第三話 チョウとフコウはミツのアジ

 ハエトリグモだろうか。視力はそこまで良くないから、はっきりとは見えないが、ミラの艶かしい生脚を、よじ登っている姿が今、見える。蜘蛛が微かに蠢いている。俺ははっきり未来を見た。あの蜘蛛が突然さっきの先生みたく泡になって、中性的な風貌の人物に変身していくのを――。そして、その人物は突然ミラに噛み付いて、腕を喰いちぎった。俺は確かに見た。

「カイ……それ、マジなの?」

「マジのマジって、信じてくれ」

 俺は教室の窓側に立って、壁と背中をくっつけている。辛うじて安全な姿勢――それは、敵に背中を見せないこと。

 ミラの声に、わずかな迷いが混じっていた。その瞳が俺を見つめる。疑念と、わずかな期待が入り混じった眼差しだ。

「なんで……私に手を貸すのよ」

 その問いかけに、俺は言葉を詰まらせた。

 なんで、だろうか。

 ミラは俺を殺そうとした。彼女の目的のためには、俺のような能力者は邪魔なはずだ。彼女が掲げる「全ての人類を救う」という理想――それは確かに美しい。でも、そのために他の能力者を倒していくってのは、結局このゲームに乗ってるってことだ。

 窓から差し込む光が、教室の埃を照らしている。時計の秒針が、カチ、カチと規則正しく時を刻む。その音が妙に大きく聞こえた。

 ミラは俺の答えを待っている。彼女の右手の指輪――ピンク色の宝石が埋め込まれたそれが、微かに輝いている。

 俺は、自分の右手を見た。真っ赤な宝石。さっき発光したこの指輪。見聞覚知シることイガイはカスりキズという能力名が、脳裏に焼き付いている。

 一瞬先の未来を見る力。

 それだけだ。俺には、重力を操るミラのような攻撃能力はない。ただ、見ることができるだけ。

「……わかんねえよ」

 俺は正直に答えた。

「俺にもわかんねえ。でも、例えばお前が腕を喰いちぎられて悲鳴を上げるのを黙って見てるなんて……できねえんだよ」

 ミラの目が、わずかに見開かれた。

「別に、お前の理想に共感してるわけじゃない。全人類を救うとか、そんな大それたこと、俺には考えられない」

 俺は床に視線を落とした。

「しかも俺の能力は、見るだけだ。攻撃もできないし防御もできない。ただ! 未来が見える。それだけなんだ。だから……」

 言葉が、喉の奥で引っかかった。

「だから、お前に頼る。お前の力がなきゃ、俺は生き残れない。でも同時に、お前も俺の力がなきゃ、さっきの時点で腕失ってたぞ」

 ミラは黙って俺を見ていた。その表情からは、何を考えているのか読み取れない。

「……共依存ってわけね」

 彼女は小さく呟いた。

「共依存?」

「私はあんたの力を使う。あんたは私の力を使う。少なくとも今の私たちは、お互いに利用し合う関係ってこと」

 ミラの声には、諦めにも似た響きがあった。

「私は、一人で戦ってきた。誰にも頼らず、誰も頼らせず。それが、私のやり方だった」

 彼女の拳が、わずかに震えている。

「でも、あんたの能力は……厄介ね。未来予知なんて、反則じゃない」

「お前の重力操作も十分反則だろ」

 俺は思わず言い返した。

 ミラは、フッ、と笑った。本当に小さな、ほんの一瞬だけの笑みだったが、確かに彼女は笑った。

「そうね。お互い様か」

 彼女は眉を顰めつつ、足元に目線を落とした。蜘蛛の存在に気付いたようだ。彼女はそれを凝視するや否や――踏み潰した。ぐちゃり、という音もせず、蜘蛛はぺたんこになって死亡した。

