第10話

 現場を目撃していた準の証言により彼は警察に逮捕され、殺人未遂で少年刑務所に入った。ただ当時まだ誕生日を迎える前の十七歳だったこともあってか、少年法により八年の実刑判決で済んだ。そして六年で仮釈放されたのである。

 そこから辛うじて高卒の資格を持っていた彼は更生し、勉強して二十五歳で大学に入り就職をした。当時まだバブル経済の好景気だったからか、前科のある彼でも就職には困らなかったことが幸いしたらしい。そして真面目に働き資産形成をし、後に社長として起業した会社が成果を上げ、今は則夫ほどではないものの、基金に多額の寄付をし続けている。

 出所当初の彼が病室に訪れた二十年余り前は、こうして同じ場に立ち話をする雰囲気では当然なかった。

 気弱な則夫や由美ならともかく、準や晋先生ですら今にも殴り掛からんばかりの勢いだったし、ましてや栄太がいたなら間違いなく乱闘騒ぎになっていただろう。

 しかし長い時を経て、月に一度はお見舞いに訪れ頭を下げ、そして基金に寄付し続けながら真面目に働く彼の姿を、皆がずっと見てきたからだろう。少しずつ緊張関係は薄れていった。

 それでも時折、思い出したようにこうした緊迫する空気が流れてしまうことがある。

「何を言うんです。白海さんの会社も好調ですよね。うちも同業者として負けないよう必死です。そうだ。最近出されたゲームアプリ、面白いです。うちの陽菜乃も気に入ってますよ」

 未知留も知っているだろう、とスマホを出して見せられた彼女は元気な声で、

「うん! これ、好き!」と答えていた。

「有難う、お嬢ちゃん。この人の会社で作ったのよ」

と咲季が屈みこんで幼い彼女と視線を合わせ笑い、病室内が再び和み始める。

 場を読むことが苦手で天然な則夫がいて助かった。話題が変わり子供が絡んだため、大人達の表情が緩む。

 一緒に話を弾ませる咲季や、それを黙って穏やかな表情で見つめる健吾の横顔には、皆を怖がらせていた昔の面影はもうない。特に彼女には高校時代、とても良くして貰った。あの抗争の日も由美は彼女と一緒だったのだ。

 けれど苦い過去が久しぶりに頭をよぎったからか、少し気分が悪くなる。その為、由美は黙って席を立ち、病室の外へと出た。少し離れた休憩スペースに行き、一休みしようと思ったからだ。

 それに則夫達が来る前に出て行った竜のことも気になってはいた。しかしそこに彼は居なかった。もう家に帰ってしまったのだろうか、と溜息を付く。

 自販機でホットコーヒーを購入し、数人いた患者さんやその見舞客らが談笑する輪から遠ざかった場所に腰を下ろす。そして再びかつての古傷に思いを馳せた。

 咲季はレディースの幹部で、いつも周りに男女問わず多くの人がいた。そんな社交的な彼女が何を思ったのか高校一年のある日、教室の隅で静かに本を読んでいた由美に声をかけてくれた。それから仲良くなり、付き合いが続いている。

 あの抗争の時も、見に行きたいという由美の我儘を聞いてくれ、バイクの後ろに乗せてくれた。周囲のメンバー達は怖かったけれど、咲季の背中にしがみついている間だけは、とても安心できたのを覚えている。

 そんな彼女が、後に辰馬をあんな目に遭わせた憎い男と結婚するとは思いもよらなかった。しかも健吾は辰馬の仇だけではない。あの抗争自体、彼の起こした事件が発端だった。女性に暴行し、親の権力と財力を使い黙らせた張本人だったからだ。

 しかも被害女性の一人が由美の従妹いとこだった為、裏の背景はそれなりに把握している。だからそんな男とよく一緒になったね、と由美は咲季に思い切って尋ねたことがあった。その際、彼女は色々説明してくれた。

