番外編「侍女たちが見た、氷の溶解」

 あの日、奥様が旦那様の書斎へ向かわれてから、私たち侍女は、それはもう気が気ではありませんでした。


「奥様、大丈夫かしら…」


「旦那様、また冷たい態度を取ったりしないわよね…」


 皆で廊下の隅に集まって、固唾を飲んで見守っていたのです。


 そうしたら、どうでしょう。翌朝、食堂に現れたお二人の姿を見て、私たちは全員、あんぐりと口を開けてしまいました。


 いつもは氷の彫像のように無表情な旦那様が、それはもう、見たこともないような優しい顔で、奥様を見つめていらっしゃるのです。しかも、奥様の椅子の引き方から、お水の注ぎ方まで、それはもう至れり尽くせり。


「セレスティア、眠れたか?」


「はい、リアム。あなたの腕の中が、一番よく眠れますわ」


『ひゃあああああ!』


 私たち侍女は、心の中で一斉に悲鳴を上げました。奥様が旦那様を呼び捨てに! しかも、なんですか、あの甘い雰囲気は! 昨夜、何があったのか、聞かなくても分かってしまいます!


 それからの旦那様の変わりようは、凄まじいものでした。


 執務中であろうと、奥様が庭を散歩していると知れば、仕事を放り出して飛んでいく。


 奥様が新しいお菓子を試作すれば、誰よりも先に試食し、「世界一美味い」と手放しで絶賛する。(そして、残りは全て自分のものだと、他の使用人には一切分け与えようとしないのです)


 奥様が少しでも他の男性使用人と話そうものなら、どこからともなく現れて、相手を殺さんばかりの眼光で睨みつける。


 もはや、あれは「氷の公爵」ではありません。ただの「奥様大好き公爵」です。


 ギルバートさんなんて、旦那様のあまりの変貌ぶりに、嬉しさと呆れの入り混じった顔で、よく溜息をついていらっしゃいます。


「まあ、長年の想いが通じたのだから、仕方ないのかもしれんが…少々、公務に支障が出ているのがな…」


 先日など、こんなことがありました。


 奥様が、ルナ・フレグランスの経営再建について、マルクさんと打ち合わせをされていた時のことです。旦那様は、その間ずっと、部屋の隅の椅子に座って、腕を組んで二人を監視していました。


 マルクさんが、緊張で顔をこわばらせながら、必死に経営プランを説明します。


「…ですので、こちらの販路を拡大すれば、利益はさらに見込めるかと…」


「ふむ。悪くない案だが、それではセレスティアの負担が大きすぎるだろう。却下だ」


「は、はぁ…では、こちらの新商品の案ですが…」


「これはセレスティアが危険な仕入れ先へ行く必要があるな。却下だ」


「……」


 マルクさんが、泣きそうな顔でこちらを見てきます。私には、どうすることもできません。


 結局、旦那様が「資金も人材も、俺が全て用意する。セレスティアは、ただそこに座って、微笑んでいればいい」などと言い出したものですから、奥様が「それでは私がいる意味がありませんわ!」と、少しだけ頬をぷっくりと膨らませて怒ってしまいました。


 すると、どうでしょう。あの旦那様が、みるみるうちに青ざめて、シュン…と子犬のようにしょげてしまったのです。


「す、すまない、セレスティア…。俺は、ただ、君に苦労はさせたくなくて…」


「分かっていますわ、リアム。でも、これは私の夢でもあるのです。だから、そばで見守っていてくださるだけで、嬉しいのですよ」


 奥様にそう言って微笑みかけられると、旦那様はぱあっと顔を輝かせて、それはもうデレデレの笑顔に。


 私たちは、その甘すぎる光景に、胸焼けを起こしそうでした。


 ああ、あの冷徹で、近寄りがたかった旦那様は、どこへ行ってしまわれたのでしょう。


 でも、奥様の本当に幸せそうな笑顔を見ていると、私たちまで幸せな気持ちになります。


 このお屋敷に、本当の春が来た。


 侍女たちは皆、そう思っているのでした。


 今日も、旦那様の「セレスティア、愛している」「まあ、リアムったら」という甘い囁きが、廊下にまで聞こえてきています。


 ええ、ええ。どうぞ、末永くお幸せに。私たちも、温かい紅茶でも飲みながら、生温かく見守らせていただくことにしますわ。

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