は無秩序に建て増しされた建築群を見上げた。

「この人口密度で火事になったらどうすんだ? 消防車も入れないぞ。それに下水道システムも死んでるっぽいし……」

 だが、それでも。

 そのむせ返るような「文明」の熱気は、数日間荒野でサバイバルをしてきた現代人の俺に、久々の安堵感を与えてくれた。

 少なくともここには人間がいて、商売があり、秩序がある(たぶん)。

 何より、ここは金持ちそうだ。

 馬車が行き交い、喧騒が響く。

 俺は視線を戻し、背もたれに寄りかかって大きく息を吐いた。

 ふと横を見ると、テレサがニヤニヤしながら車窓を眺めていた。

 外を歩く煌びやかな貴族たちに比べ、この「王立学院教授」様は、まるでゴミ捨て場を漁ってきたばかりの浮浪者のようだ。

 強烈な違和感がこみ上げてくる。

「なぁ……名誉教授様よ。ちょっと説明してくれないか?」

 俺は窓の外の着飾った通行人を指差し、次に彼女の泥と酒のシミだらけのローブを指差した。

「この黄金が転がってそうな王都で、なんであんたほどの権力者が、ホームレスみたいな格好で野垂れ死にかけてたんだ?」

「……」

 馬車は王都の石畳の上を進み、車輪がリズミカルな音を立てる。

 俺の質問に対し、テレサは沈黙を選んだ。

 彼女はそっぽを向き、通りの両側に並ぶ華やかな店を眺めながら、リズム感ゼロの口笛を吹き始めた。

「ヒュ~ヒュ~」

「とぼけんな。俺の目を見ろ」

「コホン……」

 テレサは逃げられないと悟り、ようやくこちらを向き、人差し指同士をツンツンと合わせた。

「その……実は、辺境の『紅蓮迷宮』へ行こうとしていて……」

「迷宮?」

 眉をひそめる。まあ、魔法がある世界なんだ、ダンジョンくらいあってもおかしくないか。

「そんな危険な場所へ何しに? 学術調査か?」

「いや、その……」

 彼女の視線が泳ぎ、声が蚊の鳴くように小さくなる。

「副葬品を……じゃなくて、古代遺物を回収して、少しばかり……研究費の足しにしようかと」

「研究費?」

 俺は疑わしげに彼女を見た。王立学院の教授が、自らダンジョンに潜って金策(トレハン)しなきゃならないほど困窮してるのか?

「で? 迷宮が難しすぎて逃げ帰ったのか?」

「まさか!」

 テレサは尻尾を踏まれた猫のように飛び上がった。

「あんな迷宮、片手で踏破できるわ! 最深部の『火竜の心臓』さえ手に入れば……少しは懐が温まるはずだったのに!」

「へぇ~。で、その『火竜の心臓』はどうした?」

 テレサの勢いが一瞬で萎んだ。

「だって……迷宮に着く前に……」

「道端の酒場で横断幕が出てて……『周年祭、エール酒七割引』って……」

「……」

「だから……時間はまだあるし、一杯引っ掛けてから攻略しても遅くないかなって……」

「一杯だけ……本当に一杯だけのつもりだったんだ……」

「結果は?」

 テレサは気まずそうな笑みを浮かべた。

「気がついたら……もう……」

 そこまで言って、彼女の顔がカッと赤くなった。

「き、貴様の上に……乗っていた」

 おい……今更そこで恥じらうなよ。

「……」

 俺は深く息を吐き、空を見上げた。

 道端の安売り酒に釣られて、重要なダンジョン攻略を放り出し、挙句の果てに無一文で路頭に迷う。こんな奴が教授?

 この国の教育界、本当に大丈夫か?

「着いたぞ!」

 気まずさを誤魔化すように、テレサが突然大声で前方を指差した。

「見ろ! あれが私の縄張りだ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る