「以前言ったと思うけど、私、健吾とは幼馴染おさななじみでしょ。親同士も昔からの長い付き合いでさ」

 市会議員だった咲季の父親が、県会議員だった彼の父親と懇意こんいにしていたらしい。その結びつきは、健吾が逮捕されて少年刑務所に入った後も続いていたというから、相当深い間柄だったのだろう。違反のもみ消しや裏での口利きなど、共に汚い手を使った悪党同士だったのではないか、と彼女は推測していた。

 そうした関係から、社会的には更生して親の支援などを受け会社を立ち上げた健吾と、彼女との見合い話が持ち上がったという。咲季自身、元レディースというすねに傷を持つ者だったこともあって断わらず、結婚を決めたのだと聞かされた。

「だけどね。あの人、すごくいい奴だったの。過去のこと、本当に反省しているの」  

 その頃、辰馬の事件から既に十八年が経過していた。逮捕された当初、彼の父親は辰馬の親達に土下座して謝罪し、賠償金はいくらでも払うと約束したそうだ。晋先生達が基金を立ち上げたのも、その言葉が嘘ではないと証明させる為の手段の一つだったらしい。

 しかし最初の十年余りは県会議員を辞めずに続けられた父親が払っていたものの、その後働いていた健吾自身が給与から支払うようになり、今では相当な額を寄付し続けている。

 その態度などから、それなりに更生し反省していることは由美にも伝わっていた。 それでも目を覚まさない辰馬の姿を見る度、彼への恨みはいまだ完全に消しきれないでいる。恐らく晋先生や準、栄太などは、似た感情を抱いているはずだ。

 ただ咲季もまた親友の一人であり、加害者ではなくある意味被害者と言って良い。そんな彼女の前で、健吾を責めるような目では見られなかった。

 憎しみからは何も生まれないし、彼をののしれば辰馬が目を覚ます訳でもない。そう分かっているから、皆は静観していられるのだろう。

 そんなことを考えている時間がどれくらいあっただろうか。かなり長くふけっていた時、突然足元から突き上げるような、激しい衝撃を感じた。そして大きく揺れ出したのである。

「じ、地震だ!」

と誰かがそう叫び、廊下からガチャガチャと何かが倒れる大きな音が聞こえた。

 休憩スペースにいた人達は皆、危ないと思ったのだろう。急いで机の下へと潜り込んでいた。由美も慌ててそれに習い、机の脚を強く掴む。そうしなければ、激しい揺れに耐えられなかったからだ。

 誰もいない机や放置された椅子は、生命が宿ったかのように飛び跳ねていた。その為、じっと揺れが収まるのを待つしかなかった。

 こんな経験は生まれて初めてである。十数年前に起きた阪神・淡路大震災の折はまだ関西にいたから、それなりに大きな揺れを経験してはいた。だが震源から離れていたので、これほど酷くはなかった。

 そう思っていると突き上げるような衝撃は治まったものの、まだ横に大きく揺れていた。そういえばここは八階建ての七階上層部だったと思い出す。

 ずるずると椅子や机が移動していく。その様子を見る内、二階辺りが押し潰され傾いたビルの映像が頭の中に浮かぶ。かつてテレビで観た神戸の映像だ。まさかここもそうなるのか、と恐怖心が湧いた。

 しかし幸いにも、長く続いた揺れは少しずつ弱まり、やがて収束した。そこで由美はようやく机の下から這い出た。周囲の人も立ち上がり、それぞれが安堵の表情を浮かべていた。

 先程までと違ったざわめきの中、ゆっくり廊下に出て目を見張る。そこには倒れた患者に駆け寄ったり、病室へ駈け込んだり出たりと忙しく走り回る看護師達の姿があったからだ。

