第二話 ワタシをツキにツれてって

 気がつくと、呼吸がまともに出来るようになっていた。全身が、風船を膨らませた時のようにふんわりととした感覚と共に元通りになった。肺に空気が満ちていく。助かった?

「しまった。今ここで殺さないと」

 女は咄嗟に俺にかけた能力を解除したらしい。重力を操る力。間違いない。それが彼女の能力。

「い、でで」

 様々な攻撃を受けてボロボロになった今の体で、この場から逃げられるかは分からない。でも、もう逃げたいとも思わなかった。だって、だって――。

 彼女はすぅ、と息を吸った後、一人弱音を呟くように、静まり返った教室で、一言だけ吐いた。その唇が、軽蔑を形作るように歪んだ。

「マジで、きっしょい」

 これか。

 可愛い女の子にドン引きされる快感とやらは――。

 こんなに可愛い女の子が、勇気を振り絞って周囲に広がる世界を観測しようと瞼を開けた俺ただ一人を、まるで米粒が引っ付いたタワシ、あるいは脚がもげたコオロギを発見したかのような視線を浴びる悦びとやらは――。

 まさに今日が、俺の人生最低で、最高の日だ。

「お望みなら、踏んであげようか?」

 女の口から次に出たのは、そんな意外な言葉だった。その声音は不思議と落ち着いていて、冷たく澄んでいた。俺はふと、思ってしまった。確かに過ったその思考は、俺の脳みそと股間を瞬く間に支配した。つくづく馬鹿だと思う。

 俺はこの場で、この女に踏まれて殺されたい。思考はたったこれだけ。単純明快、シンプルイズベスト。俺の最後の望みだ。

「お願いしますっ、踏んでくださいっ、そのまま殺してくださいっ」

 涼しい風が心地よい、昼下がりの教室。カーテンが微かに揺れている。俺は必死に懇願した。化け物の死体の上にうつ伏せで寝っ転がって、ただでさえ意味不明な状況下で、あろうことかSMプレイを要求するなんて、もっと意味が分からないって、俺も思っている。だけど欲求は、劣情は止められなかった。極限状態に置かれた人間は、醜い欲望を抑える余裕を失うのだ。

「う、わっあぁ……」

 軽蔑、心からの軽蔑を痛いほど向けられている。女の瞳が、見下ろす視線が、俺を虫けら以下の何かとして捉えている。

 あぁ、クソっ! 胸がゾクゾクする。高鳴って高鳴ってしょうがない。こんな感覚は初めてだ。一刻も早くあの子にめちゃくちゃに踏みつけられて、さっさとこんな世界とオサラバしたい! 俺はこの世界が大嫌いだ。不可抗力でこの世界に生まれ、そのくせ生きる意味は後から自分で見つけなければならない投げやりなこの世界が。ただ、最後の最後で、いい夢を見させてくれたのもこの世界なのだと思うと、少し憎めないような気もする。

「あーもう死ね、死ね死ね死ね」

 とつ、とつ。ローファーの音がはっきりと聞こえて、女は俺に近づいてくる。一歩、また一歩と手前に進むたび視界に広がる彼女の姿は、逆光に縁取られて、煌びやかな神や仏の類にも似て、俺が辿ってきたしょうもない時間と空間の全てを優しく肯定してくれるような力強く温かな救いがあった。

「うわ、あ」

 情けない声を漏らしてしまった。無理もない。俺の生涯はたった今、この女の小さく可愛らしい足に蹂躙され、すぐ下で眠る化け物と、凄まじい重力によってプレスされ混ざり合い、肉塊となって終わるのだ! ありがとう、本当にありがとう。生まれてきてよかった。少しはそう思える人生で、嬉しい。

「あれ?」

 その時。手足の触感が変化した。湿った感触が、徐々に柔らかく、軽くなっていく。気のせいかも知れないが、化け物は少しずつ、蒸発するように、泡になって消えていっているように見える。

