第6話【悪女は、その聖騎士を悪に染める】

その夜。

晩餐を終え、フィアリーナは自室のベッドにぐったり倒れ込んでいた。


(……今日は散々だったわ……

足にキスされるなんて……

あんなの……想定外にもほどがある……)


腕で顔を覆い、天井をにらむようにしていたが――

数分後、ばっ、と跳ね起きた。


(……いやいや! まだ終わってないわ!

わたくしには……“最終兵器”があるじゃないの!!)


悪女・フィアリーナの奥義――

ふしだら令嬢の誘惑作戦。


廊下を急ぎ、まずはミアを捕まえる。


「アルト様は……?」


「は、はい……ただいま浴室に……。

……まさかお嬢様!? 本気ですか!?」


「ええ。本気よ。もうやけくそなの。」


ミアの絶叫寸前の顔を残し、

フィアリーナは浴室へ向かった。


公爵家自慢の巨大浴室。

床は磨かれた大理石、壁は蒸気でしっとりと曇っている。

薄く灯された魔道灯が湯気越しに揺れて、

どこか怪しく、美しい影を作っていた。


タオル一枚。

胸元も、肩も、足も……惜しげなく露わ。


(聖騎士である以上、絶対に嫌がるはず。

“ふしだらな女なんて無理だ”って距離を置くはず!

今度こそは諦めてもらうんだから!!)


扉に手をかけ――


ガチャ。


「失礼しま――」


ふわり、と熱い蒸気が流れ出す。

薄い湯気の層の向こうで――

アルトが湯船の縁に腰かけていた。


濡れた金髪が頬にかかり、

肌には水滴がゆっくりと伝い落ちていく。

白い湯気がその身体を隠しそうで隠さず、

鍛えられた胸元と腹筋が、柔らかな光に浮かびあがっていた。


青い瞳が、ゆるやかにフィアリーナへ向く。


「……フィアリーナ様?」


低く落ち着いた声。

その一言だけで、湯気が震えた気がした。


(う、うわぁぁぁぁ……やっぱり……綺麗すぎる……!!

違う!!今は見惚れてる場合じゃ……!!)


胸元を押さえ、フィアリーナは必死に悪女の仮面を被る。


「わ、わたくし……アルト様を誘惑しに来ましたわ……!」


浴室に響く、自分でも信じられない台詞。


アルトは一瞬静かに目を瞬かせ――

ゆっくりと立ち上がった。


湯が肩をつたい、滴となって落ちる。

濡れた髪をかき上げる仕草は、

普段の誠実そのものの青年とはまるで違う――

どこか、危険なほど色気をまとった大人の男。


足音は静かで、けれど確実に近づいてくる。


「……いいですよ。」


「…………は?」


耳に落ちた声は、

湯気の熱よりも濃密な温度を帯びていた。


「いずれ跡継ぎを、とお義父様には言われておりますし。」


あまりにも落ち着いた声で言われる“跡継ぎ”に、

フィアリーナの脳が真っ白になる。


(え……?え……??跡継ぎって……今!?!?)