 太陽が雲に隠れ、淡く白い光が教室を包んだ。時計の針の音だけが、はっきりと聞こえた。まるで、世界がこの瞬間を際立たせるために、全ての音を消したかのようだった。

「今度こそ殺したか?」

 ミラは足を退けた。蜘蛛は見るも無惨な姿になって、原型を失っている。黒い体液が床に広がり、脚は無残な角度に折れ曲がっていた。

 カチ、カチ。何秒経っても、指輪のドロップにあたるような現象は起こらない。まだ、ヤツは死んでいない。

「そんな……おいミラ、指輪が落ちてこないってことは――」

「まだヤツは死んでないみたいね」

 彼女は蜘蛛の死体をよく観察した。自分のローファーの靴裏と、床に分離した蜘蛛の肉が、細かい泡になっていた。まるでシャンプーの泡のように、ふわふわと浮遊しながら形を変えていく。

「泡。まただ」

 ミラは続けて俺に叫んだ。

「カイ……! 警戒して!」

 そう言って彼女はまた戦闘態勢をとった。両足を肩幅に開き、右手を前に構える。彼女のいた世界では戦争が絶えないらしいが、その中で彼女は戦い方を学んだのだろうか。その動きには、無駄がまったくない。

 俺は言われた通り、今の状況をじっくり見つめることにした。恐怖や焦りをよそにして、自分が今何をするべきなのかに集中する――ことは難しいが、とにかく、やれるだけやってみることだ。

「はぁ、はぁ」

 息が乱れ、荒くなっている。心臓が早鐘を打ち、全身に汗が滲む。これは決してミラの脚に興奮しているわけではない。ましてや、彼女の胸の仄かな膨らみに劣情を抱いているわけでもない。今に関しては、違う。

 教室の空気が、重い。いや、実際に重力が変化しているわけではない。でも、何か得体の知れないものの気配が、この空間を満たしている。

「あれは……」

 見えた! ぷる……ぷる……と、ミラのローファーから移動した泡が、震えながら動いている! 光を反射して虹色に輝くその泡は、まるで生き物のように床を這っている。

「ミラ! 泡だ! 恐らく、泡が本体なんだ!」

 俺はまたミラに叫んだ。床を這う泡は、蠢きながら教室のドアから出ようとしている。その動きは、明確な意志を持っているように見えた。

 今日は朝起きてから、意味不明な現象ばっかり起こっているから、そろそろ泡が動いたくらいじゃビビらなくなってしまった。こんな感覚のマヒ、無い方がいいんだろうが。

「あぁ今私も気づいたさ! ぶっ叩く!」

 ミラは鬼の仮面を被ったかのように表情を変え、全力で言った。

「界ッ変!」

 右手を振り上げ思いっきり下ろす。その瞬間、空間が歪んだように見えた。一瞬のうちに、泡の塊を中心として床にヒビが入り、沈み込んで割れた。バキバキという音が教室に響き渡る。過剰で非常に強力な重力の負荷がかかっているってことだ。俺には影響がないから、やはりごく一部の物体にかかる重力をピンポイントで変化させることが出来るようだ。

 机も、椅子も、教卓も、黒板消しさえも、小刻みに揺れている。さっきまでのミラの力で、校舎全体がシャカシャカ振られたように物が散らかっている。

「はああぁ……」

 ミラが息を吐く。その額には汗が浮かんでいた。

 重力の影響を受けて、バキ、バキと床が崩壊していく。木材が軋み、コンクリートが砕け、まるで隕石が落ちた跡のようなクレーターが床に穿たれていく。そろそろ下の階に影響が及びそうで、それはそれでちょっと心配なのだが、休校になればいいな、とも思う。

