第9話
「ああ、そうですね。すみません。少しぼうっとしていました」
「お疲れでしょう。もう耳タコでしょうけど、根を詰め過ぎてはいけませんよ」
このベッドの脇で、彼の口から何百回と発せられたセリフだ。この病院を退職されてから耳にする機会は少なくなったが、それでも会う度にそう言われてきた。
「有難うございます」と軽く言って頭を下げ、本の続きを読もうとしたところでまたドアがノックされ、新たな人が入って来た。
「ああ、晋先生こんにちは。当麻さんも居たんだ」
「こんにちは。今日はお子さんと一緒かね」
「こんにちは。ええっと、
晋先生の後に続き由美がそう言うと、則夫は頷き、彼女の手を軽く引いて言った。「そうなんですよ。ほら、未知留。挨拶しなさい」
余り人見知りしないらしい彼女は、「こんにちは!」と元気良く挨拶した。
由美も、はい、こんにちはと返事を返す。則夫は感心したように言った。
「しかしよく覚えていたね。子供達と当麻さんが会ったのは、もうずっと前だろう」「そうだけど、以前は良く会っていたからね。さすがに覚えるわよ。今日、上の子は?」
「陽菜乃は小学一年生だから、学校へ行っているよ。この子はまだ幼稚園に行っていないから、連れてきちゃった。たまには母親を育児から解放してあげないといけないからね」
「あら、言い心掛けね。じゃあ未知留ちゃんは、何歳になったの」
ぎこちない手つきで、「さんさい!」と彼女は指を三本突き出した。薬指が真っすぐ伸びていなかったのはご愛敬だ。
「だったら幼稚園は、来月からか。そうしたら奥様も少しは助かるわね。理解しているでしょうけど、専業主婦は大変なのよ。沢山稼ぐからって、全部任せっきりは駄目だからね」
「分かっているさ。それにみんなが思うほど稼いでなんかないよ」
則夫はそう
設立当初は創設した北目黒家だったが、大学卒業後は大手メーカーのシステム開発部に所属し、その後独立し会社を立ち上げた彼の貢献が今ではかなり上回っている。アプリなどを開発するIT企業で、ここ最近数々のヒットを生み出し、着実に業績を伸ばし続けているという。
由美には余り関係の無いものが多くて良く知らないけれど、独居老人や徘徊癖の老人の身内と介護する側、逃走した犬猫を探すまたは犬猫を引き取って欲しい人と探せる人や引き取りたい人、シングルマザーやシングルファーザーの家事または子供達の育児を手伝い、面倒を看て欲しい人と見られる人などをマッチングするアプリなどが主だと聞いていた。
彼も由美や辰馬、準と同じ羽立高校を卒業した同級生だ。昔から今でいうオタク、特に機械関係に特化した、根暗で人付き合いの苦手な人だった。加えていわゆる天然と呼ばれる変わった言動をしていた為、幼い頃から苛めに遭っていたという。
由美達とは離れた隣町に住んでいた為によく知らなかったが、特に小学生時代の後半は酷くエスカレートし、一時不登校になった時期もあったらしい。
しかし中学で由美達と同じ学校へ通い始め生活が一変した。何故なら辰馬と一緒のクラスになったからである。
中学卒業後、機械科のある工業高校に入らなかったのも、彼と同じ学校にいたかったからだと聞く。由美と同じ理由だが、あの時代、そんな人は羽立地区だとそう珍しくない。今では想像できないほど、当時の学校は荒れていたからだ。
それだけに辰馬のいる学校では平和で苛めがないとの評判がすぐに広まり、子供を入学させたがる親や入りたかる生徒が沢山いたのである。
由美は小学校で彼に助けられた。幼い頃に父親を事故で亡くした影響からか、それ程裕福ではない母子家庭で育った。
そうした引け目もあり、本ばかり読む大人しい子供だったからだろう。一年生の算数の授業中に便意を催した際、手を上げてトイレに行きたいと言い出せず、漏らしたことがある。それを周囲が騒ぎ、
