第9話 深層の呼び声

白い。


最初に認識したのは、それだけだった。


視界も感覚も境界を失い、

上下さえ分からない“空白の世界”。


けれど……そこには確かに“線”があった。


細い、揺れる、黒い線。


まるで空白を縫っている縫合跡のように、

世界の隙間からじわりと滲み出してくる。


(これ……森にいた“核影”と同じ……いや、それより深い)


線はただの影じゃない。

感情の残骸でもない。


もっと“根源”に近い。


俺の意識は勝手にそれを読み取ろうとした。

構造視が、強制的に開かれていく。


「シン!」


誰かの声が弾けた。

ルフェリア──なのに、遠い。


音が波紋みたいに広がり、

そのたびに白い世界がひび割れていく。


割れ目の奥から、黒い“目”が覗いた。


見覚えのある、あの“空白の目”。


(……あいつだ)


森で俺を見た“影の核”。


ただの怪物じゃない。

俺の意識の層に入り込もうとしている。


「返──」


声がかけられた。


いや、違う。

俺の名前を呼ばれた。


(まただ……!)


胸が強く掴まれる。

音も色も消える。


次の瞬間、世界が“裏返った”。


白が剥がれ、黒い粒子が一斉に舞い上がる。

粒子が絡まり、線になり、形を作る。


それは“人の影”だった。


輪郭が曖昧な黒い人影が、

俺と同じ身長で、同じ姿勢で、

ただ一点だけ──顔の部分に“穴”が開いていた。


空っぽの穴。

そこから、直接意識に触れてくる。


「……やっと、見えたね」


声は、俺の声だった。


俺の声の“別の層”の響き。


(これ……俺……?)


影が一歩こちらに踏み出す。

破片のような音を立てながら。


「来い。“戻る”場所は、ひとつしかないだろ?」


思考が引きずられる。


(戻る……?どこに?)


影の胸の穴が“深層”へと繋がっている。

吸い込まれるような感覚。

身体の境界が生ぬるく溶けていく。


触れれば終わる。


そんな確信があった。


そのとき──


「シン!!」


ルフェリアの叫びが、俺を現実へ強く引き戻した。


白の世界に亀裂が走り、

黒い影がちぎれ飛ぶ。

視界が大きく揺れた。


そして──落ちた。


重力が突然戻り、息が詰まる。


気づけば俺は、森の地面に片膝をついていた。

頭が割れそうに痛い。


ルフェリアが肩を掴む。


「シン……! 深層まで引きずり込まれるところだったのよ!」


「……今の……俺……?」


「違う。

 “あなたの形を借りた何か”。

 本来の影じゃない……もっと深い存在。」


ルフェリアは震える声で続ける。


「核影(コア・シャウル)じゃ説明できない。

 あれは……“原層(オリジン)”に近い……」


(原層……?)


俺が問い返す前に、森が揺れた。


黒い核影がまだ生きている気配。

深層で見た“影の俺”が、

こちら側ににじみ出ようとしている気配。


ルフェリアが剣を抜く。


「時間がない。

 シン、あなた──もう“境界の外側”を視てる。」


その言葉に、胸の奥が疼いた。


“戻ってこい。”


あの声が、再び微かに響いた。

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