第7話【暴走の聖騎士、やらかす。】
アルトがヴェルティナージュ家に住み始めて、
そろそろ一ヶ月になろうかという朝。
ヴェルティナージュ公爵家・フィアリーナの自室。
レースのカーテン越しに陽が差し込み、
香りのよい紅茶と焼き菓子が並ぶ優雅な朝――になるはずだった。
だが。
「ぎゃああぁぁぁぁッ!!」
廊下から、けたたましい男の悲鳴。
フィアリーナはカップを置き、そっと振り返る。
(……なに今の。)
考える間もなく――
――バンッ!!
扉が勢いよく開き、黒髪・褐色肌の男が転がり込んできた。
「フィアリーナ様ぁぁ!! あの男が!!
あの男がぁぁぁぁ!!」
息は荒く、顔は真っ青。
その男――ロバートが床にへたり込む。
「……あの男?」
フィアリーナが眉をひそめた瞬間。
部屋の影から、ぞくりと冷える声が落ちた。
「ほう……ノックすら不要なほど親しい仲だったとは。
……ずいぶんと消されたいらしいな?」
影から歩み出たのはアルト。
陽光の中にいるはずなのに、彼の周囲だけ冷気が帯びていく。
微笑んでいるのに、目はまったく笑っていない。
ロバートは壁に張り付き、震えながら叫ぶ。
「ひぃぃぃ……!!」
アルトがただ一歩踏み出すだけで、
床に落ちる影が凍りつくように伸びた。
「死を覚悟しろ。」
「ヒィィィィィィ!!!??」
フィアリーナは反射的に叫ぶ。
「ちょ、ちょっとストーーップ!!」
彼女は急いでアルトの前に立ちふさがり、勢いよく腕を掴んだ。
「アルト様!!ロバートをいじめないで!!」
アルトは微動だにせず、氷のような声で問い返す。
「……フィアリーナ様は、この男の本性をご存知なのですか?」
「ほんしょう?」
青い瞳は鋭く、まるで裁きを下す前の刃。
「昨日、ディアセル侯爵家のエリザベート嬢と密会していました。」
「え?」
フィアリーナの目が丸くなる。
「フィアリーナ様の寵愛を受けておきながら、裏切るなど……許しがたい。
僕が裁きます。」
「待って待って待って!!」
フィアリーナは額に手を当て、深ーーーーいため息をつく。
そしてロバートの肩に手を置き、説明を始めた。
「違うのよ。
ロバートは“当家の庭師兼、諜報員”。
ディアセル侯爵家の件――最近若い子が何人も行方不明になっているでしょう?
その調査のために潜入させていたの。」
ロバートは「そうなんですよぉぉ……」と泣きながら頷く。
「お嬢様の命令で潜入してたのに……あぁ……痛い……
あの人、完全に本気で蹴ってきたんですよ……」
アルトの殺気がしゅわっと霧散し、
みるみる青ざめていく。
そして――深々と頭を下げた。
「……も、申し訳ございません。
僕はてっきり……フィアリーナ様を裏切ったのかと……」
(……“裏切り”って……そこまで思い詰めてたの……?)
フィアリーナはロバートの耳元に顔を寄せ、小声で囁く。
「ごめんなさいね。
今アルト様がいるから、聖女の力は使えないの。
自力で回復して。」
ロバートは涙目で叫ぶ。
「そんなぁぁ!!フィアリーナ様ぁぁ!!
