第14話

 声をかけられ則夫が目を向けると、陽菜乃と未知留が彼の前に立って一緒にこちらを見ていた。その周囲には何人もの集団が輪になっている。娘達を交えて何か話をしていたようだ。

「はい、はい。今行きます」

 そう答えて小走りで向かった。亨と咲季はその場に留まり、ついては来なかった。 到着して輪の中に入り、

「何かな」と尋ねた途端、辰馬に怒られた。

「何かなって、えらい呑気やな、お前。自分の娘達が大変な目に遭うとるって知らんのか」

「え、た、大変な目にって、お、おい。何かあったのか」

 慌てた則夫は、まず長女の陽菜乃に目を向けると、横にいた未知留が先に答えた。「そんな大げさな話じゃないよ。まだ被害に遭った訳じゃないから」

「被害って、」と言いかけた則夫の言葉を、辰馬がさえぎった。

「被害に遭うってからやと遅い。それにやられた友達がおるって言うとったやないか。立派な犯罪被害者やないか」

「ま、待って。犯罪被害者とは聞き捨てならないな。何の被害なんだ、未知留。お父さんは聞いてないぞ」

「そんなこと、いちいち言う訳ないじゃん」

 不機嫌な声を出してそう言った未知留を、辰馬は叱った。

「こら。そんな口の利き方はあかん。則夫は立派な父親や。しっかり相談せな」

「だって、お父さんに言っても解決なんてできませんよ」

 陽菜乃が口を挟んだ。何の話か分からず困惑していると、由美が助け舟を出してくれた。

「痴漢だって。最近彼女が乗る電車でよく出るらしいの。それを聞いた彼が怒っちゃってね」

「ああ。通学の時か。そう言えば、陽菜乃が高校生の時もそんな話、聞いたな」

 未知留の通う女子高には、陽菜乃もかつて在籍していた。制服が可愛いと評判の学校だからか、時折おかしな男達が寄って来るとは耳にしたことがある。

「知っとるやないか。それで放っといたんか。せやから頼りにされんのや。しょうもない」

 いや、さっきは立派な父親だと立ててくれたのに、タッチャン、そんな手の平返しはないよ、と心の中でぼやきつつ、則夫は黙って頭を掻いた。

「あのね。そんなこと言っても、須和君だって仕事があるんだから。娘が通学途中で痴漢に遭う恐れがあるからって、一緒にずっとついていく訳にも行かないでしょ。それに娘は二人いるのよ。どっちかは守ってやれないんだから、そう無茶を言わないで」

「そ、それはそうやけど。おい、そしたら警察はどうしとんのや」

 一瞬、由美に言い負かされて萎んだ辰馬だったがすぐに立ち直り、今度は栄太に向かって抗議した。それを受けた彼は顔をしかめたが、穏やかな口調で反論した。

「あのな、辰馬。痴漢は確かに犯罪だ。しかしそれを言ったら、今この瞬間でもどこかで犯罪が起きている。その全てを取り締まれと言われても無理だ。それは理解してくれないかな」

「そんなん分かっとるわ。せやけど、実際目の前に困っとる子がおる。それも則夫の娘や。黙っておられるか」

 鼻息の荒い辰馬を見て、皆が苦笑した。しかしそれは決して嘲笑ってはいない。久しぶりに、それこそ四十二年振りに耳にした辰馬節を懐かしんでいるのだ。その上でまた困った事を言いだした、と思っているのだろう。則夫自身がそうだった。

「タッチャン。うちの娘を気遣い、心配してくれるのは有難いよ。だけどこれはそういう目に遭わないよう、本人が気を付けるしかない。陽菜乃に相談された時も夫婦で考えたさ。例えば女性専用車両に乗るとかね。後は友達と固まって乗車するとか、男の近くに寄らないとかって」

「女性専用車両ちゅうもんがあるのは知っとる。田舎にはあんまり無いらしいな。東京みたいに人が多いと必要になるっちゅうのも、ホンマに厄介やで。それだけアホなことをする奴らが多いってことやんな」