アルトはさらに近づき、

指先で彼女の顎をそっと持ち上げた。


濡れた指先の冷たさと、

彼の体温の熱さが同時に触れ、

フィアリーナの全身がびくりと震える。


「……これは、後か……今かの違いです。」


彼の顔が近い。

息が触れるほど近い。


「僕は……いつでも構いませんよ。」


青い瞳の奥には、迷いがひとつもなかった。

まるで彼女を愛することだけが、生まれた使命であるかのような真剣さ。


「ちょっ……えっ……まっ……!!?」


唇が触れようとした――瞬間。


世界がぐるりと回り、

視界が一気に暗くなった。


バタッ。


フィアリーナは完全に気絶した。


アルトはそんな彼女を、全く焦らず抱き留める。


濡れた髪が肩に落ちるくらいの距離。

倒れ込んだ彼女の頬を、指先が優しく撫でる。


「……残念。」


ほんの少しだけ笑って。


「……お部屋までお連れしますね。」


お湯で温まった身体のような、甘やさを含む声。

アルトは気絶したフィアリーナをそっと抱き寄せ、

濡れた髪が彼女の頬へ触れないよう丁寧に腕の位置を調整した。


揺れぬように抱き上げて、浴室の明かりを背に歩き出す。


廊下に出ると、足音だけが静かに響き、

眠るフィアリーナの横顔が月明かりに照らされた。


アルトはその頬を一度だけ名残惜しそうに見つめ――

そっと扉を開け、ベッドへ横たえる。


毛布を整え、彼女の呼吸が安らいでいるのを確認すると、

一拍置いてから部屋を後にした。


◇◆◇◆◇◆◇


フィアリーナを部屋まで送り届け、

彼女が静かに眠りにつくのを確認したのち――


アルトは自室へ戻り、そっと扉を閉めた。


その瞬間――

まるで仮面が剥がれ落ちるように、

“聖騎士の微笑み”がゆっくり消えていく。


アルトは自室へ戻り、そっと扉を閉めた。


その瞬間――

まるで仮面が剥がれ落ちるように、

“聖騎士の微笑み”がゆっくりと消えていく。


胸の奥に、言葉では表せない熱が渦を巻いていた。

甘く、苦く、どうしようもなく満ちてくる感情。


アルトの唇から、自然と零れた。


「……ふ……ふふ……ふん……ふん…♪ ふふふ……」


それは“鼻歌”というには甘美すぎて、

“笑い声”というには危険すぎた。


艶めいた呼気とともに、

闇に溶けていくような低い旋律。


これが“聖騎士の鼻歌”などとは誰も思うまい。

卓上のワインボトルに手を伸ばす。


迷いなど欠片もなく、深紅のワインを注いだ。


聖騎士にとって酒は禁じられている。

それでも、今のアルトにとって――そんな戒律は、もはや記憶の埃ほどの価値しかない。


(……今日で、すべてが変わった)


グラスを持ち上げひと口含むと、

芳醇な香りが舌に広がり、息とともにゆるやかに熱へ変わる。


「……美味しい。」


唇が深紅に濡れ、とろりと緩んだ。


(それにしても……フィアリーナ様……)


湯気の中で赤く染まった頬。

気絶する寸前の、あのか細い息。

腕の中へ崩れ落ちた柔らかさ。


(全部……愛おしくて……)


アルトは深紅の液体をゆっくり揺らしながら、

その小さな波紋に夢の名残のような熱を感じていた。


止めようとすればするほど、

胸の奥から甘い感情が溢れてくる。


もう一口。

グラスを傾け、舌に広がる香りを確かめるように味わう。


……と、そのとき。


ふわり、と夜風の気配がした。

ほんのかすかな音――

どこかで布が揺れるような微かな気配。


アルトは無意識に顔を上げる。


(……?)


手にはまだワイングラスを持ったまま、

ゆっくりと窓のほうへ歩み出す。


床板が静かに軋む。

グラスの中の深紅が、歩みに合わせてわずかに揺れる。


窓際に近づくと、

薄いカーテンが夜風でふわりと揺れた。


アルトはその端を、

グラスを持っていない指先でそっと押さえ、


――月光を浴びる中庭を覗いた。


そこにいたのは、白い寝巻のフィアリーナだった。


月明かりに照らされた黒髪が風にふれ、

静かな庭の中で彼女だけが淡い光を纏っているようだった。


アルトはふわりと目元を緩める。


「……もう目覚めたのですね。」


その声音には、優しさが滲んでいる。


しかし――

次の瞬間。


彼女が“誰か”と向かい合っていることに気づいた。


黒髪、褐色肌。

帝都の者ではない、見慣れぬ装束の男。


夜の闇の中で、二人は妙に近い距離で言葉を交わしていた。


アルトの動きが止まった。


「………………」


静かに、しかし確実に。

青い瞳が細められ、温度が変わっていく。


さっきまでの優しさが、ひと雫ずつ落ちて消えるように――

冷えた光が、瞳の奥からゆっくりとにじみ出る。


グラスを持つ手が止まり、

深紅が小さく揺れた。


「……誰ですか。」


低く、かすかに掠れた声。

甘さの裏に、刃のような鋭さが潜んでいた。


アルトは椅子を押しのけ、静かに立ち上がる。

月光に照らされた頬がわずかに赤く、

呼吸は熱を含んでいるのに――

その瞳だけが、どこまでも冷たい。


そして。


肩にかけていた バスローブの紐へ、指先を伸ばした。


ほんの一瞬の息づかい。

その場の空気が、ぐっと濃く沈む。


アルトは――

バスローブの結び目をほどいた。


すべるように布が落ち、

白いローブが床へ静かに広がる。


ぱさ……っ。


その小さな音だけが部屋に残った。

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