 泡が、萎むように小さくなっていく。まるで風船から空気が抜けるように、その体積を減らしていく。

「やった……のか?」

 俺は息を呑んで見守った。

 しかし――。

 ミラは唖然とした表情を浮かべ、右手の指先をゆっくりと地面へ下ろした。彼女の指輪の光が徐々に失われていく。

「な、なんで……」

 泡は死ななかった。この威力の重力操作を受けても、泡はその灯火を完全に失うことはなかった。死なない。何故だ。

 泡はミラの能力の弱まりに比例して強大になっていく。

 シュワ、シュワ――。急速に体積を増した泡。徐々にそれはあるシルエットになって、変わった。

「ふぃー。何怖がってんの? 泡は殺せないよぉ?」

 その姿はまさに、泡でできた人間だった。

顔の輪郭も、体の線も、全てが不明瞭で、ゆらゆらと揺れている。しかし、その右手には確かに指輪が嵌まっていた。青い宝石が埋め込まれた指輪が。

「キミ、中々美味しそうな顔してるね」

 その声は、男性とも女性ともつかない、不気味な響きを持っていた。

「ボクの能力はねぇ……『弱肉強食チョウとフコウはミツのアジ』っていうの」

 泡人間は不自然に引き攣って、ニヤけた。

「食べた生物の姿に化けられるし、傷ついても泡になって再生できる。便利でしょ? 化けても、特に人間は扱いが難しいから……さっきみたいに喋りにくかったりするけどサ」

 胃腸が活発に動く時のような籠もった音を立て、やがて泡人間は普通の人間と遜色ない、綺麗な人型に変化しきった。ミラと同じく、この学校の制服を着ている。

「カイ、これこそ厄介ってやつよ」

 ミラが舌打ちする。

「わかってる」

 俺の心臓が、激しく鼓動する。

 華奢で、小五くらいの身長しかない泡人間は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。その足取りは、まるでダンスを踊るかのように優雅だった。

「ねぇ、キミたち。このゲーム、楽しんでる?」

 泡人間が問いかけた。

「ボクはねぇすっごく楽しいの。だってだって――」

 ミラが身構える。俺も、これ以上退がれないのに、無意識に足を動かしてしまった。

「美味いモンがたっくさん喰い放題だからさァ!」

 泡人間はかなりの美貌を持っている。シャープな顎と、透き通るような白い肌が何よりも印象的だ。だが、ドリルのような歯を見せながら、絶えず垂れる多量の唾液には、なんの美しさも感じられない。ミラは顔を歪ませ、言った。

「コ、コイツ……気持ち、悪い」

 彼女は息をゆっくりと吸う。そして、ゆっくりと吐く。

「気持ち悪い? 聞き捨てならんねぇ。ボク、こんなに可愛いのにぃ。今からキミたちのこと、食べてあげるのにぃ」

 彼女の舌打ち。そして――。

「界変!」

ミラが叫ぶと同時に、泡人間の足元の重力が急激に増大した。しかし、化け物は動じない。その足が、泡状に変化して重力を逃がしていた。

「無意味だァッ!」

 避けられた。このままじゃ、泡になって永遠に攻撃を無効化されてしまう! 未来を、もっと未来を見ないと……! 光が、あの光が欲しい! 光れ俺の指輪ぁ!

「ぐっ……」

 光った。よし、ここから未来を――。

 見る!

「ミラ、アイツは真っ正面から来る!」

「ボクに喰われろおぉ」

 見えた……見えた! 俺が咄嗟に叫んだ瞬間に、泡人間は廊下側の壁に背中をベッタリと押しつけられた。重力が泡人間と壁を引き寄せる形で変化したようだ。

「うぉっ……まて、う、うわぁぁっ!」

 一瞬、俺はバランスを崩し教室奥の掃除用具入れに激突した。縦から横……と表現したら良いものなのかは分からないが、周辺の空間にかかる重力の方向が九十度変わっちまったせいだろう。

 ここで俺は一つ気づいたことがある。せっかくの予知を叫んだら、泡人間に内容が筒抜けだということだ。今回は同時だったから、結果良かったけど。

「ぐぁぁっ……」

 そんなことを考えている合間にも、泡人間にかかる重力がじわじわと増していく。泡人間は頭を両手で抱え、その場に倒れ込む。

「いだ、い、いだいいだい!」

 か細い声を上げながら、泡人間は再び溶けるように泡となっていく。

「カイ! 次は!?」

 俺は今度、泡人間に聞かれないよう、ミラの耳元で囁くことにした。ダッシュで彼女に近づき、両手で小さなメガホンを作り、目を閉じて、そっと言う。あぁ、こんなに女の子に近づいたの、生まれて初めてかもしれない。