 化け物が確かに、徐々にきめ細やかな泡となって消滅している。一体なぜだ。いや、今は色んな意味でそんなことを考えている場合じゃない。

「な、どういうことだ?」

 女も困惑の言葉を漏らし、眉間に皺を寄せた。その表情には初めて見る戸惑いの色があった。この女でも知らない事象ということか。

「う、うぉっ! なんだこれ」

 ボディーソープやシャンプーのような気持ちのいいものじゃない。かつて先生の姿をした化け物だったものが、きめ細かく純白に見え、それでいてヘドロのように汚らしさを否が応でも感じさせる泡に完全に変化し、やがて嘘のように消えた。床に仄かに残る湿り気が、ぬめりとした不快な感触を指先に残し、また生理的な嫌悪感を抱かせる。

「死んだか。まずは一キル」それから女は俺の顔を凝視して「そして、これからもう一キル」と呟く。その眼差しには、迷いがなかった。

 俺の顔面に、魅惑の脚がみるみる近付いてくる。ローファーの先端が、俺の視界を覆い尽くすように迫ってくる。恐らくこのまま重力の力を使われて、俺は潰されてあっさりこの世を去るだろう。改めて、こんなに気持ちいい人生最後の日で、本当に、いいのだろうか。

「今からどうせお前は死ぬけど、最後に名前を聞こう」

 女は俺の正面ですらっと立っている。制服のスカートの裾が、わずかに揺れている。俺は地面にうつ伏せになったまま、おねだりをする犬のように彼女を見た。

「弥彦、カイ。そういうアンタは?」

鳥屋野とやのミラ」

「へぇ、可愛い名前じゃん」

 ミラは俺をただ見つめる。その瞳には何の感情も浮かんでいないように見えた。まさか、好きなのか?

 ――流石にキモすぎるか。

「カイ。最後にどうしても気になったから聞いてもいいか」

「なんだ」

「お前はこの戦いのことを本当に知ってここにいるのか? 明らかにお前は……この指輪のことすらも、知らない振る舞いをしているように見えた」

 ミラの視線が、俺の右手の人差し指へと落ちた。

「あぁ。知らないさ。この戦いとやらも、この指輪のことも、全然何にも」

 口に出してみて実感した。俺は今のこの状況について何も理解がない。だからこのまま殺されるより、少しミラから色々聞いてから死にたいと思う。冥土の土産をたっぷり持っていこう。

「マジ、かよ。じゃあカイ、お前は何も知らないでこのバブルに来て……ストレンジ・スペースに……」

「バブル? ストレンジ・スペース? 何言ってんだか全然わかんねぇよ」

「は?」

「こっちがは? だよ」

 ミラも俺もお互いの認識の違いに酷く混乱したので、俺たちは一旦、色々事情を整理することにした。死ぬ前にこんな会議したくなかったが、モヤモヤしたまま逝くよりかは遥かにマシだ。

 彼女による説明をまとめる。

 そもそもこの世界には、四十二の並行世界、「バブル」と呼ばれている宇宙群が存在していて、それぞれのバブルには同じく地球と、そこに住む人類がいるという。


 ある時、四十二のバブル中で最も進んだ文明を持つ宇宙が、バブルの外側でドミノ倒し式に宇宙が次々と消滅する「連鎖崩壊」という現象が間もなく発生することを発見し、彼らはそれから逃れるためのある一つの方舟を作った。しかし、彼らの技術力を持ってしても、全てのバブルの全ての人類を乗せることは不可能だった。だから彼らは、人類選別のための全宇宙対抗バトルロイヤル「ストレンジ・スペース」を開催した。俺のいるこの世界が会場である理由は「全バブルの中で最も文明レベルが低く、平凡であるから」らしい。心外だ。

 俺持ってる未来予知能力や、ミラの重力操作の力っていうのは、それぞれのバブルが持ってる、他のそれにはない少しだけ特殊な性質を、右手の人差し指にはめた「ストレンジ・アンプ」というリングで増幅させ、異能力として発現させているという理屈らしい。つまり、リングがないと力は使えない。

