正体不明の怪物②
覚醒の瞬間、世界は白一色に塗り潰された。
瞼を開けると、そこはいつもの鑑定室だった。
無影灯の冷たい光。薬品の匂い。
最上梁人は上半身を起こし、こめかみに手をやった。
(……おかしい)
違和感があった。
いつもなら、ダイブ直後は
だが、今はない。
意識は妙に鮮明で、記憶の欠損もない。
先ほどまで見ていた過去の夢の感触さえ、指先に残っている。
〈予兆〉とはいえ、あれほどの欲望に塗れた汚泥の中に「魂」という剥き身で飛び込んだのだ。無傷で済むはずがない。
「……目が覚めたのね」
カーテンの奥から、一人の女性が現れた。
精神監査官、水無月。
彼女の容姿は、この無機質な部屋に咲いた
色素の薄い桃色の髪は、手入れが行き届いているとは言い難く、無造作に肩まで垂れている。
整った顔立ちだが、その目の下には濃いクマが張り付いており、慢性的な睡眠不足と疲労を物語っていた。
白衣の前を開け、その下には厚手の白いタートルネックのニットセーターを着込んでいる。彼女が纏う空気は、柔らかいがどこか儚く、今にも消えてしまいそうな危うさがあった。
「気分はどう、最上君」
水無月はペンライトで最上の瞳孔を確認しながら、淡々と尋ねた。
「……悪くない。むしろ良すぎるくらいだ」
最上は正直に答えた。
「なぜ漂白をしなかった? 俺の頭の中は、あの強欲な汚染の泥で埋まっているはずだぞ」
水無月はペンライトを胸ポケットにしまい、小さく溜息をついた。
「それが……必要なかったのよ」
「何?」
「君の精神係数をスキャンしたけれど、汚染反応ゼロだった。まるで、泥沼に潜ったのに濡れずに帰ってきたみたいに、綺麗なまま。……だから今回は、漂白剤を使っていないわ」
最上は眉を顰めた。ありえない。
精神感応者として、他者の深層心理に同調すれば必ず汚れは移る。それがダイブの代償だ。
「耐性がついたとでも言うのか?」
「考えにくいわ。人の心が汚れに慣れるなんてことはない。……正直、原因は不明よ。君の精神構造そのものが、何か別の『質』に変異し始めているのかもしれない」
水無月は不安げに視線を落とした。
「原因はどうあれ、君の自我境界が限界に近いことに変わりはないわ。これ以上、あちら側に潜れば、君は戻ってこられなくなる」
「……構わん」
最上はベッドから降り、ジャケットを手に取った。
「俺にはやるべきことがある。あの女――羽海野有数を見つけ出し、殺すまでは」
最上の口からその名が出た瞬間、水無月の肩がビクリと震えた。
「……有数先生」
彼女は噛み締めるように呟いた。
「私も、かつてあの人のゼミで学んでいたわ。彼女は天才で、そして悪魔だった。……でも、やっぱり彼女はもう死んだはずよ。公式記録でも死亡が確認されている、あなただって何度も見たはずでしょう?」
「奴は生きている。俺には分かる」
最上の確信に満ちた言葉に、水無月は悲痛な顔で唇を震わせた。
彼女は一歩、最上に歩み寄った。
「ねえ、最上君。……忘れることはできないの?」
その声は、医師としての忠告を超えて、縋るような響きを帯びていた。
「復讐も、あの魔女のことも、こんな狂った世界のことも。全部忘れて……ただの人間として生きることは、もう出来ないの?」
最上は動きを止め、水無月を見た。
彼女の瞳が、涙で潤んでいる。
白衣の袖を握りしめた手が、微かに震えている。
「私じゃ……駄目なの?」
唐突な問いだった。
だが、その言葉の裏にある意味を、最上は痛いほど理解した。
彼女は言っているのだ。
死んだ
復讐鬼ではなく、一人の男として、平穏な日常に帰ってきてほしい、と。
最上は沈黙したまま、自身の胸に手を当てた。
(普通に生きる、か)
それは甘美な響きだった。
だが同時に、最上は自分自身の内側にある「空洞」の形を、冷徹に再認識していた。
度重なる精神漂白によって、最上梁人という人間の記憶は、虫食い穴だらけになっている。
学生時代の思い出も、好物の味も、家族の顔さえも、今はもう霧の彼方だ。
そんな穴だらけの自分を、辛うじて「最上梁人」という形に繋ぎ止めているのは何か。
――羽海野有数への殺意だ。
皮肉なことに、憎悪こそが今の彼の背骨であり、復讐心こそが彼を生かす心臓だった。
それを捨ててしまえば、最上梁人は崩壊する。
ただの抜け殻になる。
水無月が望むような「普通の幸せ」を感じるための
俺はもう、人間ではないのかもしれない。
有数が望んだ怪物を殺すために、俺自身が怪物に近づいているのだとしたら――。
「……すまない、水無月」
最上は、短くそれだけを告げた。
拒絶ではない。謝罪だった。
もう戻れない場所から手を振るような、静かな決別。
最上は背を向け、逃げるように鑑定室の扉を開けた。
背後で、水無月が息を呑む気配と、衣擦れの音が虚しく響いた。
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