ストレンジ・スペース 〜キミとフタリなら〜

一文字零

春の章

第一話 シることイガイはカスりキズ

 ジリリリリ――ジリリリリ――。

「ん……」

 スマホのアラームが残酷にも朝を告げる。枕元に伸ばした手でスマホの画面を確認すると、表示された時刻に目を疑った。

「あ、こりゃ、遅刻確定か?」

 今日から夢……いや、悪夢にまで見た新学期が本格的に始まる。高校生活も二年目。新鮮味が無くなった分、苦痛さが増した。

 急いで朝の支度をして、ドアを破壊する勢いで家を出る。起床時、スマホは「午前七時五〇分」を示していた。

 柳都市立柳都高校りゅうとしりつりゅうとこうこう。俺の通う、なんの変哲もない、ただの高校である。偏差値も、部活の成績も、先生の質も、全校生徒の人数も、学年に占める半グレの更に一歩手前みたいな運動部の比率も、全てが平均的。正直言って、何も面白く思えない。

「はぁ、はぁ」

 俺は、自転車を死に物狂いで漕いで通学路を走っている。かくいう俺も、弥彦やひこカイって珍しい名前以外、全てが平均的みたいな人間なので、この学校にはお似合いなのかもしれない。

「ん?」

 いつもの通学路、いつもの朝。春の陽気が心地いい、ただの朝だ。でも、違和感がある。

 その正体は、意外とすぐに判明した。指だ。ハンドルを握りながらちらりと視線を落とすと、右手の人差し指に、見覚えのない指輪が嵌っている。

「なんだぁ、これ」

 異変を見つけても、ペダルを漕ぐ足は止まらない。

 この指輪は一体? カラットの基準は知らないが、とにかく大きく真っ赤で丸い宝石が、白銀のリングと一体の爪に捕まっている。眼球のように鋭い輝きを放つそれは、気味が悪いとすら思う程だ。俺はこんな派手なもの、好んで身につけるような人種ではない。そもそもファッションに興味が全くない。ブルゾンってどんな意味なのかも知らない。

 学校に着いたらすぐ取ろう。奇妙な話だが、昨日寝ぼけて親の指輪でも装着して寝たんだろう。本当に、奇妙な話だが。

 学校に着く。チャイムが鳴るギリギリで席に座る。俺は一番廊下側にして一番後ろ。見渡せば新しいクラスメイト。友達なんて全然いないし、作れるようなコミュニケーション能力もない俺は、授業が始まるまで、どことなくSっ気のある可愛い女の子を探すくらいしか、やることがなかった。でも、こんな生活にも、もう慣れっこだった。いつからか、虚しいとか寂しいとか、そんなネガティブ感情も無くなっていたから。

 それに今日は、俺の理想の超エロいドS女子が目の前に現れて罵ってくれそうな、そんな予感がする。

キーンコーン――。

 ガラガラと音を立て、教室の扉が開き、先生がのそのそ登場した。とうとう一限、現代文の授業が始まる。もうどんな先生だろうと構わない。どの道、すぐ話を聞かなくなるのが目に見えている。

「はい、じゃあ、授業を始めます」

 若いメガネをかけた男の先生は、自己紹介もせずに板書をし始めた。教科書を開けだの、どんな内容をやるだの、色々言うことはあるだろうに。何かおかしい。

「はい、じゃあ、授業を……」

 なんだこの先生は。先生はぶつぶつと「はい、じゃあ、授業を始めます」の一文だけを繰り返しながら、なんだかよく分からない、日本語のような何かを黒板に書き記している。チョークを持った右手が機械的に動き、意味をなさない記号の羅列を黙々と、走り書きしている。単に字が下手なだけなのだろうが、こんなに酷い文字を書く現代文の教師というのも、如何なものなのだろうか。

「はい、はい、はい」

 思わず「うわ」と声が漏れた。教室が、微かにざわめき始めた。先生の、チョークを持つ骨ばった右手をよく見ると、血色が良くないことに気づく。青紫がかっている。もしかしたら、気分が悪いのかもしれない。だとしたら相当深刻そうだ。

 思い出した。さっき気づいた謎の指輪、外さねば。

 俺はお経のような呪文のような先生の発声を聞き流しながら、左手を右手に添え、指輪を掴んで取り外そうと力を入れた。

「あー、外れない」

 相当キツく嵌っているのだろう。指の僅かな肉の厚みと摩擦が邪魔をして、全然抜けない。こういう時は、ハンドソープで指と指輪の間をぬるぬるにしてしまうのが良い。幼少期、母の指輪を親指に入れてしまって、同じことをされたのを覚えている。そう、俺はこんな感じで、昔から同じ過ちを繰り返すような人間なのだ。この授業が終わったら、トイレに行こう。