「泡になってあんたの左足を狙ってくる。左に重力を!」

 言えた。いい、匂いだ。

「うわっ、急になによ!? アンタってマジ気色悪い」

 俺は全身で振り払われた! やっぱりドM心をくすぐる女だけど……今のは良かれと思ってやったことだから……ちょっと凹む。

 一瞬の間の後、彼女は言った。

「でも、叫ばず私にだけ伝えるようにしたのは、感謝するべき、かな」

 口角を僅かに上げたミラの能力が発動。泡人間の左足に強烈な重力がかかる。しかし、やはり足が泡状に変化して逃れようとする。このままじゃキリがない。どうすれば、こいつを倒せる?

 見た未来には、もう少し続きがあった。

 泡人間の攻撃。ミラの回避。重力による反撃。泡化による無効化。その繰り返し。そして――。

 喰われる。ミラが喰われる。俺は見た。

 どうすれば、どうすれば。

「はぁ、そろそろきつい……」

 彼女の細長い首にいくつもの汗が滴る。俺は俺で、考えても考えても、脳のギアが空回りしている感覚がある。どうやら、能力を使うと体力をえらく消費してしまうようだ。このままじゃまずい。そう思うともっと辛くなる。もうしばらく未来は見れなそうだ。

「はぁ、はぁ……」

 まるで氷点下の中、手袋も付けずに学校へ向かったあの朝の時と同じくらい、ミラの手は震えていた。息を切らしもう限界と言わんばかりの表情。

「あら? おねーさん、能力解除しちゃったの? 二人とも体力消費が激しいんだねぇ……いけないねぇもっと食べないとぉ……」

 重力が……元通りになった。

 泡人間は、余裕綽々といった様子でミラに近づいた。

「ボクの名前はジュン……桜木さくらぎジュンって言うんだぁ可愛い名前でしょ?」

 また一歩、泡人間――ジュンは彼女に近づいた。

「ボクのいたバブルではね、とっても美味しいご飯が誰でも食べられたんだよぉ。でも、災害に次ぐ災害で、未曾有の飢餓がボクたちを襲った……」

 こいつらはそれぞれ生まれたバブルの中で、それぞれ強い思いを持ってこの戦いに参加してる。でも今こいつを倒せば、この泡人間ジュンの文明は滅ぶ。実感がない。全然実感がないけど、どうもそういうことらしい。

「だから……喰ってやる。全部喰てやる、喰らってやる!」

 ジュンは目の前に生肉を置かれた大型犬さながら、滝のヨダレと血の赤が混じった白目をひん剥き、ミラを視る。

「はぁ、はぁ」

 間違いない。疲労を極めた彼女は今、喰われる。目の前で人が喰われる? それって、どんな感覚だ? この場からぴくりとも動けず、喋ることも出来なくなる? そんな衝撃を残して、人間の形を留めないミラから目を逸らした直後、俺も喰われたりするのだろうか。

「嫌だ」

 思わず呟いたその一言は、鏡として自分の本当の気持ちを映し出した。

「あぁ?」

 ジュンは首を不自然に曲げ、俺を見た。異様に大きい愛嬌のある目は、真円に近い悪魔の目に変わった。怖い、今朝からの恐怖の根源、その本当の姿を今はっきりと拝んでいる。だけど、だけど。目の前でミラが殺されるのは絶対に見たくない。

 ミラが殺される未来では、ジュンは喰っている間ずっと人間の姿で隙だらけだった。一か八か、それを利用する。

「俺を見ろ」

「んー?」

 彼と言ったらいいのか彼女と言ったらいいのか……とにかくジュンはニタニタしてこっちを見ている。ミラを喰うな。

「あ! 先に喰われたいの?」

 あぁ。決まってるさ。

 ミラを喰うな。

 ここまで来ると、人間は変な笑いが込み上げてくるものらしい。俺は俺の首を指差す。

 ミラを喰うな。

「あっは。そうだ! 俺を喰え、ジュン」

 ミラは……俺の理想のドS嬢だから。

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