正体不明の怪物③
新東京府公安統括局、最上層にある〈黒の会議室〉。
重苦しい沈黙と、張り詰めた緊張感が支配するその円卓に、場違いな少女の欠伸が響いた。
「ふわぁ……。ねえ、まだ終わらないの?」
アリスは退屈そうに足をぶらつかせ、テーブルに頬杖をついた。
周囲に座るのは、この国の治安維持を担う最高幹部たち。彼らは一様に眉をひそめたが、彼女を咎める者はいない。この少女こそが、人類が唯一保有する〈ランド・オブ・ワンダー〉への水先案内人だからだ。
アリスは赤い瞳で、円卓の面々を値踏みするように眺めた。
正面に座る天村。
その向かい側で、薄い笑みを浮かべて座る漆黒のドレスの少女、〈カタリスト〉。
(……仲悪いなぁ、この二人)
アリスは直感的に理解していた。
天村は秩序と倫理を重んじる保守派。対してカタリストは、進化と淘汰を是とする革新派。水と油だ。
天村のことは、クローンとして覚醒してからの半年でそれなりに知っている。口うるさいが、根は真面目な眼鏡だ。
だが、あのカタリストについては、アリスもよく知らない。
ただ一つ分かるのは、あの女から漂う「匂い」だ。どことなく、オリジナルの羽海野有数に近い、冷たくて甘い狂気の気配。
自分と同じ「鏡像」の面影を感じさせる彼女は何者なのか。アリスは退屈凌ぎにそんなことを考えていた。
⚁
「――では、本題に入る」
天村が重い口を開き、ホログラムマップを展開した。
映し出されたのは、先日最上たちが制圧した新宿エリアの被害状況だ。
「先日の〈首吊り兎〉による被害は甚大だった。重力崩壊による高層ビル群の損壊、そして広範囲に及ぶ精神汚染。……たった一体の〈犯人〉がもたらす被害としては、かなりの規模だ」
天村の声に焦燥が滲む。
「これは悪い兆候だ。個々の〈犯人〉の出力が上がっている。このまま精神汚染濃度が上昇し続ければ、遠からず〈
〈試練級〉。
その単語が出た瞬間、会議室の空気が凍りついた。
嗤うだけで都市一つを精神崩壊させた〈
空を覆い尽くし、認識した者を石化させた〈
そして、触れるもの全てを両断し、自衛隊の一個師団を全滅させた〈
半年前、彼らの出現により、東京は首都機能を喪失。政府中枢は北海道へと移転し、関東から西、中部地方から西日本全域は、現在は観測すら不可能な「消失領域」となっている。
そして、そのどれも未だに
富士の樹海より先に築かれた巨大な〈対精神防壁〉がかろうじて汚染の東進を食い止めているが、ここ新東京府は、怪物たちと対峙する最前線の「防波堤」として孤立していた。
「もし再び東京で〈試練級〉が発生すれば、今の戦力では支えきれん。……アリス、貴様の意見を聞きたい」
天村が話を振る。
アリスは「えー」と面倒くさそうに身体を起こした。
彼女は羽海野有数の完全な記憶を持っているわけではない。だが、その脳にある「知識」と「理論」は、オリジナルの羽海野有数そのものだ。
「対策なんてないよ。あいつらは
アリスは冷淡に言い放ち、ふと思いついたように指を立てた。
「でも、人間側にも『怪物』がいれば話は別かな。……例えば、梁人みたいにね」
⚂
会議室の空気が変わる。
最上梁人。数々の〈犯人〉を葬ってきたエース捜査官。
「梁人が持ってる『ヴォーパル・カリキュラス』は、ただの計算機だよ。凄いのは梁人自身の『心』の方。……梁人が使う〈
アリスは、先日彼が見せた奥の手について言及した。
「あれはね、〈幻想兵装って呼ぶの」
「幻想……兵装」
天村が眉を寄せる。
「個人の特質や精神性を極限まで凝固させた、言わば『理性の刃』。本来なら形のない『心』を、物理的な武器として固定化したものよ」
アリスはテーブルの上で指をくるくると回した。