 そう考えた矢先、一番前の席に座るクラスの女子が、申し訳なさそうに言った。

「えっと先生……大丈夫ですか?」

「あー、ですから、であるから、はい、じゃあ授業を」

 そうだ。俺が一人、指輪が取れないどうしようと冷や汗を流している合間に、クラスメイト達は別の理由で嫌な汗をダラダラ垂らしているのだ。はっきり言って気持ちの悪いこの先生の言動によって、このまま約一時間の授業が丸ごとぶっ飛ぶのもアリだ。しかし、我々の目の前に立つこんな不気味で様子のおかしな男を放っておくのも違う気がする。

「はい、授業を始めます。授業、を」

 もし、先生に脳疾患なんかがあってこういう発言をしているのだとしたら、俺たちは救急車を呼び、彼を救う使命があるのだ。

 名前も把握していない一番前の席の女子は、そのまま、恐る恐る先生に近づく。ざわめきはより一層強まり、青ざめて引いている人も散見される。こんなの、本当に病気の類なのか?

「ああ」

 先生は呻いた。次の瞬間――ぐるんっ、と彼の首が、まるで人形の関節が外れたかのように、一八〇度に迫る角度で勢いよく後ろへ回転した。

「う、うわ、いやぁっ!」

 女子は目を正円にして、腰が抜けたように、その場にへたり込んでしまった。

 俺の心臓が急激にそのリズムを速めた。どういうことだよ。なんなんだコイツは?

 ガタ、ガタガタ。

「うわあぁ! なんだ、なんだよこれ!」

「なになになになに!?」

「怖いなにこれねぇ! 待ってよ!」

 椅子と床の擦れと共に、クラスメイト達は次々に席を立ち、逃げる。俺も立ち上がり、教室をコンマ一秒でも早く去ろうとした。だが、できなかった。

「お、おい! ちょ、おいお前ら!」

 後ろの扉から逃げる彼らのせいで、俺だけがその波に着いていけずに待つ羽目になってしまった。立ち上がるのがワンテンポズレたのだ。数秒の違いだが、恐怖の差はあまりにも大きい。

「授業を、授業を」

「う、うわ」

 見たくもないのに、黒板の方に目をやってしまう。振り返った先生の首は、依然として不自然な角度のまま、こちらを向いていた。

「あ……」

「あ、始めます」

 偶然にも「あ」の発音が揃ってしまった。脚が震えて、震えるばかりで動けない。もはや化け物と化した先生と、教室で二人きりだ。みんな自分のことしか考えてない。そんな奴らばかりだ。極限状態になれば、他人のことを気にかけて思いやる余裕なんてないんだ。これが普通、平均の人間がすること。

「授業授業じゅ、授業」

 でも、この広い世界のこの狭い教室で起こった、この嘘みたいな現実の日は、普通でも平均でもない。そうだよな、な。そうだよな。

「授業ぎゅぎょ、ん、ん、ん、ん」

 凄まじい形相で先生だったはずのナニかに見つめられている。本当になんなんだ。唾液が口から垂れて、教卓に落っこちている。でも胴体から下は黒板の方を向いている。生理的に無理だ。その内吐き気もしてきた。殺されるかもしれないとか、追いかけられるかもしれないとか、そういう未知故の恐怖が俺の心身を支配した。

