第15話

 確かに彼の言い分にも一理ある。私人逮捕が法的に認められているとはいえ、どんな状況でもいいのではなく、当然決められた条件があるからだ。

 まず現行犯、準現行犯逮捕でなければいけない点だ。

 現行犯逮捕とは私人逮捕者にとって、現場状況等から逮捕された者が現に罪を行う、または現に罪を行い終わった者であると明らかである必要があった。これは犯罪と犯人の明白性、犯罪の現行性や時間的接着性の明白性と呼ばれている。

 逮捕者の目の前で、犯人が特定の行為を行っているか、特定の犯罪行為を終了した直後、またはそれに極めて近接した段階だと逮捕者にとって明らかでなければならない。それは場所的近接性、犯行発覚の経緯、犯行現場の状況、追跡継続の有無などの事情を総合的に勘案して判断される。

 準現行犯逮捕にもいくつか条件はあるが、さらにどんな罪でもいいのではなく、法定刑が三十万円以下の罰金、拘留、過料に当たる過失傷害罪や侮辱罪、軽犯罪法違反などでなければならず、また犯人の住所や氏名が明らかでない場合や、逃走される恐れがある場合、といった条件もあるのだ。

 こうした多くの複雑な要件が揃っている、と瞬時に判断した上で行動しなければ私人逮捕には当てはまらず、逆に犯罪者となってしまう恐れもある。

 例えば歩行者同士が衝突し相手を怪我させた場合、その人の氏名や住所を知っていたり、求めに応じて身分証を見せられた場合や逃走される恐れがなかったりした場合、私人逮捕出来ない。

 また街中で指名手配犯を見つけて取り押さえる事も違法だ。何故なら犯罪と犯人の明白性の用件を満たさないからである。さらに轢き逃げ、当て逃げ等の交通違反も私人逮捕の対象だが、違反を目撃し犯人を見失わず追跡できた場合を除き、私人逮捕は違法となるのだ。

 他にも犯人が暴れたり、逃走を図ったりすると想定し、社会通念上逮捕の為に必要かつ相当だと認められる限度内での実力行使はいいが、抵抗していないまたは逮捕に従う意思表示を素直にしているのに暴力を振るい、数人で羽交い絞めにして取り押さえるなどした場合は、暴行罪や傷害罪に問われる可能性がある。

 行き過ぎた行為により精神的ショックを受け、心的外傷後ストレス障害を発症したり睡眠障害が生じたりした場合にも傷害罪は成立する為、特に注意を要するのだ。

 他には、私人逮捕後は直ちに犯人の身柄を検察官または警察官などの司法警察職員に引き渡すことが義務付けられている。私人には一度逮捕した犯人を釈放する権限がない為だ。

 もし正当な理由なく引き渡さなければ、逮捕監禁罪に問われる可能性があり、またその際怪我をさせれば逮捕監禁致傷罪、死亡させれば逮捕監禁致死罪に問われる可能性があるのだ。

「そうよね。もし間違えて捕まえたら、それは冤罪えんざいでしょ。その場合の刑事責任や賠償責任も負わされるケースだってあるんじゃないの」

 由美がそう言うと、栄太は深く頷いた。

「誤認逮捕の場合だと、度を過ぎた暴力を振るったケースを除けば、単に間違えたというだけで刑事責任など罪に問われる可能性は低い。ただ民事責任では損害賠償請求された場合、慰謝料などの金銭的負担を負う可能性はあるだろう」

「それって、痴漢を捕まえたと思って腕を掴んで警察に突き出したら、別の人が犯人だったと分かった場合もそうなの」

 それまで黙って聞いていた未知留がそう尋ねると、彼は答えた。

「そうだね。もちろん警察に突き出すまでの過程などが色々考慮されるだろうが、可能性としてはある。動画をアップしたら、後で削除しても一生残ってしまう場合があるから。怪我などをさせてしまったら、被害届を出されることだってある。実際迷惑系ユーチューバーで、私人逮捕の動画を撮っていた奴らが逮捕されたケースもあるんだ」

「それは法律を利用して金儲けしようとしとる、一部の奴らとちゃうんか。俺はそんな事、せえへん。純粋に未知留ちゃんのような女性や子供らを、犯罪から守ってやりたいって思うとるだけやないか。苛めもそうや。最近のは、かなり陰湿で悪質になっとるみたいやのう。それで自殺者が多く出とるらしいやないか。俺らの時代は、そこまで酷くなかったやろ」

「それはそうだけど、辰馬さんのように殴ったり蹴ったりして従わす方法は、明らかに傷害罪で脅迫、強要罪だよ。それは今も昔も、だけどね」

「由美、それは言いっこなしや。分かっとる。分かっとるよ。昔はそれで通用しとったもんでも、いや昔でもアカンけど、今はもっと厳しくなっとるのは理解しとるつもりや。そやから、俺は暴力で痴漢を捕まえたいのとちゃう」

