第16話
三月の風はまだ冷たいが、その中には微かに湿った春の気配が混じり始めていた。
秋田市内の住宅街に、大型トラックのディーゼル音が低く響き、やがて遠ざかっていく。
その音が完全に聞こえなくなった時、
玄関のドアが閉まる音は、まるで巨大な金庫の扉が閉ざされたかのように重く、そして決定的な響きを持っていた。
悠木は、廊下の真ん中に立ち尽くし、ただその静寂を聞いていた。
離婚が成立した。
慰謝料の振込も確認され、財産分与の手続きも終わった。そして今日、水瀬市子という一人の女性が、彼女の私物と共にこの家から去った。
悠木はゆっくりとリビングへと足を運ぶ。
そこにある光景は、奇妙なバランスの悪さを露呈していた。
五年間、二人の人間が生活するために蓄積された家具や調度品。その半分が削ぎ落とされた空間は、まるで爆撃を受けた後の廃墟のように、あるいは半身をもがれた生物のように、痛々しい断面を晒している。
本棚の半分は空になり、飾り棚に置かれていた可愛らしい雑貨類は消え失せ、埃の輪郭だけが白く残っている。
テレビボードの横にあった観葉植物もなくなった。彼女が「緑があると落ち着くから」と言って買ってきたパキラだった。今思えば、彼女が落ち着きを求めていたのは、家庭という密室の閉塞感から逃れるためだったのかもしれない。
悠木はソファーに腰を下ろそうとして、やめた。
その布張りのソファーは、かつて二人で並んで映画を観たり、あるいは背中合わせに本を読んだりした場所だ。しかし今、そこには見えない境界線が引かれているように感じる。
彼はキッチンへと向かい、シンクの下からゴミ袋を取り出した。
四十五リットルの指定ゴミ袋。半透明のポリエチレン。それは、生活の残骸を社会から隠蔽するための死体袋のようなものだ。
作業は冷徹に行われなければならない。
悠木は食器棚を開けた。
市子が持っていかなかった、あるいは意図的に置いていった食器たちが並んでいる。結婚祝いにもらったペアのマグカップ。彼女の分だけがなくなっているわけではない。彼女は自分の過去を断ち切るように、あえてここに置いていったのだ。
北欧デザインの鮮やかな柄が、今の悠木には毒々しく映る。
彼は迷わずそれを鷲掴みにし、ゴミ袋へと放り込んだ。
ゴトリ、と鈍い音がする。陶器が割れる音はしなかったが、関係性が壊れる音はとっくに鳴り響いていた。
次にリビングへ戻り、クッションを手に取る。
彼女がテレビを見ながら抱きしめていた、柔らかい感触のクッション。そこには、微かに彼女が使っていた香水の匂いと、生活臭が染み付いている気がした。
記憶とは、視覚よりも嗅覚に強く結びつく。
プルーストのマドレーヌではないが、その匂いは一瞬にして、彼女がまだ「貞淑な妻」を演じていた頃の、欺瞞に満ちた平穏な日々をフラッシュバックさせる。
「……気持ち悪い」
悠木は生理的な嫌悪感を覚え、クッションをゴミ袋に押し込んだ。空気を抜くように体重をかけ、無理やりに袋の口を縛る。
それは単なる片付けではない。空間の浄化であり、悪魔祓いの儀式だった。
そして、寝室。
ダブルベッドが、部屋の中央に鎮座している。
かつては愛の巣であり、安らぎの象徴であった場所。しかし、GPSとICレコーダーによって暴かれた真実を知った今、それは単なる裏切りの温床に過ぎなかった。
自宅の前に車を停め、その車内で事を行っていた彼らだが、このベッドの上で市子がどのような夢を見ていたのか、悠木には知る由もない。ただ、彼女の肌が他の男の体液に塗れた後、平然とこのシーツの上に横たわっていたという事実だけで十分だった。
悠木はシーツを乱暴に剥ぎ取った。
マットレスカバーも、枕カバーも、全てだ。
布が裂けるような音を立てて、彼は寝具を剥いでいく。ジョルジュ・バタイユが語る「エロティシズム」は、死への衝動と不可分であるという。ならば、この寝室で行われていた夫婦の営みもまた、緩やかな死への行進だったのか。
剥き出しになったマットレスは、白く、寒々としていた。
それは解剖台のようにも見える。
愛という幻想が解体され、肉と骨だけになった現実がそこに転がっている。
三つのゴミ袋が満杯になり、玄関に積み上げられた。
これで終わりだ。
彼女の痕跡は、物理的にはこの家から排除されたはずだった。
悠木は大きく息を吐き、フローリングワイパーを手に取って、家具がなくなった床を掃除し始めた。
埃が舞う。
西日が差し込み、舞い上がる塵をキラキラと照らしている。
家具を動かした跡、壁際に溜まった灰色の綿埃。
ワイパーを滑らせていた手が、ふと止まった。
部屋の隅、カーテンの裾に隠れるようにして、小さな金属片が落ちていた。
