第2話 【初戦】狼の咆哮と、光へ手を伸ばす男
頬を撫でる風が、やけに柔らかかった。
――ああ、ずいぶん気持ちのいい風だな。
そんな場違いな感想が、ぼんやりと浮かぶ。
ゆっくりと瞼を開けると、視界いっぱいに、濃い緑が広がっていた。
風に揺れる草原。
俺は、腰までありそうな草の上に仰向けに倒れていた。
「……ここは……?」
上体を起こすと、空が目に飛び込んでくる。
雲ひとつない青空。けれど、それは“見慣れた空”とはどこか違っていた。
高い高い天の真ん中に、白い円がふたつ、並んでいる。
太陽はひとつなのに、月のような光の輪が二つ、淡く輝いていた。
二つの月――。
胸の奥がぞわり、と粟立つ。
風に乗って、知らない草の匂いが鼻をくすぐる。
湿り気を含んだ土の匂いも、どこか現実感が薄い。
「夢……って感じでも、ねぇよな」
思わず独り言が漏れた。
そっと胸に手を当てる。
あのとき、鉄骨が突き刺さった場所。
致命傷を負ったはずの場所。
痛みはなかった。
服の上から押しても、穴があいた感触はない。
けれど。
「……血の跡は、残ってるか」
作業服の胸元は大きく裂け、そこには黒ずんだ、乾いた血がこびりついていた。
真っ赤だったはずのそれは、風にさらされて黒く変色し、べたつく感触だけが指先に残る。
――あれは、やっぱり現実だったんだ。
玄関。地震。天井の崩落。
まひるの泣き声。
くーちゃんの鳴き声。
胸を貫く鉄骨の、冷たく重い感触。
喉の奥がきゅっと締めつけられる。
「……まひる」
思わず名前が零れた。
返事はない。
当たり前だ。ここには、俺しかいない。
くーちゃんの、小さな体温も、足元にはない。
「……くそ」
ぎゅっと拳を握りしめる。
あのあと、どうなった? まひるは、くーちゃんは無事なのか?
俺は、死んだのか、それとも――。
脳裏に、あの光景がよみがえった。
まひるの涙が、床に転がったお芋ボーロに落ちる。
くーちゃんが白く輝き、それに呼応するように、ボーロが金色に光って宙に浮かんだ。
星屑のような光。
俺の体を縫うように走った、ぬくもり。
あれは、幻なんかじゃなかった。
まひるの祈りと涙。
くーちゃんの光。
あの奇跡によって、まだ俺は生きている。
胸の奥がじん、と熱くなった。
「――って、感傷に浸ってる場合じゃねぇか」
立ち上がろうとしたそのときだった。
草をかき分けるような、微かな音がした。
ざ……ざざ……。
風とは逆方向から、草が揺れている。
何かが、近づいてくる。
――風が、一瞬だけ止まった。
直後。
低いうなり声が、喉を震わせるように響いた。
「グルルルル……」
背筋に冷たいものが走る。
草を押しのけて姿を現したのは――
灰色の毛並みをした、狼のような獣だった。
いや、違う。
俺は、この姿を知っている。
(ブラッドウルフ……)
ゲーム《アーク・オブ・ライフ》の序盤に出てきた魔物。
何度も倒した雑魚敵のはずが、現実に目の前にいる。
牙。
よく鍛えられた脚。
黄色く濁った目が、俺を獲物として見据えている。
「……ゲームに出てくる魔物……ゲーム世界に入り込んじまったってことか……」
驚きの声が、思わず漏れた。
だが、今の俺には武器なんてない。
ステータス画面も見えない。
ただの中年の整備士で、ポケットに入っているのは、そこまで頑丈でもないスパナ一本だけだ。
ブラッドウルフは、ためらいなく飛びかかってきた。
「――っ!」
身を捻ってかわそうとした、その一瞬。
鋭い爪が、腹をななめに薙いだ。
「ぐっ……!」
焼けた鉄で裂かれたみたいな熱が走る。
視界が一瞬、白く弾けた。
作業着の布が破れ、腹にべったりと生温かいものが広がっていく。