「そそぞぞ、それは? もしかしてもしかし」

 ダダダダ。気持ち悪いナニかは、やっと違う種類の言葉を発すると、短い歩幅で靴音を豪快に立てながら、カクカクとぎこちない動きで俺に駆け寄る。

「な、なに。なんだよ、今日……」

 ああ、俺は多分死ぬのだろう。この外れない指輪は死の暗示で、俺はコイツに何かをされて殺される。何もかも確証は持てないが、不安と確信の境目が曖昧になった。

 そして、さっき異形のナニかが垂らした唾液を思いっきり浴びた教卓が、僅かに揺れた。

「今度は何?」

 俺も揺れた。ナニかも揺れた。机も椅子も、壁掛けカレンダーも。床から、小刻みに上下に跳ねるような振動が伝わってくる。

「お、おおおおオマエのチカラか?」

 何故だか知らないが、地震が起きた。それも水平方向の揺れではなく、明らかに上下方向に動いている。小刻みに浮いたり、落ちたりしているのだ。

「力? そんなの、知らねぇよ。今日が……おかしいだけだろ?」

 そう言う俺の声は、今までにないほど震えていた。中学の頃、友達が誰もいない教室で、国語のスピーチ課題を発表したあの時よりもだ。

「ゆ、ゆびわわわわ」

 地震は収まらないどころかその威力を次第に増していった。心臓が破裂しそうな最中、化け物は突如俺の右手首を両手で強力に掴み、天井へ掲げるようにした後、俺の指輪が嵌った人差し指を血走った目で凝視した。さらに化け物は、ギリギリと嫌な音を立てて歯軋りする。飛び出そうな眼球は、枯れた樹木のようなデザインで血走っている。

 足が浮いた。俺は完全に持ち上げられて、だらしなくつま先がふらふらしている。化け物の異常な腕力によって、床から身体が引き剥がされる。

「あはは」

 乾いた笑い。それしかできなかったのだ。どこから湧いてくるのか分からないこの化け物の化け物じみた力で、右手首が骨ごと潰れてしまいそうだ。握力が増すたびに、骨がきしむ感覚が腕を駆け上る。

「おおおまえは、ゆびわゎ!」

 指輪? この指輪とコイツに関係があるのか? そんなことを考えている合間にも、化け物の両の手がギチギチ言って、俺の右手は指輪の赤と対照的に、青白くなってきている……! やばい、このまま、死ぬぞ、俺。なんにもしなかった。部活も勉強も、恋愛もせずに……女の子に蔑んだ目で罵倒されることもなしに……!

 意識が遠のいていく。肉体が天に昇っていく感覚がある。右手の感覚がない。腕から血が垂れている。化け物の爪が皮膚を突き破り、血管に食い込んでいるのが、薄れゆく視界の中からかろうじて確認できた。温かい液体が手首を伝って滴り落ちる。あーあ。もういいや。さようなら。

 ガタン! ガタン!

「う、わああ! ああ! うういて、うい!?」

 近くで痛い程大きな物音と、化け物の声がした。

 床が軋む音が消えた。いや、違う――俺の足が床から離れている。椅子が、机が、ゆっくりと宙に浮かび上がった。周囲のものが次々と、重力に逆らうように空中に持ち上がっていく。

「なにっ」

 俺の視力が回復した。瞼が突っ張るくらい開いた。

 信じられない。全くもって信じられないが、今俺が存在しているこの世界が夢だろうと現実だろうと、この状況をとりあえず信じるしかなかった。

  椅子も机も何もかも空間を漂っている。これは明らかに、地震なんかじゃない。実際に行ったことは勿論ないが、これはまるで……宇宙空間だ。

「はぁ、はぁ。離せ、はなっ」

 酸素はある。本当の宇宙空間になったわけじゃない。焦るな、落ち着け俺。

 いや、人間はこの状況に置かれて、落ち着くことなんてできるのか?

 その時、誰かの声が聞こえた。

 女の声だった。

界変かいへん

 好きな声だ。たった四音、何を意図しているのかは分からないが、可愛い女の子が、助けにでも来てくれたんだろうか……。

 化け物に捕まったまま、俺はふわふわ教室を漂う。机の冷たい金属製の足が、他の机やら椅子やらとぶつかりながら、俺の脇腹をキックする。痛い。もうダメだ。俺は化け物に覆われて見下ろされ、背中を床に向けている。

 もしかして今の声は……俺の幻聴、かも知れない。

 俺のタイプの子だったらいいな。なんて思う。

「ん?」

 顔を垂らすと、一人の女子が、左側の窓の外にいた。

「漁夫の利。一気に二キルってワケね」

 一人の女子が――浮いていた。ピンク色の髪をした、背の低い女子だ。この学校の制服を着ている。あんな女知らない。そもそもあの髪は校則違反だ。彼女は何の支えもなく、まるで透明な床の上に立っているかのように、窓の外の空中に静止していた。

「この力の制御方法、分かってきた」

 この教室は四階だ。

「じゃ、さっさと死ね」

 俺と同じような形の指輪を嵌めた女子は、ガラガラと窓を開け、地面から浮いたまま、外から教室に入ってきた。それから太陽光を反射して煌めく指輪を差し出すように、手を真っ直ぐ俺と化け物の方へ向けた。彼女には、西洋絵画を見た時のような息を飲むほどの輝きがあった。ただ、見惚れている暇はない。まずい。何がまずいのかやっぱり全然理解していないが、この女に攻撃される……!

