第14話 市立文化センター清掃員・白川千晶の日常
第一章:重さのない汚れ
市立文化センターの朝は、静寂とワックスの匂いに満ちている。
清掃スタッフの白川千晶(二十九歳)は、誰もいない美術展示室の床にモップを走らせていた。
彼女は、この時間が好きだった。誰とも話さず、誰の目も気にせず、ただ空間を綺麗にすることだけに集中できる時間。
彼女は職場の同僚からも、すれ違う利用者からも、まるで空気のように扱われることに慣れていた。いや、むしろ自分から気配を消して生きてきた。
「……あれ?」
展示室の中央。ピカピカに磨き上げられた床に、一枚の黒い羽が落ちていた。
カラスの羽に見えるが、もっと輪郭が曖昧で、墨を水に落としたような揺らぎがある。
窓は閉まっている。空調もまだ動いていない。鳥が入れる隙間などない。
千晶はしゃがみ込み、羽をつまもうとした。
スカッ。
指先が、羽をすり抜けた。
床の感触しかない。そこにあるのに、触れない。
ホログラム? いいえ、ここは市民ギャラリーだ。そんな高価な設備はない。
「……気持ち悪い」
千晶は塵取りを使って、床ごと掬い上げるようにして羽を回収した。塵取りの上に乗っているようには見えるが、重さが全くない。
そのまま清掃ワゴンのゴミ箱へ傾ける。
フッ……。
ゴミ箱の中に落ちた瞬間、羽は煙のように拡散し、消滅した。
跡形もない。
千晶は自分の指先を見た。少しだけ、冷たい痺れが残っていた。
第二章:ノイズ混じりの来館者
午前十時。開館と同時に、一人の男性が入ってきた。
コートを着た、四十代くらいの男性だ。
千晶は通路の端に避け、頭を下げた。
「おはようございます」
男性は反応しなかった。
無視されたのではない。千晶の声が、彼の鼓膜に届いていないかのように、視線も動かさず、歩調も変えずに通り過ぎていく。
いつものことだ。清掃員なんて、風景の一部みたいなものだから。
だが、すれ違いざまに千晶は息を呑んだ。
男性の背中に、黒い羽がびっしりと張り付いていたのだ。
羽は濡れたように黒く光り、男性が歩くたびに、**ぺりっ……ぺりっ……**と、皮膚から剥がれるような湿った音を立てていた。
剥がれかけた羽は、空中に舞うことなく、また磁石のように男性の背中へ吸い込まれていく。
「あの、お客様……背中に」
千晶は思わず声をかけ、手を伸ばした。
その指先が、男性の肩に触れそうになった瞬間。
ザザッ。
男性の輪郭が、テレビの砂嵐のように一瞬だけ乱れた。
ノイズ。
人間が、映像データのようにブレて、半透明になったのだ。
千晶の手は空を切り、男性は何事もなかったように展示室の奥へと消えていった。
千晶はその場に立ち尽くした。
怖いという感情よりも先に、奇妙な**「共感」**が湧き上がっていた。
あの人も、私と同じだ。
世界から輪郭を消されかけている。
第三章:記録されない存在
千晶は用具室にモップを戻すと、事務室へと向かった。
確認しなければならない。あの男性が何者なのか、そして自分の目が狂っていないか。
「すみません、防犯カメラの映像を見せてもらえませんか? さっきの展示室の……」
事務員の女性は、怪訝な顔で千晶を見た。
まるで「あなた、誰だっけ?」と言いたげな目だった。
それでも、モニターを操作してくれた。
「十時過ぎですね。……ええっと、誰もいませんよ?」
モニターには、静まり返った展示室が映っていた。
男性の姿はない。
そして――掃除をしていたはずの千晶の姿も、どこにも映っていなかった。
「え……?」
「ほら、誰も来てません。白川さん、掃除終わったなら休憩入っていいですよ」
事務員は、画面に誰も映っていないことを不思議とも思わず、事務的に告げた。
千晶は画面を凝視した。
画面の端、千晶が立っていたはずの場所に、うっすらと黒いノイズのような影が揺れていた。
男性がいた場所にも、同じノイズがある。
(私、映ってない)
(あの人も、私も、機械にはもう「人間」として認識されていない?)