 辰馬が通常の健常者並みに回復したとはいえ、まだ仕事に就いたことはない。よって電車に乗った経験はあっても、東京の通勤ラッシュについては知識だけに留まっているようだ。

「そう。今は痴漢が犯罪だと駅でアナウンスをしているし、周囲で不審な男がいたら捕まえてくれる大人も、少しは増えたらしいけどね。それでも無くならない。逮捕を逃れる為に逃走し、ホームに飛び込んで電車に跳ねられて死んだ人もいるんだ」

「そんな話も聞ぃとる。一般人が犯罪者を捕まえるのは、私人逮捕って言うらしいな。しかし、ええことばっかりとちゃうやろ。正義感からやなく、動画の撮影で金を稼ぐのが目的の奴らだっておるそうやないか。それで逆に逮捕されたのもおったようやな」

「うん。ただ一部では何もしてくれない、見て見ぬふりする大人や、しっかり対応してくれない駅員とか警察よりも頼りになる、実際助けて貰ったって声も上がっているようだけど」

 しかしそこで栄太に反論された。

「それはSNSで書き込まれている文言だろ、則夫。実際それが本当かなんて分かりやしない。もちろん痴漢が悪いに決まっている。だけど警察を差し置いて私人逮捕すれば良いと、安易な行動を取るのはトラブルの元だ。別の犯罪を引き起こしかねないし、実際起きている。第一、そういう行動を動画で撮って金を稼ぐというのが胡散臭うさんくさいんだよ」

 OBで今も非常勤ながら警察の仕事を手伝う身としては、そう言いたくなるのも理解できる。則夫もSNSなどで金を稼ぐ今の社会環境が、決していい事ばかりでないとは思っていた。しっかりとしたルール作りは必要だろう。とはいえ良い側面もある限り、あとは各人のモラルに任せるしかないのが現状だ。

 ここで辰馬が質問した。

「ちょっと待てや。交番相談員ちゅうのは、確か警察官とはちゃうって言うとったよな」

「ああ。公務員だが逮捕権はなく、あくまで警察官の補助に過ぎない」

「せやけど、もし栄太が目の前で犯罪行為をしとる奴がおったら、身柄を確保するんやろ。それって私人逮捕になるんとちゃうんか」

 痛いところを突かれたからか、彼は言葉を詰まらせた。

 現行犯人は何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる、という刑事訴訟法第二百十三条が、私人逮捕の根拠だ。

 基本的には交番などで事件や事故発生時に警察官へ連絡したり、住民の意見や要望の聴取、遺失・拾得届物の受理、被害届の代書及び預かり、地理案内等といった事務仕事が彼の主な役割だと聞いている。

 しかしもし痴漢などを目撃した場合、警察官が来るまで何もしない訳にはいかないだろう。私人逮捕は条件さえ満たせば、相手が拒否しても強制的に身体を拘束できるし、必要最小限の実力行使は容認されているからだ。

「そうだろうけど、警視庁の所轄の刑事課にいた栄太さんを、素人と一緒にしたら悪いよ」

 そう由美が助け船を出すと、栄太は安堵した表情を浮かべていた。しかし辰馬は首を傾げた。

「そりゃあ、経験や何やらがちゃうから、全く同じやとは言わん。せやけど法的に言ったら、例えば俺がすることと栄太がするのとは同じことやろ」

 その言葉に則夫は賛同した。

「その通りだと思う。気を付けないといけない点がいくつかあるけれど、しっかり対応してさえいれば、犯罪者を取り押さえるという意味では同じだよ」

 すると栄太は、我が意を得たりと言わんばかりに主張した。

「そこだよ。気を付けないといけない点が守れるか、しっかり対応できるかが問題なんだ。私人逮捕自体は否定しない。だけど世間で騒がれている私人逮捕系ユーチューバーの中には、迷惑系と呼ばれるやからが含まれている。そこが課題だと言いたかったんだ」



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