 地震発生時に聞こえた大きな音は、点滴スタンドなどが倒れた時のものだったと理解する。それを引きながら廊下を歩いていた患者が、揺れに耐えきれずに倒れたようだ。

 そこでハッとする。辰馬は無事か。

 ベッド周りには様々な器具があり、彼はそれらと繋がっている。地震で倒れ故障してないか。自発呼吸ができているとはいえ、動けない身なのだ。

 そこで慌てて彼がいる病室へと目を向けた時、誰かが急ぎ出て行く姿が見えた。 距離があり、また廊下を行き来する他の人達が邪魔で良く分からなかったが、白衣は着ていなかったと思う。だから医者や看護師ではない。

 もしかすると辰馬の容態が急変し、誰かが人を呼びに行ったのかもしれない。そう思うと居てもたってもいられず、急いで向かった。

 病室に駆け込むと、ベッド脇には晋先生と白衣を着た準の姿があった。一旦出て行った彼だが、由美と同じく容態が気になり駆け付けたと思われる。他には誰もいなかった。

「一七草君は無事なの!」

 由美が声をかけると、晋先生だけがゆっくり振り向き頷いた。

「ああ。問題は無さそうだ」

 その言葉に胸を撫で下ろし、傍にあった椅子を移動させ座ると今度は準が言った。「俺も心配になって来たが、恐らく大丈夫だろう。地震の影響で一瞬停電になったが、病院の自家発電は作動していたからね。器具の不具合はない」

 そう口にする表情は何故か曇っていたが、担当医師が診ているのだから信じるしかない。

「良かった。ものすごく大きかったからね」

「そうだね。どうやら震源は東北沖のようだな」

 病室に置かれたテレビが点けられ、地震情報が流れていた。それを見聞きしながら晋先生が呟くように言った。しかも津波が発生したと騒がれ、しばらくその映像に釘付けとなった。

「大変なことになったな。俺はちょっと他の患者の様子も見て来る」

 少し経って準がそう言い、出て行く後ろ姿を見送った時に由美はようやく思い出した。

「そう言えば、ここに来ていた、他のみんなはどこに行ったんですか?」

「地震が起こる少し前に帰ったよ。私も一緒に病室を出たが、途中トイレへ寄ったんだ。用を済ませて出ようとした時に揺れ、これはまずいと辰馬君が心配でここに駆けつけたんだ」

 さすがは二十七年も担当医としてだけでなく公私共に見守り、その後息子に引き継いでからも見舞いを続けて来た人だ。まず頭に浮かんだのは彼のことだったのだろう。

 しかしそこで疑問が浮かぶ。では由美が目にした、病室を出た人物は誰なのだろうか。

「誰も病室には残っていなかったのですか」

との由美の問いに、彼は首を傾げた。

「どういう意味だね。湯花兄弟と須和親子、担咲君や白海夫婦と一緒に私も病室を出たが」

「あ、そうですか。いえ、何でもありません」

 病室を見間違えたのだろうと思い直した由美は、すぐにその後忘れてしまった。というのもテレビから流れた映像とその情報が、余りにもすさまじかったからだ。

 波に押し流される車や家屋、取り残された人々の姿など、今まさにこの日本で起こっているものとは思えない衝撃映像だった。時々起こる余震の恐怖などすっかり忘れる程、次々と映し出される内容は悪夢としかいいようがなかった。

 異変に気付いたのは、そうして呆気に取られ過ぎて気疲れを感じ始めていた時だ。余りに辛すぎる現実を映す画面からベッドで横たわる彼に視線を移した際、違和感を覚え、あれっ、と声を出した。

「どうかしたのかな?」

「今ってマッサージの器具は装着していませんよね?」

 晋先生の問いかけに、質問で返したのは訳がある。辰馬の意識を戻そうと、彼ら医師達はこれまで様々な方法を試みていた。

 有効と思われるありとあらゆる薬を投与したり、脳に電気を通して刺激したりするのもそうだ。また昏睡状態が長引くにつれ、彼の肉体に対するケアも行っていた。眠ったまま動かないでいれば、床ずれなどを起こすからだ。