「この〈幻想兵装〉に至るほどの強固な自我を持つ人間は、同時に〈ランド・オブ・ワンダー〉への高いダイブ適性を持つ。……ここまでは共通認識だよね?」
幹部たちが頷く。だが、アリスは意地悪く笑った。
「でもね、ここからが問題。本来、それほどの強い意志や衝動、世界を変えてしまうほどの願望を持った人間は、その圧力に耐えきれずに〈犯人〉化してしまうの」
そうだ。
強い自我は諸刃の剣だ。
〈
〈幻想兵装〉を発現させるほどの精神エネルギーは、そのまま怪物の核となるエネルギーと等しいのだ。
「偏執的な復讐心、死をも厭わぬ意志。……普通ならとっくに理性が焼き切れて、最悪の〈犯人〉になってるはず。でも、梁人はなってない」
「梁人は、怪物と同等の出力を持ちながら、人間の枠に留まり続けている。だから彼は、現在確認されている唯一の『超特殊事例』なの」
アリスの言葉に、重苦しい沈黙が落ちた。
最上梁人という存在の危うさと、希少性が改めて浮き彫りになる。
「でも、もしもさ、梁人以外にも〈幻想兵装〉を扱える人間がいたら? 怪物にならずに『力』だけを振るえる軍隊を作れたら、〈試練級〉とも戦えるんじゃない?」
アリスの提案に、天村は即座に首を横に振った。
「不可能だ。最上の精神構造は奇跡に近いバランスで成り立っている。通常の人間なら、間違いなく〈犯人〉化する。適性者がそうそう居るわけがない」
「あら。本当にそうかしら?」
凛とした声が、天村の否定を遮った。
カタリストだ。
彼女は優雅に脚を組み替え、黒い瞳を細めて微笑んだ。
「適性者がいないなら、
カタリストが手元のコンソールを操作する。
円卓の中央に、新たな映像が投影された。
それは、警視庁の地下深部にある、極秘隔離施設の監視映像だった。
分厚い強化ガラスの向こう。
椅子のような台座に固定された「何か」が映し出されている。
天村が目を凝らし――そして、息を呑んだ。
「これは……!?」
映像の中の人物には、手足がなかった。
両腕は肩から、両脚は太腿から、乱暴に切断されている。
血が滲む包帯でぐるぐる巻きにされたその姿は、まるで不気味な人形のようだ。
ただ、その胴体を覆うように、艶やかな長い黒髪が床まで垂れ下がっているのが、かろうじて彼女が女性であることを示していた。
「先日、私が独自に発見し、確保した検体よ」
カタリストは、まるで手に入れたばかりのコレクションを自慢するように語り出した。
「まだ中学生の女の子よ。……彼女はね、ある〈犯人〉の襲撃によって家族を皆殺しにされ、天涯孤独になったの。当然、彼女は犯人への激しい憎悪と、何も守れなかった自分への絶望に苛まれた」
彼女は歌うように続ける。
「強すぎる怒りは、彼女自身を〈犯人〉へと変えようとした。……でも、彼女は抗ったわ。自分が憎むべき怪物になり果ててしまうことを、彼女の潔癖なプライドが許さなかった」
アリスが興味深そうに身を乗り出す。
強い衝動を持ちながら、怪物化を拒絶する。それは最上梁人と同じ資質だ。
「だから彼女は、自分を『律した』のよ」
カタリストが、残酷な事実を告げる。
「暴れ出しそうになる自分を止めるために。誰かを傷つけようとする手を、どこかへ走り出そうとする足を――自ら切り落としたの」
会議室が凍りついた。
自傷。それも、四肢の切断という極限の自己破壊。
怪物にならないために、人間としての形を捨てる。その狂気じみた精神力。
「私が路地裏で彼女を拾った時、彼女は自身の血と黒髪にまみれて、芋虫のように転がっていたわ。常人ならショック死していてもおかしくない出血量だったけれど、彼女は生きていた。……いいえ、生きて私を見上げ、こう言ったのよ」
『私は怪物を殺す怪物になるから、手を貸して』
「彼女は自ら望んで、私の
クスクスと、カタリストが笑う。