あの聖騎士、容赦してなかったんですよぉぉ!!?」
そこへ、ミアが勢いよく駆け込んだ。
「はいはい、医務室行きますよー。ほら立って。」
「いやぁぁミアさまぁぁ!!もう歩けないぃぃ!!」
ずるずる引きずられていくロバート。
扉が閉まったあと。
部屋に残ったのは――
妙な気まずさと、二人だけの朝の空気。
フィアリーナはゆっくりアルトを見た。
アルトもまた、どこか所在なさげに視線を落としていた。
フィアリーナは椅子に腰を下ろし、
深呼吸するように紅茶を一口含んだ。
……が、味がまったくしない。
(はぁ……朝からこの騒ぎって、いったい何なのよ……)
カップを置くと、視界には――
部屋の中央で硬直したアルトの姿。
背筋を伸ばし、ぎこちなく胸に手を当て、
先ほどロバートを追い詰めていた“闇の気配”はどこにもない。
代わりにそこに立っているのは、
叱られた大型犬のようにしょんぼりした青年。
その落差に、
フィアリーナの胸が一瞬だけちくりと痛んだ。
……しかし。
(ここで甘やかしたらダメよ、フィアリーナ。
甘やかしたら、この男……また暴走するわ……)
彼女はわざとらしいほどのため息を落とし、
スカートの裾を整え直すと――
「アルト様。」
呼んだ瞬間、
アルトは肩を跳ねさせ、背筋がぴんと伸びた。
(……反応が、犬のそれなのよね……)
「今の騒ぎでロバートがああなってしまっては、
ディアセル侯爵家の調査、どうすればよいのかしら……」
紅茶を置き、ごく自然に眉を曇らせる。
「四日後の婚約パーティーまでに証拠が揃わなければ……
我が家の使用人が危険にさらされるかもしれないのに……」
その声音は、
“困っている令嬢”のそれでありながら――
同時に“相手を誘導する悪女”そのもの。
アルトの喉が、ごくりと鳴った。
「っ……」
フィアリーナはちらりと視線を落とす。
憂いを含んだ金色の瞳。
わざと弱さを装った角度。
頼られるのが好きな男には、いちばん効く角度。
案の定、アルトは完全に動揺していた。
「フィ、フィアリーナ様……」
かすかに声が震え、
それでも胸に手を当て、小さく息を吸い込む。
「ぼ、僕が……調査します。」
フィアリーナはすぐには返事をせず、
ほんの少し首をかしげた。
「あら……?」
アルトの肩がぴくりと跳ねる。
「できますの?
ディアセル侯爵家は由緒ある家系。
諜報員のロバートですら苦戦していたのに……
あなたに務まるのかしら?」
声は柔らかいのに、内容は鋭い。
甘い香りの中に潜む棘。
アルトは唇を噛み締め、視線を外さなかった。
「……できます。
僕が……やります。」
フィアリーナはわざと困ったように、目を伏せた。
「でも……失敗したら、どうしましょう?」
アルトが息を呑む。
そして――
フィアリーナは歩いた。
音を立てず、ゆっくりと。
アルトのすぐ目の前まで。
至近距離。
ほんの少し顔を上げれば、彼の胸に触れてしまうほど。
「婚約パーティーまでに証拠が揃わなければ……
わたくしとの婚約は延長。
もしくは――」
言葉を区切り、静かに吐息をこぼす。
「なかったことになってしまうやもしれませんね?」
アルトの青い瞳が大きく揺れた。
「……っ!」
胸の奥を鷲掴みにされたような表情。
そこにあるのは、紛れもない“恐れ”。
フィアリーナを失うことへの恐怖。
アルトは両手を握りしめ、
震える息を整えながら真っ直ぐ言った。
「い、いえ……!
僕が……まねいたことですから……
必ず……婚約披露パーティーまでに間に合わせます……!」
その声は震えていたけれど、
誓いとしての強さは揺るぎなかった。
フィアリーナはふっと瞬きをし、
悪女の微笑みを浮かべた。
(……よし。これで少しは落ち着いてくれるはず……)
金色と青がふれ合いそうな距離で重なり合う。
張り詰めた空気は甘く、少し苦い。
アルトは拳を握りしめ、
静かに、しかし強い声で言った。
「必ず……僕が守ります。
あなたの家も……
――あなたも。」
その誓いの響きに、
フィアリーナは小さく息をのみ、
頬の熱を隠すように窓の外へ視線をそらした。
(な……どうして、こんなに本気なのよ。)
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