千晶は、逃げるように事務室を出た。
すれ違う同僚に挨拶をしたが、誰も振り返らなかった。
自分の声が、水の中にいるように籠もって聞こえる。
第四章:肌に沈む違和感
夕方。千晶は更衣室で着替えていた。
制服のブラウスを脱いだ時、鏡の中の自分を見て、悲鳴を上げそうになった。
左の肩から二の腕にかけて、あの黒い羽が三枚、張り付いていた。
「うそ……いつの間に」
痛みはない。痒みもない。
千晶は震える手で、羽を剥がそうとした。
しかし、指は羽をすり抜けた。
触れない。
その時、羽がぬるりと動いた。
表面に乗っているのではない。
羽は、千晶の皮膚の**「内側」へと沈み込んでいった**のだ。
泥沼に石が沈むように、音もなく、波紋も立てず、体内へと消えていく。
「いやぁッ!」
千晶は叫んだ。
だが、その声は更衣室の壁に吸い込まれ、響かなかった。
鏡を見る。
羽が沈んだ左肩が、透けていた。
骨や血管が見えるのではない。背景のロッカーが、ぼんやりと透けて見えているのだ。
自分の体が、現実というレイヤーから切り取られ、フォトショップで透明度を下げられた画像のようになっていく。
第五章:軽い身体と、夜への透化
夜。帰宅ラッシュの時間帯だが、バス停には誰もいなかった。
千晶はベンチの端に座り、透け始めた自分の左手を見つめていた。
もう、スマホのタッチパネルが指を認識しない。
「……あんた、飛びそうじゃな」
突然、声がした。
隣に、いつの間にか小さな老人が座っていた。
古びた帽子を目深にかぶり、手には杖をついている。
千晶は驚いて顔を上げた。
今日初めて、誰かと目が合った気がした。
「……私が見えるんですか?」
「見えるとも。わしのような、世間から忘れられた年寄りには、よく見える」
老人は、千晶の透けた左腕を見ても動じなかった。
ただ、天気を語るような口調で言った。
「軽くなったもんじゃ。もう、この世界の重しじゃなくなっとる」
「……え?」
「誰にも見られんもんは、根っこが枯れるんじゃよ。……そうして、風が吹けば、あっちへ吸われていく」
老人は痩せた指で、夜空を指差した。
「あっち」がどこなのか、それは天国なのか、異界なのか、老人は語らない。
ただ、それが**「避けられない自然現象」**であるかのように呟いた。
「抗うなよ。抗えば痛む。……身を任せれば、鳥のように楽になる」
バスのヘッドライトが近づいてきた。
老人はよろりと立ち上がり、バスには乗らず、闇の中へと歩き去っていった。
千晶は一人残された。
ふわり。
右肩から、一枚の黒い羽が剥がれ落ちた。
羽は地面には落ちず、重力を無視して夜空へと舞い上がっていく。
まるで、千晶の魂の一部を持ち去るように。
(私は、消えるんじゃない)
(……混ざっていくんだ)
千晶は直感した。
死ぬわけではない。ただ、この「人間たちが暮らす波長」から外れて、黒い羽が舞う「別の波長」へとスライドしていくだけだ。
恐怖はあったが、不思議と安らぎもあった。
誰にも気づかれない孤独な個体でいるよりも、夜空の一部になってしまう方が、ずっと自然なことのように思えたからだ。
プシューッ。
バスが到着し、ドアが開いた。
運転手は誰もいないベンチを見て、「……チッ、いねえのか」と呟き、ドアを閉めて発車した。
ベンチには、もう誰の姿もなかった。
ただ、黒い羽が一枚、誰かが座っていた場所で、ゆらゆらと陽炎のように揺れていた。
(第十四話 完)
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◯◯の日常 ことん @katonon
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