第8話

 当初はどんな効果が見込めるかなど、全く分かっていなかった。それでもある一定時間、言葉をかけ続ければ目を覚ますかもしれないと、由美はわらをもすがる思いで続けた。

 まずは自身が大学で学ぶ勉強の復習を兼ね、テキストの朗読などを行った。それが意外と自分の為にもなると分かりすぐにルーティン化し、やがて大学卒業を控え高校教師という進路が決まった頃には、教えることになる国語の教科書へとその内容が変わった。

 後に担当教科以外の社会や英語、数学など多岐に渡り始めたのは、眠りが余りに長くなったからである。

 このままでは例え目を覚ましても浦島太郎状態になると危惧し、聴覚を通じ脳に刺激を与えるだけでなく、少しでも知識を備えさせようと考えたのがきっかけだ。

 しかしそれが十年、二十年と続けば、さすがにネタも尽きてくる。そうしたこともあり、やがて日々起こる様々な時事問題にまで広げてきた。

 というのも、彼は紙幣から硬貨に変わった新五百円どころか、ファミコンも知らない。ディズニーランドが開園し、グリコ・森永事件が起きたのも眠っている間のことだ。

 週刊漫画誌にドラゴンボールが連載され、御巣鷹山おすたかやまで日本航空機が墜落して坂本さかもときゅうさんを始め、五百二十名が亡くなった大事故も当然知らない。

 阪神が西武を破り球団設立初の日本一になったことや、国鉄が民営化しJRと名を変えたのもそうだ。バブル経済で日本が湧き立ちそれが崩壊したことも、元号が昭和から平成と名を変えたのも把握していない。

尾崎おざきゆたかという若い歌手が、多くの若者の心を掴み成功しながらも二十六歳で亡くなり、阪神・淡路でこれまで経験したことのない大震災が起こり、その年に地下鉄サリン事件があった件もそうだ。

 長野オリンピックでの日本選手達の活躍や大阪にUSJが開園、数々の金融会社が合併を繰り返し名前が次々と変わったことや郵便局の民営化、自民党が大敗し民主党政権が誕生したことも辰馬は知らない。

 携帯電話やパソコンすら触ったことのないそんな彼が、もし目を覚まして生活しろと言われたらどうなるか。もし自分ならと考え恐ろしくなった。だからこそ、脳がまだ生きているなら少しでも理解するのではないかとの淡い期待を持ち、これまで続けて来たのである。

 他人から見れば異常と思うだろう行動だが、もちろん少しの後悔もない。彼には目覚めて貰って謝罪し、沢山の御礼を伝えなければならないからだ。そしてこんなことが出来るのは自分だけで、唯一の与えられた使命だと言い聞かせて今日まで来たのである。

 教師になったのも、学生時代に彼の枕元で教科書などを読んでいた際、これを仕事に出来ないかと考えたからだ。また彼のような絶対的で稀有けうな存在は、今後二度と現れないと思っていた。

 それなら彼の遺志を継いでこの世の苛めを少しでも無くし、自分のように救われた生徒を増やす為、大人の立場で力を発揮しようとしたからでもある。辰馬がいなければ、今の自分は存在しない。だからこそ一生を捧げる価値があるし、捧げなければいけないのだ。

「それでは失礼します。余りこんを詰めないで下さいね」

 看護師はそう言って逃げるように病室を出て行った。その後ろ姿を見ながら、まだ残っていた準に言った。

「何よ、あの子。他の看護師から、私の話が引き継がれていないみたいだけど」

「そんな必要はないと思ったんじゃないか」

と準が惚けた顔で答えたため、文句を言った。

「そりゃあ、看護師さん達は患者の容態を確認して世話をするのが仕事で、身内でもない単なる見舞客の対応までする必要はないからね。だけどこの病院では十二年よ。これだけ長く通い続けて、しかも枕元でいつもぶつぶつ言う中年女がどんな奴かくらい、皆知っているでしょ。私は隠すつもりもないし、聞かれたら正直に言ってきたじゃない」

「でもここに通い続けているのは、何も当麻さんだけじゃないだろ」

 そう言っていると病室のドアがノックされ開き、人が入って来た。

「ほら、噂をすれば、だ」

 振り向いた彼がそう口にしながら笑ったので、由美もつられて口角をあげて挨拶した。

「こんにちは、晋先生。お久しぶりです。あれ、今日はりょう君も一緒ですか」

「やあ、こんにちは、当麻さん。そうなんですよ。さっきそこでばったり会ったから」

 晋先生の横でぺこりと無言で頭を下げたのは、彼の孫であり準の息子だ。確か高三で、今年受験だったはずだったと思い出す。恐らく結果は出ているだろうが、こちらから尋ねるのはどうかと考え、続く言葉を抑えた。

 しかし準が先に説明してくれた。

「そうそう、昨日二次試験の結果が出ただろう。こいつも無事合格してね」

「そうですか! おめでとうございます! やっぱり将来は脳外科医になるつもりなのかな」

 最初は晋先生に、その後で竜にそう声をかけた。

「まあ、」

と竜は再び軽く頭を下げ呟くように答えたが、その表情は硬かった。

「あれ、私、何かおかしなことを言っちゃったかな。もしかして第一希望が落ちたとか?」

「いやいや、準と同じ東大理Ⅲに合格しましたよ。ただここがゴールじゃなく、あくまでこれからがスタートだと昨日私達が説教したから、不貞腐ふてくされているだけです」

 晋先生の言葉に、由美は苦笑し同情しながら言った。

「あら、それは大変ね。ようやく大変な受験が終わったというのに、大先生のお二人からそんなことを言われて、気が抜けなくなったんでしょ。確かにこれからがスタートで長い人生の中の一歩に過ぎないのは確かだけど、せめて入学するまでくらいはゆっくりしたいよね」