悠木は膝をつき、それを拾い上げる。
何の変哲もない、黒いヘアピンだった。
飾りのついた高価なものではない。ドラッグストアで数十本入りで売っているような、実用品だ。
波打った形状の、細い鋼鉄。
指先で摘むと、冷たかった。
しかし、悠木の脳裏には、洗面台の鏡の前で髪をアップにする市子の後ろ姿が鮮明に浮かび上がった。
『ねえ、悠木。後ろ、変じゃない?』
『大丈夫だよ。綺麗だ』
そんな何気ない会話。
不倫が始まる前、あるいは始まっていた最中かもしれないが、確かにそこにあった日常の断片。
彼女は、このヘアピン一本で、乱れる髪を留め、良き妻としての仮面を繋ぎ止めていたのだ。
その仮面が剥がれ落ちた今、留め金を失ったヘアピンだけが、こうして遺棄されている。
悠木の手の中で、ヘアピンが微かに震えた。
いや、震えているのは彼自身の指先だった。
怒りはなかった。
憎しみも、復讐の快感も、もう燃え尽きて灰になっていた。
ナマハゲのように包丁を研ぎ、理論武装し、社会的制裁という鉄槌を下した。その過程で感じていたアドレナリンは、もう一滴も残っていない。
代わりに湧き上がってきたのは、足元が崩れ落ちるような感覚だった。
「ああ……」
口から漏れたのは、言葉にならない呼気だった。
これが、「喪失」か。
裏切られた怒りが嵐のように吹き荒れている間は、彼は立っていられた。怒りという支柱があったからだ。敵を倒すという目的が、彼を男として立たせていた。
しかし、嵐が去り、敵が去り、後に残されたのは、ただただ広い空洞だった。
悲しみ、という言葉では軽すぎる。
それはもっと即物的な、身体の一部を切除された後に訪れる「幻肢痛」のような痛みだった。
あるはずのものがない。
いるはずの人間がいない。
帰ってくるはずの足音が聞こえない。
悠木はヘアピンを握りしめた。
金属のエッジが掌に食い込む痛みが、彼が生きていることを辛うじて証明していた。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥に開いた風穴を、冷たい風がヒュウヒュウと通り抜けていくのを感じた。
サドは悪徳を肯定し、自然の法則とした。
ならば、この空虚もまた自然の一部なのか。
破壊の後に訪れる無。
市子という他者が去り、悠木という個体が再び世界に放り出された、絶対的な孤独。
悠木は立ち上がり、ヘアピンをゴミ箱ではなく、サイドボードの引き出しの奥に放り込んだ。
捨てるには、あまりにもその質量が重すぎた。
夜になると、家の中の静寂は質量を増し、悠木の鼓膜を圧迫し始めた。
ここにいてはいけない。
この空っぽの箱の中に一人でいると、壁から滲み出る過去の記憶に窒息させられる。
悠木は厚手のコートを羽織り、家を出た。
行き先は決まっていた。
あの日、全てが始まった場所。
タクシーを降りると、旭川沿いの風はまだ冬の鋭さを残していたが、雪はもう路肩に汚れた塊として残るのみだった。
ネオンが川面に揺れている。
数ヶ月前、この場所で市子が男と腕を組んでいるのを目撃した。あの瞬間、世界は反転し、バタイユ的な悪夢が現実を侵食し始めたのだ。
悠木は川面を見つめた。
水は黒く、底知れない。
あの時見た幻影はもういない。市子は実家へ戻り、男は左遷された。
ここにあるのは、ただ流れていくだけの物理的な水と、光の反射だけだ。
彼は看板のない雑居ビルへと足を進めた。
重厚な扉を開ける。
カラン、という控えめなベルの音と共に、オーセンティックなバー「ナ・ヴェール」の空気に包まれる。
店内の照明は極限まで落とされ、琥珀色のボトルたちが闇の中に浮かび上がっている。
先客は一人だけ、カウンターの端で静かにグラスを傾けていた。
悠木は、あの日と同じ席、カウンターの隅に腰を下ろした。
白髪のオーナーバーテンダーが、音もなく近づいてくる。
その所作には無駄がなく、洗練の極みがある。帝国ホテルで三十年、銀座で十二年。数多の人生の浮き沈みを見てきたその眼は、悠木の顔を一瞥しただけで、すべてを悟ったかのように穏やかだった。
「いらっしゃいませ、水瀬様」
マスターの声は、低く、温かい。
「……こんばんは」
悠木の声は少し掠れていた。喉が渇いていることに、今更ながら気づく。
「何か、お作りしましょうか」
メニューはない。客の心情に合わせて、酒を処方するのがこの店の流儀だ。
あの日の夜、悠木は「冬の夜にふさわしい、少し苦味のあるもの」を頼んだ。そして出されたのは梨のカクテルだった。甘く、苦く、冷たい予兆の味。
今、彼は何を求めているのか。
甘さは要らない。慰めのような甘美さは、今の虚無には似合わない。
かといって、単に強い酒で酩酊したいわけでもない。