しかしそんな話を、隣のクラスにいた辰馬が聞きつけ激怒した。そして休み時間に廊下で由美を苛める男子達を見つけると、怒鳴りつけて喧嘩になり、辰馬一人で五人を倒したのだ。
その頃から喧嘩は強かったが当然問題となり、教師達に相当叱られたと聞く。さらに乱暴者のレッテルを貼られ、彼は同じ学年の主な男子に加え、女子達からも無視されたのだ。
それでも彼は挫けず信念を貫き、他の子に対する苛めも見つけては喧嘩を吹っかけ、やめさせた。
両親が彼の行為を責めず褒めたことも影響していたというが、やがて彼は力でねじ伏せた子達に加え、苛められた子達を従えての一大勢力を作り、上級生にすら一目置かれ始めたのだ。
よってその頃には苛めがほぼなくなり、大人達も口出しできない状況までにしたのである。これが小学校低学年の話なのだから、辰馬の凄さが尋常でないと分かるだろう。
そんな由美は則夫と中学で一緒になり、彼も同じく苛めから救われた。そんな似た境遇により意気投合し、ほんの短期間ではあったが一時期付き合ったこともある。
彼は由美ほど頻繁な見舞いはしなかったが、大学に入り社会人として生活する間もコツコツと基金に寄付し続けていた。そして設立した会社が成功し軌道に乗った今、大スポンサーにまでなったのだ。
ただ彼に言わせれば当然かもしれない。辰馬がいなければ今の自分はなかった、と言って
そして四十を過ぎようやく結婚した妻にはもちろん、その後生まれた娘達を時々病室に連れて来ては、この人はパパの恩人でとても大切な人なんだよ、と言い聞かせていた。
その後に続く内容は、晋先生や準が竜に伝えていたものとほとんど同じである。だから病室に通い続ける間、彼らと同様に子供達の成長も目にしてきた。子供のいない由美にとって、竜や未知留達はまるで甥っ子や姪っ子のように思っていた。
病室の隅に置かれた椅子を動かし、まだ立ちっぱなしだった二人に勧めながら言った。
「座ってゆっくりして。平日のこの時間に来たってことは、会社を休んできたんでしょ」
「そういう当麻さんも、でしょ。いつもは土日が多いのに。あっ、そうか。昨日、国公立の二次の合格発表だったよね。担任の生徒達を送り出して、少しホッとしている所かな」
「そう。まだ残っている子もいるけど、思っていた以上に今年はいい成果が出てね」
「それは良かった。ところで今日は何のテーマかな」
「パンダよ。未知留ちゃんはパンダ、好きかな」
「うん! リーリーとシンシン!」
「あら、良く覚えたね」
そんな雑談をしていると、またドアがノックされて人がぞろぞろと入って来た。
「今日は揃っていますね。ああ、晋先生。ご無沙汰しています」
先頭は車椅子に座った湯花誠で、それを押しながら入って来た湯花
彼は魔N侍の元特攻隊長だった誠の兄で、由美達より二つ年上で偏差値が高い隣町にあった高校の先輩だ。今では大手損害保険会社に勤めるエリート会社員である。彼も長年、決して少なくない額を基金に寄付し続けている一人だ。
というのも彼は高校時代、奪洲斗露異の隊員達にカツアゲされ、殴る蹴るの暴行を受けていたところを辰馬に助けられ、その後は誠と共に兄弟で崇拝している信者の一人だからだ。
「亨さん、今日はお休みですか」
「ああ。こいつの検査があってね」
そう言われた誠だが、黙ってじっと前だけを見ていた。
彼は二十九年前の抗争で、警察車両を食い止めようとバイクを走らせていた際、無茶な追走をするパトカーの一台に追突され転倒し、腕や足を骨折する大怪我を負った。それが後遺症となり、ずっと車椅子生活を送っている。そうした障害者としての生活が長く続く間、近年では精神を病むようになり、余り言葉を発しなくなっていた。