「燃え尽き症候群にならないようにと、少しばかり脅しをかけ過ぎたかもしれない。悪かったな、竜。当麻さんの言う通りだ。肩の力を抜いて休むのも、時には必要だぞ」

「何を言っている、準。医学の進歩はすさまじい速さで進んでいるし、学ぶことは多い。お前だって海外に飛んで勉強してきたんだ。それくらいは分かるだろう」

「もちろん分かっているって。だけど親父、竜はまだ受験を終えたばかりの高校生だ。それこそタッチャンが倒れた時と同じ歳で、その頃の俺は夜中に部屋をこっそり抜け出していたんだからさ。そうだ。当麻さんもあの時いたよね」

 ドキリとしたが、黙って頷いた。

「ほら。それも受験前だよ。タッチャン達の喧嘩を見に行っていたんだから。それに比べれば、竜なんて真面目過ぎるくらいだ。少しは羽目を外したっていいんだぞ」「そうだ。卒業旅行は行くの? 私達の頃はなかったけど、今時は海外とかも行くんでしょ」

 二人でそう言ったからか、晋先生は否定できなくなり口を噤んだ。

「海外には行きませんけど国内にちょっと」

とはにかんだ竜の代わりに、準が答えた。

「沖縄だってさ。あっちはもう温かいから、観光には良いんじゃないかな。但し酒やタバコは駄目だぞ。羽目を外し過ぎて後悔するのは自分だからな」

「分かってるよ、煩いな」

 反抗した彼は顔を背け、そのまま病室を出て行った。その後ろ姿を見ながら由美は責めた。

「ちょっと。もう少し言い方に気を付けなさいよ。あの年頃の子は難しいし、やっと合格して重圧から解放されたのに、あんまりうるさく言ったら逆効果になるわよ」  

 準は首をすくめると、竜を追いかけるようにしてドアに向かった。

「ああ、悪かった。じゃあ、俺も行くわ。他の患者を見に行かないと。親父、後は宜しく」

 出て行く彼を見ず、晋先生は由美と反対側の椅子に座り、ああ、と気のない返事をした。彼の関心は既に眠り続ける辰馬の容態に移り、あちこちと体を触っている。  

 そんな様子を見て由美は溜息を吐いた。何故なら竜もある意味、二十九年余り前の事件に巻き込まれた関係者と言えるからだ。

 彼の場合、ただでさえ代々続く医者の家系を絶やさぬようにと、幼い頃から言い聞かされ勉学に励んできたに違いない。そんな環境に加え、昏睡状態が長く続く患者の容態を二代に渡り気にかけ、いずれは三代目としてバトンを受け取るよう言い含められてきたはずだ。

 ただ辰馬に直接救われ恩義を感じている由美や準、晋先生などとは全く違う。自らの意思で深く関わって来た者と、そうでない者の大きな差だった。

 家庭の事情などにより、将来の道を親達に決められ辛い思いをしている生徒は、これまでの二十五年に及ぶ教師生活において、由美は沢山目にしてきた。彼も間違いなくその一人だ。子供を産み育てた経験がなくとも、大変な苦悩を抱えているだろうと容易に想像できる。

 彼に始めて会ったのは、母親または祖父母に抱きかかえられた赤ん坊の頃だ。そんな言葉が分からない頃から、北目黒家にとって辰馬がどれだけ大事な人かを教え込まれていた。

 由美が病室に通い続けていた為、今日までの約十八年の間に少なくとも百回以上は顔を合わせ、言葉も何度か交わしている。それ故、純粋な気持ちで辰馬を恩人として見つめる眼差しがいつしか戸惑いに代わり、やがて嫌悪する目に変わっていく様子も間近で見てきた。

 常軌を逸する行動だと一部の人達に陰口を叩かれながらも、認識した上で自らの強い意思と信念を持ちこの病室に通い続ける由美達と彼とでは、全く立場が異なるのだ。

 また特に今年度は受験生を担当し送り出してきた身としては、父親と同じ東大理Ⅲという国内最難関の学部に入ろうと必死に努力を積み重ねてきた彼の苦労や、無事目標を達成し重圧から解放され、肩の荷を下ろしたばかりの心情も痛いほど分かる。

 しかし社会人になりこの年までなれば理解できるが、学びに終わりはなく、それなりに大きい影響を持つとはいえど、大学入学なんて、それこそ長い人生の中の一歩に過ぎないのも確かだ。

 大変で大切なのはむしろこれからで、特に五十年の長きに渡り脳外科の名医として歩んできた晋先生や、その背中に追いつき追い越そうと三十年近く必死に努力してきた準からすれば、竜などまだまだ青二才あおにさいにしか見えないのもやむを得ない。

 ただそんな環境に身を置く彼には、凡人に過ぎない由美としては同情を禁じえなかった。病室を出てそのまま帰ったのなら仕方ないが、もし待合室などまだ病院の中にいるのならあとで声をかけて慰め、素直に合格を祝福してあげたい。そう思っていた。

「当麻さん。いつも通り、私に構わず続けて下さいよ」

 考え事をしていた為に、本を閉じたまま黙っていたからだろう。晋先生に声をかけられハッと我に返った。

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