「……強いものを。世界が少し、歪んで見えるくらいの」
悠木は抽象的な注文をした。
マスターは一瞬だけ眉を動かし、しかしすぐに微かに頷いた。
「かしこまりました」
マスターがバックバーから取り出したのは、独特の形状をしたボトルだった。
薄緑色の液体。
アブサン。
「緑の妖精」とも、「悪魔の酒」とも呼ばれる、かつて多くの芸術家を破滅させ、そして霊感を与えた薬草酒。
マスターはグラスにアブサンを注ぎ、その上に専用のスプーンを渡し、角砂糖を置いた。
そして、ウォータードリップで、一滴ずつ、ゆっくりと水を落としていく。
透明な緑色の液体が、水と混ざり合うことで白濁していく。
「ウーゾ効果」と呼ばれる白濁現象。
悠木はその様子をじっと見つめていた。
透明だった日常に、異物が混入し、濁っていく様。
それは、彼の結婚生活そのもののようでもあり、同時に、錬金術の過程のようにも見えた。
「どうぞ。アブサンです。ニガヨモギの香りが、少し癖になりますが」
差し出されたグラス。
白く濁った液体からは、強烈な薬草の香りが立ち上っている。アニス、フェンネル、そしてニガヨモギ。
悠木はグラスを口に運んだ。
一口含む。
強烈なアルコールのアタック。舌を焼くような刺激。その直後に広がる、独特の甘みと苦味。そして鼻に抜けるハーブの香り。
喉を通る熱さが、食道を通って胃袋へと落ちていく。その熱が、身体の中の空洞の輪郭を確かめるように広がった。
「……効きますね」
「ええ。度数が高いですから。ゆっくりと」
マスターはグラスを拭きながら、それ以上は何も言わない。
悠木は二口目を飲む。
頭の芯が少し痺れるような感覚。
バタイユは、個体の不連続性を嘆いた。人間は生まれた瞬間から死ぬまで、一人で完結した孤独な存在であると。
性行為とは、その不連続性を一時的に超越し、他者と溶け合おうとする必死の、そして暴力的な試みであると。
悠木は市子と溶け合おうとした。
しかし、それは幻想だった。肌を合わせても、心は決して重なっていなかった。彼女は別の男との融合を求め、悠木は拒絶された。
その結果が、この絶対的な断絶だ。
だが、不思議と今、その断絶が心地よかった。
家に一人でいた時の窒息するような孤独とは違う。
アブサンの熱が回るにつれて、悠木の思考はクリアになっていく。
誰にも縛られない。
誰の嘘も聞かなくていい。
誰の視線も気にしなくていい。
これは「見捨てられた孤独」ではない。
自らの手で関係を断ち切り、選び取った「清冽な孤独」だ。
サドが牢獄の中で、想像力のみを武器に世界を構築したように。
悠木もまた、この孤独という牢獄の中で、自由を手に入れたのだ。
グラスの中の白濁した液体が揺れる。
その揺らぎの中に、市子の顔が浮かんで消えた。泣き顔も、媚びるような笑顔も、もう遠い過去の映像のようだ。
「マスター」
「はい」
「このお酒、名前はあるんですか? カクテルとしての」
「いいえ。伝統的なアブサンの水割り(アブサン・ドリップ)です。ただ……」
マスターは少し悪戯っぽく微笑んだ。
「ある詩人は、これを『午後の死』と呼びました。ヘミングウェイが好んだ飲み方とは少し違いますが、退廃と再生の味がすると、昔のお客様が仰っていましたね」
「退廃と、再生……」
悠木は言葉を反芻する。
まさに今の自分に相応しい。
一度死に、腐敗し、そこから何か別のものへと変容しようとしている。
三口目を飲む頃には、胃の熱さは全身へと広がり、指先の冷たさは消えていた。
サイドボードの奥に隠したヘアピンの重みも、ここまでは追ってこない。
悠木は目を閉じた。
瞼の裏に広がるのは、もはや裏切りの現場の生々しい映像ではなく、真っ白な雪原だった。
何もかもを覆い隠し、音を吸い込み、春になれば溶けて海へと流れる雪。
秋田の長い冬が終わろうとしている。
そして、悠木の長い復讐の冬もまた、静かに終わりを告げようとしていた。
彼は深く息を吸い込み、アブサンの残り香と共に、肺の中に溜まっていた澱んだ空気をすべて吐き出した。
グラスが空になる。
カトリ、とコースターに置く音が、新しい物語の始まりを告げる最初のタイプライターの打鍵音のように、静かな店内に響いた。
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承認欲求モンスターの妻が裏垢で晒していたのはマイホームでの情事でした。浮気相手と一緒に慰謝料請求とデジタルタトゥーの地獄へ堕ちてもらいましょう。 ネムノキ @nemunoki7
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