 俺含めた参加者は、正体不明のゲームマスターによる独断と偏見で選ばれたようで、会場の住人である俺が戦いに参加させられた理由は全くの不明だ。


「説明、色々ありがとう――。なんていうか、その、薄々覚悟はしてたけど、とんでもないな……宇宙とか、バトルロイヤルとか」

「お前が何も知らないだけよ」

 この素っ気なさ、ドライアイスのような冷血さがたまらない。

「あのさ、俺って、なんで選ばれたのかな」

「知らない。「ムーンカーフ」にでも聞けば? ゲームマスターのこと。この世界の月からこのバトルロイヤルを管理してる」

 ミラはあからさまに俺から目を逸らし、俯いた。その横顔が、教室の窓から差し込む光に照らされている。

「私はね、この地球にいる指輪の能力者を全員ぶっ倒して、ムーンカーフに乗り込む。私に名付けられた能力名『月下美人ワタシをツキにツれてって』にかけて、誓う。私は絶対にゲームマスターを倒す」

「ど、どうして? 勝てば生き残る。それで良いんじないのか?」

 俺は純粋な疑問をぶつけた。ミラは歯軋りしたあと、拳を強く握りしめて、こう言った。

「それぞれのバブルには、生きたいと願う人たちがいる。どうしても守りたいものがある人たちがいる。能力で人類を選別するやり方は、そんな思いを戦いに変える。こんなの絶対間違ってる」

「ミラ――」意外、と言っては悪いが、彼女には真っ直ぐな信念と、強固な正義感があった。

「私は全ての人類を救う方法を模索する。そのためには……この手を汚したっていい」

 ミラは拳を震わせた。その指が白くなるほど、力が込められていた。

「なんでそこまで、他人のことを思えるんだよ」

「私のバブルで、戦争の火を見ない日はないから」

 その言葉が、静かに教室の空気に溶けた。

 廊下の外から声が聞こえた。

「まっさか、お友達になるのぉ? お二人サン」

 中性的な声だった。急に誰だ。クラスメイトが戻ってきたか? いや、あの化け物の声がしなくなったからって、一人で教室にすぐ戻るようなことがあるのか?

「もしや! アイツまだ生きて――」

 女は瞬時に腰を落とす。膝が曲がり、重心が下がった。武道かなんかの構えのようだ。詳しくは知らない。

「ミラっ! アイツって?」

「お前の下敷きになったヤツかもしれない! アイツ、まだ指輪をドロップしていない!」

 指輪をドロップ……完全に相手を倒すと、指輪を落とすのか。

「なるほど! ――って、は? まだ生きてんの?」

 すると、俺の指輪が二度目の輝きを放った。右手の人差し指が、眩い光に包まれる。自分の意思とは関係ない。完全にコントロール不能の領域にある。

 カァ――ァ――。と甲高い音が聞こえた。指輪から、光の音がしたのだ。

「う、あ、またあの感覚がっ!」

「ぐっ……またあの光かっ!」

 ミラは瞬時に手で顔を覆った。その腕の隙間から、眩しさに歪む表情が覗いた。まただ。今度も同じように、ビジョンとして少し先の時間を見ることが出来るのだろうか。どの道、俺はこの力を理解していないし、制御もできない。この光に、今は身を委ねるしかない。

 光に包まれた。世界が白く染まる。やがて視界が開けた。自分で自分を見ている。ミラも教室にいる。見える。これは神の視点だ。

 見える。

 見える。

 光は消え、視界が開けた。その瞬間、俺はミラに叫んだ。

「やっぱりまだあの化け物は生きてる! だけど、姿が蜘蛛に変わっている! 俺は見た!」

 俺は確かに見た。廊下の外から不敵に微笑む一人の指輪の能力者の姿を! そして! アイツの能力は――。

「お前の脚に這い寄ってくるその蜘蛛を、今すぐに、今すぐに取り払え! アイツの能力は『食った生物に擬態できる能力』だ!」

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