 昔から、弱きを助け強きを挫くのが信条だった辰馬らしい考えだ。自分の為に発揮すれば暴力になるから、力は人の為に使うものだという、今も変わらないその性根は尊いと思う。それでも則夫は言った。

「そうは言ってもね。話を戻すけど、心配だからってずっと一緒にはいられない。自分の身は自分で守るしかないんだよ。痴漢だけでなく、ストーカー行為にまで発展したら、それは僕だって許さないと思う。父親として娘を守るために、出来る限りのことはするけどね」

「則夫に何とかしてくれと言うとんのとちゃう。俺がしたいんや。三十年近く寝とっただけで、ここにおる皆や多くの人らに支えられて命を貰ったんやからな。しかも目覚めた日に起きた震災で、一万人以上が亡くなっとる。俺の命はそういう人らの分も受け継いどるんや。本当はもっと早くしたかったけど、リハビリやら勉強やら、まずはこの社会で一人前に生きられる土台作りが先やと、自分のことを優先してきた。けどこれからはちゃう」

「辰馬さんがそう思うのは理解できるし、ずっと言っていたよね。だけどその第一歩が、未知留ちゃん達が困っている痴漢をなんとかするってことなの? 世の中には、他にも色々と困っている人がいるよ。老老介護や、独居老人に対する詐欺だってあるじゃない」

 首を傾げた由美の問いかけに、彼は頷いた。

「せや。さっき栄太が言うたように、今この瞬間、どこかで犯罪が起こっとるやろ。他にも色んな社会的な問題はある。今日は来てへんけど、誠みたいな障害を負った奴らへの偏見や差別もそうや。LGBTやったか。そういうマイノリティに対する、SNSなんかの誹謗中傷なんかもな。それら全部を解決しようと思うても、それはさすがに出来へん。羽立におった時もそうや。自分に出来たのは、俺の目が届く距離で弱い者苛めをする奴らをぶっ飛ばすことぐらいやった」

「それだけでも凄いことだけどね。だからこそ、タッチャンの新しい門出を祝う為に、これだけの人が集まったんだから。僕を含めて助けられたと思っている人は沢山いる」

 則夫がそう言うと、周囲で話を聞いていた多くが深く頷き、何人かが声を上げた。「そうや。俺らがどれだけ助けてもろうたか。タッチャンがおらんかったら今の自分はない」

 「そうや、そうや」と同意する周囲の言葉に、辰馬は頭を下げながら話を続けた。「有難うな。そう言うて貰うたら、ただの乱暴者やった俺もそれなりに役立ったんやと思える。せやけど同じやり方やとこの時代では通用せん。せやから俺は悩んどった。何をしたら折角皆に助けられたこの命で、お前ら全員を含めた多くの人や社会に、どう恩返しができるかってな。そこでまずは、今ここにおる誰かの役に立とうと考えたんや」

 しかしそこで陽菜乃と未知留が口を挟んだ。

「そんな大げさな話じゃないですよ。それなら私達なんかより、他の人に何かして下さい」

「そうそう。お姉ちゃんの言う通り。それに私達はタッチャンに何もしていませんから」

 だが彼は首を大きく振った。

「いや、そんなことはあらへん。俺みたいなアホの為に、則夫がどんだけ寄付してくれたと思うとる。それだけの金があったら、二人はもっと贅沢な暮らしができたやろ。ホンマに申し訳ない。こんなこと言うたら偉そうかもしれんが、ここにおる奴らには、昔の俺が何らかの形で手助けしてきた。でも二人はちゃう。何もしてへんのに、俺のせいで被害を受けとる」

 これにはさすがに、則夫は強く否定した。

「それは全く違う。何度も言っているけど、機械オタクだった僕が会社を立ち上げて成功できているのは、学生時代にタッチャンが苛めから助けてくれ評価してくれたおかげだから」

「そうですよ。それは私達も小さい頃から言われてきたし、大きくなって色んな人から話を聞いて、本当にそうだったと今でも心から思っています。未知留もそう思うよね」

「うん。お姉ちゃんも私も、お金には全く困っていないよ。基金に寄付せず生活費に回してって話、お母さんからも聞いたことない。友達と比べたって、十分恵まれているほうだから」

 周囲から「おおっ!」という感心した声があがる。

「偉い子や」

「よう教育されとる」

との誉め言葉も聞こえた。則夫は照れくさくなり、思わず悶えながら頭を掻いた。

 それでも辰馬は納得しなかった。

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