Phase:4〈正体不明の怪物〉①
最上梁人は夢を見ていた。
それは、毎夜うなされる〈レッド・クイーン事件〉の
精神漂白によって擦り切れ、穴だらけになった現在の視点でもない。
もっと古く、まだ彼が「最上梁人」という個を確かに持っていた頃の、鮮明すぎる記憶。
所轄の刑事課から、本庁の捜査一課へと異動が決まったばかりの春だった。
当時の最上は、正義感と野心に燃え、同時にある種の絶望を感じていた。
現場で対峙する犯罪者たちの動機が、あまりにも不可解で、既存の法や倫理では計り知れない領域へと変質し始めていたからだ。
論理が通じない。動機が見えない。
そんな「正体不明の悪意」を解剖するために、彼はある人物の元を訪ねていた。
⚁
重厚な木の扉をノックする。
微かなアルコールの匂いと、古書の埃っぽい匂いが廊下まで漏れ出している。
「――どうぞ。鍵は開いています」
中から聞こえたのは、鈴を転がすような、それでいて氷のように透き通った女性の声だった。
最上は緊張しながらドアノブを回した。
その男、最上梁人の出立ちは、大学の研究室には酷く不釣り合いだった。
喪服を思わせる漆黒のスーツ。ネクタイもシャツも、遊び心の一切ない黒で統一されている。
身長は一八〇センチを優に超えているが、病的なまでに痩せ細っており、そのシルエットはまるで鋭利な「黒い針金」のようだ。
無造作に伸びた黒髪が、照明の届かない影のように額にかかり、その奥にある瞳は、神経質なまでの潔癖さと、獲物を追い詰める猟犬の如き鋭さを宿していた。
「……捜査一課の、最上梁人巡査部長です」
最上が名乗るが、部屋の主からの返答はない。
机の向こうに、白衣を纏った女性――
その容姿は、同じ人間という種族であることさえ疑わせるほど、浮世離れしていた。
窓から差し込む陽光を透かすような、色素の抜け落ちた白銀の長髪。
肌は陶器のように白く、血管の青ささえ透けて見えそうだ。
整いすぎた顔立ちは、精巧なビスクドールを思わせ、生身の温もりが欠落している。
彼女は最上に視線すら向けず、手元に山と積まれたレポートに没頭していた。
犯罪者の精神鑑定書、解剖記録、現場写真。
彼女の白く細い指は、それらを機械的な速度でめくり、瞳は文字の羅列をスキャンするように滑っている。
「……羽海野教授」
「聞いていますよ。そこに立っていられると気が散るのですが」
彼女は書類から目を離さずに言った。その声には、訪問者への関心など欠片もなく、ただ邪魔な羽音を払うような冷淡さだけがあった。
「現場の叩き上げが、こんな象牙の塔に何の用でしょうか。私、警察の方にはあまり好かれていない自覚があるのですけれど」
「……教えを請いに来ました」
最上は彼女の無視を意に介さず、黒い彫像のように直立不動のまま告げた。
「現場で起きている事象が、理解できなくなってきています。常識の外側で人を殺す連中が、何を考え、何を見ているのか。……俺には、奴らの『
「それで?」
ペラリ、とページをめくる音が乾いた部屋に響く。
「怪物の心を覗いて、奴らの思考を先読みしたい? そうすれば、より効率的に『殺せる』から?」
彼女は退屈そうに吐き捨てた。
警察など、どうせ暴力装置の一部だろうという軽蔑が透けていた。
だが、最上は即座に否定した。
「違います。殺すのは刑事の仕事じゃない」
最上の迷いのない声に、めくられかけていたページの手がピタリと止まった。
「俺たちの仕事は、生きて捕らえ、法の元へ引きずり出すことだ。正しい裁きを下すのは、俺たち刑事ではない。法であり、システムだ」
数秒の沈黙。
やがて、羽海野有数はゆっくりと顔を上げた。
白銀の髪がさらりと流れ、その下に隠されていた瞳が露わになる。
凝固した血液のような、あるいは最高級のルビーのような、鮮烈な深紅の瞳。
その瞳が、初めて「最上梁人」という人間を捉えた。
そこにあったのは、未知の実験動物を見つけた時のような、底知れない好奇心だった。
「……へえ。貴方、『正しさ』なんてものを信じているのね」
彼女はレポートの山を脇に押しやり、頬杖をついて妖艶に微笑んだ。
黒ずくめの死神のような男と、白衣を纏った天使のような悪魔。
対照的な二人の視線が交差する。
「いいでしょう、最上刑事。貴方がその潔癖な理想を持ったまま、どこまで深淵を覗けるのか……案内してあげます。人の形をした獣たちが住む、暗くて深い森の奥へ」
それが、後に殺し合うことになる二人の、全ての始まりだった。
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