第11話「氷の公爵の激情」
ゴールデン・スケール商会の応接室は、悪趣味なほどに豪華だった。金ピカの調度品に囲まれ、私は会頭であるゲッコーと向かい合っていた。
ゲッコーは、太った体に高価な絹の服をまとった、まるで油豚のような男だった。彼は値踏みするような視線を私に送りながら、にやにやと笑っている。
「それで、ルナ・フレグランスのお嬢さん。一体、何の用かな?」
「私たちの商会への妨害工作を、今すぐやめていただきたいのです。話し合いで解決できるのなら…」
私の言葉を、ゲッコーはせせら笑って遮った。
「話し合い? 馬鹿なことを言うな。お前のような小娘が、この俺と対等に話ができるとでも思ったのか?」
彼は椅子から立ち上がると、ゆっくりと私に近づいてきた。不潔な手が、私の肩に置かれる。
「ひっ…!」
思わず身を引くと、ゲッコーの笑い声が部屋に響いた。
「まあ、そう嫌がるなよ。一つ、いい提案がある。お前が俺の『愛人』になるってんなら、商会のこと、考えてやってもいいぜ?」
その下劣な言葉に、全身の血が凍りつくような感覚を覚えた。私は恐怖と怒りで震える声で叫んだ。
「ふざけないでください! 私は、人の妻です!」
「妻? ああ、あの没落寸前の伯爵家の…。そんなもの、飾りみたいなものだろうが」
ゲッコーが、私の腕を掴んで引き寄せようとした、その瞬間だった。
バァン!!
応接室の重厚な扉が、凄まじい勢いで蹴破られた。
そこに立っていたのは、黒い騎士服に身を包み、抜き身の剣を携えた、リアム様だった。彼の背後には、武装した騎士たちがずらりと並んでいる。
「リ、リアム様…!?」
なぜ、あなたがここに。
彼の姿は、いつもの冷静沈着な「氷の公爵」ではなかった。その碧眼は、見たこともないほどの激しい怒りの炎に燃え、部屋中の空気を凍てつかせるほどの殺気を放っていた。
「…貴様が、ゲッコーか」
地を這うような低い声。ゲッコーは、突然の乱入者に一瞬怯んだが、相手がアークライト公爵だと分かると、虚勢を張って怒鳴った。
「な、何の真似だ、アークライト公爵! ここは私の商会だぞ! 不法侵入で訴えてやる!」
「好きにしろ。だが、その前に、お前には聞きたいことがある」
リアム様は、ゆっくりと、一歩一歩、ゲッコーに近づいていく。その威圧感に、ゲッコーの額に脂汗が浮かんだ。
「その汚い手で、誰に触れた?」
リアム様の言葉の意味が分からず、ゲッコーが戸惑っていると、リアム様の剣が閃光のように動いた。
ギャアアア!
ゲッコーの悲鳴が響き渡る。彼が私に触れた方の手が、手首から先、綺麗に切り落とされ、床に転がっていた。
あまりの光景に、私は声も出せずに立ち尽くす。
「もう一度聞く。その汚い手で、誰に触れた?」
リアム様は、血の滴る剣先をゲッコーの喉元に突きつけ、氷よりも冷たい声で問い詰めた。
「ひ、ひぃぃ…! お、お許しを…! もう二度と、奥方には…!」
ゲッコーは、腰を抜かして床にへたり込み、命乞いを始めた。
リアム様は、汚物を見るような目で彼を一瞥すると、剣を収めた。そして、私の方へ向き直る。
「怪我は、ないか」
その声は、まだ怒りの色が残っていたが、どこか心配するような響きがあった。私は、ただ小さく頷くことしかできない。
彼は私のそばに来ると、自分のマントで私の体をすっぽりと包み込んだ。彼の香りに包まれて、私はようやく、強張っていた体の力が抜けていくのを感じた。
「ギルバート」
「はっ」
いつの間にかそばに控えていたギルバートさんが、深々と頭を下げた。
「ゴールデン・スケール商会を、不正取引及び公爵夫人に対する脅迫の容疑で摘発する。関係者は一人残らず捕らえろ。奴らの財産は、全て没収だ」
「かしこまりました」
騎士たちが、テキパキとゲッコーたちを連行していく。その間、リアム様はずっと、私を腕の中に抱きしめてくれていた。
屋敷に戻る馬車の中、私たちは無言だった。私の頭は、まだ混乱していた。どうして、リアム様が助けに来てくれたんだろう。私のことなんて、邪魔だと思っていたはずなのに。
屋敷に着くと、ギルバートさんが私にそっと声をかけてきた。リアム様は、先に書斎へ向かったようだ。
「奥様、少しだけ、お時間をいただけますでしょうか」
客間で、ギルバートさんは静かに語り始めた。
リアム様が、十年も前から、私のことをずっと想い続けていたこと。私の家が危機にあると知り、私を手に入れるためになりふり構わず行動したこと。
本当は、愛していると伝えたいのに、不器用さから冷たい態度しか取れなかったこと。
私の始めた商売も、私が他の男と関わったり、危険な目に合ったりしないか、心配でたまらなかったこと。その嫉妬と独占欲から、過保護なまでに監視していたこと。
私がチンピラに絡まれた時、彼が激怒し、裏で全て処理していたこと。
私が欲しがっていた月光花の精油を、匿名で贈ったのも、彼だったこと。
「旦那様は、奥様のことを、片時も忘れたことなどございません。ただ…その想いが強すぎるあまり、どう表現していいか分からなかったのです。どうか、お許しください」
ギルバートさんの言葉の一つ一つが、私の心に染み込んでいく。
勘違い…? 全部、私の勘違いだったの?
嫌われていたんじゃなかった。邪魔だと思われていたんじゃなかった。
あの冷たい視線も、硬い態度も、全てが、私を愛するが故の、不器用な行動だった…?
涙が、後から後から溢れてきた。嬉しさと、申し訳なさと、そして愛しさで、胸がいっぱいになる。
あの人は、ずっと一人で、苦しんでいたんだ。私への想いを抱えながら。
私は、ギルバートさんにお礼を言うと、一つの決意を胸に、彼の待つ書斎へと向かった。
もう、逃げない。私も、彼とちゃんと向き合わなければ。
私の、本当の気持ちを、伝えなければ。
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