近年、そんな誠の面倒を看ているのが兄の亨だった。一流企業に勤め高収入を得て、経済的に余裕があったからだと聞いている。彼らの両親はまだ存命だが八十と高齢であり、自分達のことで精一杯の為に誠の介護までは手が回らないらしい。
また幸いと言っていいか分からないが、亨夫婦には子供がおらず、その上妻の両親の面倒は彼女の兄夫婦が看ていた為、誠と同居して面倒を見るゆとりがまだあったのだろう。
ちなみに亨達の両親は、彼らの妹夫婦が近くに住み面倒を看てくれているという。「有休を取られたんですか。でも年度末でお忙しいでしょ。今は部長になられたんですよね」
「ああ。忙しいのは確かだね。部長といっても、中間管理職なのは変わらないから」
「上には上がいますから、色々言われるんでしょうね。その上、部下も増えて大変でしょう」
「まあね。だけどその分、世間一般よりいい給与を貰っているから、しょうがないんだけど。ああ、でも須和社長殿には及ばないか」
「勘弁して下さいよ」
と則夫が頭を掻いた後、未知留が叫んだ。
「パパはお金ないよ。あったらすぐ使ってなくなるって、ママから良く叱られているから」
場にどっと笑いが起こる。
「それは辰馬のおじさんが、早く目を覚まして元気になるようにと頑張っているんだよ」
後ろからそうフォローをしたのは、担咲栄太だ。魔N侍の元親衛隊長だが、今は何と警視庁に勤務する所轄の刑事である。
辰馬が昏睡状態に陥った後にチームを脱退し、一念発起して勉強を始め、二浪して東京の大学に入った。それから警視庁の採用試験を受けて合格し、警察官になったのだ。
昔捕まる側、今は捕まえる側と仲間達から
そうはいっても当然辰馬の崇拝信者なのは変わらず、由美と同様に僅かではあるが基金に寄付をし続けていた。
進学先と就職先が東京だった為、辰馬が関西の病院にいた頃の見舞い頻度はせいぜい年に数回程度だったが、東京の病院に移ってからは月一回程度訪れていると聞く。「ちがうもん! それだったら、ママは何にも言わないから。ないしょでおもちゃみたいなのを買ってきて、夜中に部屋でこっそり何かやっているんだよ!」
「本当か。それは駄目だ。まさか、おかしなことをしてないだろうな。捕まえちまうぞ」
栄太が冗談めかして言うと、則夫が慌てて否定した。
「ち、違いますよ。研究ですって」
同級生だが、この年になってもかつて三軍神だった栄太にタメ口は使えない。由美も同様で、彼も辰馬に従い苛めは一切しないが、怖い存在だったのは変わらないからだ。
「社長になっても、機械いじりは続けているのか。相変わらずだね。しかしそれ程熱心だからこそ、立派な社長さんにまでなったんだ。しかも基金に多額の寄付をしてくれる大事な人だから、逮捕なんかしないでくれたまえよ、担咲君」
晋先生が間に入り、茶化した口調でそう言うと栄太は笑った。
「分かっていますって、先生。冗談ですよ。則夫にはこれからも良い商品やアプリを開発して、沢山稼ぎ続けて寄付して貰わないと。俺のような一般市民には無理だからな」
そう答えてから、ずっと後ろで黙って聞いていた二人に顔を向けて言った。
「ああ、ここにも多額の寄付を下さる方が。ありがたや、ありがたや」
拝むように手を合わせたからだろう。
「ふざけるのは止めてよ」
そう言ったのは、かつて一孔麗寧というレディースで親衛隊長だった咲季だ。旧姓の村田から、今は結婚し
彼女の横にいた夫の
「則夫には敵わないよ。それに私の場合は意味合いが違うから」
その言葉に、病室内の空気が
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