第12話「契約の終わり、愛の始まり」

 書斎の暖炉の炎が、静かに揺らめいている。俺は、グラスの中の琥珀色の液体を、ただ見つめていた。


 セレスティアを、この腕で抱きしめた。マント越しに伝わる彼女の温もりと、微かな震え。あの瞬間、俺は世界の全てを手に入れたような気持ちになった。


 だが、同時に、激しい後悔が俺を襲う。


 俺は、彼女を危険な目に遭わせた。俺が、もっと早く行動していれば。俺が、最初から素直に想いを伝えていれば。


 彼女は、俺のことをどう思っただろうか。ゲッコーの手を切り落とした、残忍で野蛮な男だと、軽蔑しただろうか。怯えさせてしまっただろうか。


 また、彼女との間に、分厚い壁を作ってしまったのかもしれない。


 コンコン、と控えめなノックの音。


「…入れ」


 ドアが開き、入ってきたのはセレスティアだった。彼女の瞳は、少し赤く腫れている。泣いていたのだろうか。俺のせいで。


 彼女は、まっすぐに俺の元へ歩み寄ってきた。その金色の瞳には、もう怯えの色はなかった。ただ、強い意志の光が宿っている。


「リアム様」


 彼女が、初めて俺の名前を呼んだ。いつもは「旦那様」と、どこか他人行儀な呼び方だったのに。


「先ほどは…助けてくださり、ありがとうございました」


「…当然のことをしたまでだ」


 俺は、素っ気なく答えることしかできない。今、彼女の顔をまともに見たら、きっと、全てが崩れてしまいそうだった。


 沈黙が落ちる。彼女が、何かを言おうとして、唇を震わせているのが分かった。


「ギルバートさんから、全て聞きました」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。全て。どこまでだ。俺の十年越しの、醜い執着の全てを、知られてしまったのか。


「あなたが、ずっと私のことを…」


「…そうだ」


 もう、隠すのはやめよう。どうせ知られてしまったのなら。


 俺は、グラスを置くと、彼女に向き直った。


「十年前に、庭園で君に会ったあの日から、ずっと君だけを見てきた。君を手に入れるためなら、どんな汚い手も使った。君の全てが欲しかった」


 俺は、自嘲気味に笑う。


「君が他の誰かに微笑むのが、耐えられなかった。君の作るものを、俺以外の誰かが口にすることが、許せなかった。君が俺の知らない場所へ行くこと、俺の知らない人間と話すこと、その全てに嫉妬した」


 これが、俺の本心。醜く、歪んだ、独占欲の塊。


「君が俺のものでなくなるくらいなら、世界ごと壊してしまいたかった。それくらい、君を…」


「愛しています」


 俺の言葉を遮ったのは、セレスティアだった。


 彼女は、涙を浮かべたまま、花が綻ぶように微笑んでいた。


「私も、あなたを愛しています、リアム様」


 時が、止まったかのような感覚。今、彼女は、何と?


「最初にお会いした時、あなたの冷たい態度に、私は嫌われているのだとばかり思っていました。だから、いつか離縁される日のために、一人で生きていけるようにならなければと…」


 彼女は、商売を始めた理由を、ぽつりぽつりと話し始めた。


「でも、あなたの本当の気持ちを知って…嬉しかった。あなたが、ずっと私のことを見ていてくれたことが。守ってくれていたことが」


 彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。


「ごめんなさい。私、あなたの優しさに、全然気づいてあげられなくて。一人で、たくさん悩ませてしまって…」


 違う。謝るべきは、俺の方だ。


 俺は、たまらず彼女を抱きしめていた。力いっぱい、壊してしまいそうなほど強く。


「謝るな。悪いのは、全て俺だ。こんなにも愛しているのに、伝えられなかった。不器用なばかりに、君を傷つけ、不安にさせた」


「リアム様…」


「セレスティア。もう、様なんてつけなくていい。リアム、と呼んでくれ」


 腕の中で、彼女がこくりと頷く気配がした。


「リアム…」


 甘く、とろけるような声。その声で名前を呼ばれるだけで、俺の理性は焼き切れそうだった。


 俺は、彼女の唇を塞いだ。今までの十年分を取り返すかのように、深く、激しく。最初は驚いていた彼女も、やがておずおずと俺の背中に腕を回し、その口付けに応えてくれた。


 長い、長い口付けの後、俺たちはどちらからともなく唇を離した。互いの額をくっつけたまま、荒い息を整える。


「セレスティア。俺は、君を誰にも渡さない。君の髪の一本、吐息の一つまで、全て俺のものだ」


 俺の言葉に、彼女は怯えることなく、幸せそうに微笑んだ。


「はい。私は、あなたのものです。リアム」


 その夜、俺たちは初めて、心も体も、本当の意味で一つになった。


 初夜の、あの義務的で冷たい行為とは全く違う。互いの名前を呼び合い、互いの温もりを確かめ合う、愛に満ちた時間。


 彼女の全てを、俺の中に刻み付ける。彼女の中にも、俺の全てを刻み付ける。


 もう二度と、離れられないように。


 夜が明ける頃、俺の腕の中で眠る彼女の寝顔を見ながら、俺は静かに誓った。


 これからは、俺が君を、世界で一番幸せにすると。


 契約から始まった偽りの結婚は、この日、終わりを告げた。そして、誰よりも熱く、激しい、真実の愛が始まったのだ。

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