「現在は〈予兆〉としての浸食が進み、もう言葉を話すこともできないわ。彼女の中の人間性は、犯人を殺すという一点を除いて燃え尽きてしまった」
映像の中の黒髪の肉塊が、ガタリと揺れた。
長い髪の隙間から覗く視線。その存在が放つ殺意のプレッシャーは、モニター越しでも肌を刺すほどだ。
「どう、天村? 彼女を生かすも殺すも、この会議次第よ」
カタリストは天村を見据え、試すような笑みを向けた。
「このまま廃棄処分にしてゴミにするか。それとも……最上梁人に次ぐ『第二の剣』としてリサイクルするか。選んでちょうだい?」
悪魔の提案。
アリスは目を細め、その映像を見つめた。
自分を破壊してまで怪物化に抗った少女。その妄執は、あるいは梁人以上に〈幻想兵装〉に近い場所にいるのかもしれない。
会議室に、決断を迫る重い沈黙が満ちていった。
⚃
会議室の空気が、重く澱んでいた。
円卓に座る幹部たちは、誰も言葉を発しない。
モニターに映し出された、手足のない黒髪の少女。その姿があまりにも痛ましく、同時に、彼女から放たれる「殺意」があまりにも異質だったからだ。
天村は、眉間の皺を深く刻みながら、ホログラムの少女と、手元の「消失領域」の地図を交互に見やった。
倫理など、とうに崩壊している。
中学生の少女を兵器として利用するなど、平時であれば即座に却下すべき狂気だ。
だが、今の東京に平時など存在しない。
迫りくる〈試練級〉の脅威。最上梁人ただ一人に依存している現状。このままでは、ジリ貧になることは明白だった。
「……確率は」
天村が、絞り出すような声で問うた。
「その『少女』が、最上のような制御可能な戦力になる確率は、どの程度だ」
「五分五分ね」
カタリストは即答した。悪びれる様子もなく、淡々と事実を述べる。
「彼女の精神は強固だけれど、肉体の欠損による負荷が大きい。
沈黙。
天村は目を閉じ、深く息を吐き出した。
それは、人間としての良心を切り捨て、冷徹な指揮官としての仮面を被り直すための儀式だった。
「……いいだろう」
天村が目を開く。そこにはもう、迷いの色はなかった。
「彼女が『モノ』になるのであれば、許可する。……処遇は、全て貴様に任せる」
「賢明な判断ね、局長」
カタリストが、艶やかに微笑んだ。
彼女はモニターを消灯させ、まるで勝利宣言のように立ち上がった。
「安心なさい。元の名前も、人間としての尊厳も、彼女自身がとっくに捨てているわ。だから私が新しい
カタリストは、薄い唇を歪めてその名を告げた。
「〈シックスオー〉。……それが、あの子の新しい名前よ」
シックスオー。
人間であることを辞め、ただ敵を殲滅するための機構として生きることを選んだ少女への、無機質な洗礼名。
カタリストは足取り軽く会議室を出て行った。新たな玩具を手に入れた子供のように。
⚄
会議は解散となった。
幹部たちが重い足取りで退室していく中、アリスだけが椅子に座ったまま、消えたモニターの残像を見つめていた。
(自らを傷つけてまで、怪物になることを拒んだ女の子、か)
四肢を失い、名前を捨て、それでも復讐のために生きることを選んだ少女、シックスオー。
その妄執は、確かに最上梁人に通じるものがある。
「……かわいそうに」
アリスは誰にともなく呟いた。
それは同情ではない。これから彼女が歩むことになる、人間でも怪物でもない「地獄」への、先輩としての皮肉な祝福だった。
「梁人にお友達ができるね。……仲良くできるといいけど」
少女の赤い瞳が、楽しげに、そして残酷に歪んだ。
こうして、新たな「怪物殺しの怪物」が、暗い地下室で産声を上げようとしていた。
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