 骨が出っ張っている部分の血流が悪くなることで皮膚が変化し、肌に赤みを帯びて酷くなれば内出血や炎症を起こし、重症化すれば壊死してしまうこともある。

 さらに当然ながら筋力は衰えてしまうし、血栓が生じる恐れさえあった。心肺機能が低下すれば、自発呼吸も出来なくなる。そうなると、酸素吸入器など生命維持装置が必要となってしまうのだ。

 そうした問題を解決する為に行われていた一つに、体に装着した器具に電気を通し、それを振動させて筋肉などに直截刺激を与える方法があった。

 健康な人でも使っている、装着するだけで鍛えたい個所の筋力が鍛えられるという、EMSといった機器を想像すれば理解できるだろう。そうした医療用の機器の総称を、由美達はまとめてマッサージと呼んでいた。

「ああ。つけていないが、どうしてそんなことを聞くのかな」

「今、ちょっと動いた気がして」

「ん? 気のせいじゃないか」

 東北地方における地震の被害状況が気になっていたのか、そう口にした先生だったが、すぐ我に返ったらしい。テレビを見ていた体の向きを変え、辰馬の体を触りだした。

 当たり前だ。多くの人達がさじを投げだすであろう辰馬を決して見捨てず、必ず目を覚まさせると諦めずにこれまで最も近くで見続けてきたのは、誰でもない彼や準なのだから。

 もし少しでも意識が戻る兆候ちょうこうが見られれば、何を置いても駆けつけ対処するのが彼らであり、この二十九年間余りずっとそうなることを追い求めてきたのだ。

「地震による刺激が、もしかすると脳に何らかの影響を与えたかもしれないな」

 晋先生がそう呟き擦った体から手を放し、閉じた辰馬のまぶたを開けようとした。その時だ。僅かにピクリと動いたのである。

 その瞬間を目にした由美と先生の視線がぶつかり合った。

「見たか?」

「見ました!」

「動いたよな?」

「動きました!」

「間違いないな!」

「間違いありません!」

 言葉をかけ合い、重ねる度に互いの声が大きくなり、体が震え興奮した。

「辰馬君!」

「一七草君!」

と二人が同時に叫ぶようにして声を出すと、また微かに瞼が動いた。

「聞こえているのかもしれない!」

 晋先生がナースコールを押しながら、怒鳴るように騒ぐ。由美も悲鳴のような声を上げた。

「一七草君! 聞こえている? 起きて! 目を覚まして! お願い!」

 涙が溢れ止まらない。横で晋先生は器具に何度も目をやりつつ、ひたすら体を擦っていた。

 そうしていると病室のドアが突然勢いよく開き、準が飛び込んで来た。その後ろに女性の看護師も一人ついてきた。

「どうした、父さん! 何があった!」

 彼の問いには、由美が答えた。

「動いたの! 瞼が動いたの! しかも二回、続けて!」

「本当か! 見間違いじゃないのか!」

「いや、本当だ。しかも少しだが、心拍の数値にも変化がある」

 晋先生がそう告げると、彼は目を大きく開いた。

「分かった。ちょっと席を変わってください」

 準と入れ替わり立ちあがった晋先生は、付き添っていた看護師に向かって言った。

「脳波計を持ってきたほうがいいかもしれない」

 その指示が正しいかを、彼女は準に目で問いかける。この病院の元担当医とはいえ、今は退職している晋先生に従う訳にはいかなかったからだろう。

 しかし準は頷いた。

「そうだな。すまないが持ってきてくれ」

「はい!」と返事をして看護師が部屋を出る姿を見送ってから、由美は再度叫んだ。

「一七草君! 聞こえている? 起きて! 目を覚まして!」

 何が起こったのか判らず当惑しつつも懸命に手を動かし、素人には良く分からない処置をしていた準も、大声で彼の名を呼んでいた。

 そうした願いが天にも届いたのだろう。なんと彼はその後奇跡的に目を開け、意識を取りもどした。二十九年三カ月余りの長い眠りから覚めたのである。

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