手を当てると、ぬるりとした感触。指の隙間から、赤黒い血が溢れた。
(……やべぇな、これ)
一発でもまともに食らえば終わり――そう思っていた。
実際、その一発で、すでに終わりに片足を突っ込んでいる。
ブラッドウルフが、地面を蹴って再び距離を詰めてくる。
低く唸り、今度こそ喉笛を噛みちぎる気だ。
(……まだ死ねるかよ)
腹の傷が、呼吸のたびにズキンと深くえぐれた。
熱い痛みが脇腹から背骨へと突き抜け、膝が落ちそうになる。
(まひるが……ひとりになる)
(くーちゃんを置いて……死ねるわけ、ねぇだろが)
痛みで意識がぶれる。
視界の端が黒く染まり始めても、不思議と“帰らなきゃ”という思いだけは鮮明だった。
(帰るんだ……どんな形でも。あの家に戻る……)
その瞬間、胸の奥に灯るような小さな熱だけが、俺をぎりぎり繋ぎ止めた。
「っ……来るな!」
反射的に、作業着のポケットに手を入れた。
指先が触れたのは、いつも使い慣れているスパナ。
狼の牙が迫る。
灼けたような腹の痛みが、全身を引き裂く。
それでも――
「どけぇっ!」
全身の力を込め、横薙ぎにスパナを振り抜いた。
金属が骨に当たる、鈍い衝撃が腕に走る。
ガンッ。
ブラッドウルフの頭部が揺れ、動きが止まった。
獣は短くうめき声をあげ、地面を蹴って後退する。
(……効いた……! 今のうちに……!)
息を吸う余裕もない。
ひるんだほんの一、二秒――その隙を逃したら終わる。
腹を押さえ、俺は体を前に投げ出すように走り出した。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
痛みで足がもつれ、視界が揺れた。
背後で、ブラッドウルフが土を蹴る重い音が追ってくる。
「まだ追ってくるのかよ……!」
叫びながら、必死に前へ前へ。
視界の端で緑が揺れ、森の入口が近づいてくる。
木々の間へ飛び込んだ瞬間、空気がひやりと変わった。
草原の世界が背後で音もなく途切れ、湿った土と木漏れ日だけが支配する静寂が広がる。
(なんとか……振り切れたか……!?)
腹の傷が、一歩踏み込むたびにズキンと開き、
肉が擦れる鈍痛が波のように押し寄せる。
「はぁ……はぁ……っ……!」
息が吸えない。
肺の奥で空気が跳ね返されているみたいだ。
その瞬間、膝ががくりと折れた。
「……っ、くそ……!」
幹に手をつき、そのままずるずると座り込む。
腹から手を離すと、掌が温かい液体で一瞬にして満たされた。
裂けた皮膚の隙間からは、赤黒い肉が覗き、
圧迫をやめた途端、命が指の隙間から滴り落ちていくようだった。
(……まひる……くーちゃん。
俺は……家に帰らねえといけねえんだ……)
額から汗がつっと落ち、背中を冷えがはい上がる。
全身から力が抜け、手のひらが土をかくように震える。
「ま……まひる……くーちゃん……すまねえ……」
声かどうかもわからないかすれた息が漏れ、
体はそのまま、前へ――倒れた。
頬が土に触れた瞬間、
世界の色が一段暗く沈んだ。
(……すまねえ、由佳。
俺は……約束を守れそうにない。
……だが、もう少しでお前のところにいけるよ……)
脳裏に映る由佳は、悲しそうに微笑んでいた。
まるで、俺の、不甲斐なくも精一杯取り組む姿を見守るように。
いつもそうだった。あの笑顔が俺は好きだったっけ。
これまでか、とおもったその時――
胸ポケットから、ぽろりと転がり落ちたのは、金色のボーロ。
まひるの涙と、くーちゃんの光が生んだ、奇跡の粒だった。
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