「はぁっ!」

 女が腕を床に振り下ろしたのと同時。何かが光った。

「うぁっ……! お、俺の……」

 指輪だった。赤く、自ら光を放っている。そしてあろうことか、今度は指輪の方から謎の中性的な声が聞こえた。

「合言葉は……界、変」

 確か、さっきあのピンク髪が言ってたやつだ。言うとなんか起きるのか? 天井と俺の靴が触れた今、俺なんかに一体全体何が出来る!?

 一か、八か。

「かいへ……ん」

 俺は言った。

「う、ぐ、おおおゆゆゆびびびわ」

「な! まさか今……初めて能力を?」

 光った。さらに光った。光に包まれるとは、こういうことなのか。指輪から放たれる赤い光が、視界を埋め尽くしていく。

 俺の指輪から、また声がする。

「よく出来ました!」

「よく……? 俺って……」

「貴方のストレンジは……でけでけでけでけぇーでんっ!『 見聞覚知シることイガイはカスりキズ』って名前だよ! おめでとぉー!」

 時間が止まっているみたいだ。体は動かないし、浮いている感覚もない。視界は真っ白で、今は、他に誰もいないみたいに感じる。

「お、おめ……? すとれんじ?」

「ほら、目を閉じて……?」

「目? あ、うん」

 目を閉じた。のに、視界が開けた。まぶたの裏側に映像が浮かび上がる。これからあのさらさらとしたピンク髪の女が、俺とこの化け物、そして教室の物を全て、過剰にかかった重力のパワーで床に叩きつける様子が、何故か見える。鮮明に、まるで既に起きた出来事を思い出すかのように。大丈夫だ。大丈夫だ。つまり俺の助かる方法はたった一つ。叩きつけられるその前に、化け物を床側に、俺を天井側に位置付けること……。

 たったそれだけだ。

「うおおぉ!」

 目一杯、脚で空中の机や椅子を弾きながら、壁を蹴る。無重力状態の中、反動を利用して身体を捻る。その勢いで俺は、化け物と俺の位置をひっくり返した。そして――。

 女は手を振り下ろした。

 ドッ!

「がががっ! ぎゃぁぁぁっ!」

 ガラララ――。全ては再び地球に引き付けられた。いや、引き付けられたというより、強制的に叩きつけられた。

「ん……ぐぁ」

 俺は咄嗟に目を閉じた。重力が戻った……というより、強力になった。今度はどんなに力を入れても床から立ち上がれない。全身に何十キロもの重りが乗っているような圧迫感。

「が、ゆゆゆびわ、ちか、か」

 でも、俺の右手をようやく離した化け物が丁度良くクッションになって、俺に新たな怪我はないみたいだ。相変わらず右手の感覚はない。

 俺は今、化け物と一緒に床に叩きつけられ、化け物を覆うように上に被さっている。化け物の身体が、異常な重力によって床に押し潰され、ぐちゃりという鈍い音が響いた。

「あんた……この状況で、コイツを身代わりにする判断をしたの?」

 女は言った。ピンク髪の少女は、普通に立っている。彼女だけが、この異常な重力の影響を受けていないかのように。

「ああ。えっと……どうやらこの指輪のお陰、らしい」

「らしい……って、この戦いのこと、知らないわけ?」

 こんな時になんだが……この子、超俺のタイプだ。さっきから、声から顔から全部が……エロすぎる。俺の理想のドS女子だ!

「いや、なんていうか、なんにも知らない。それどころか、お前の能力もこの化け物も、意味わかんねぇ。てか、体も瞼も、お前のせいで重い。悪いけど戻して欲しいんだが」

「能力の正体が分からないのは私も一緒よ。あと、能力解除なんてするワケないじゃん」

「は?」

「お前も私の敵。だから死ね」

 女の目が冷たく俺を見下ろす。その瞳には、一片の躊躇いもない。

「しっ、死ねって? 俺なんにもしてな、い、ぞ」

 苦しい。心臓も肺も、何もかも、全ての臓器が圧迫されて、押し潰される。呼吸をするたびに、肋骨が軋む。

「死ねよ」

 あぁ、こんな……こんな意味不明な状況下に置かれてるのに……俺、俺ってバカだ……こんな時にさえ思うなんて。俺、その言葉に弱いんだよぉっ!

 俺は、思わず口に出してしまった。

「ふ、踏まれ、てぇ……」

 女は一瞬「ひっ」と声を漏らすと、明らかに引いた表情で一歩後ずさった。それから溜めて溜めて、心の底から湧き上がるような震えた声で、言った。

「きっしょ……」

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