第2話 歪む設計図
翌朝、高村は少し早めに現場事務所に到着した。夜遅くまであの古い日誌と設計図を眺めていたため、目の下に隈ができている。コーヒーを淹れながら、彼は昨日の電話のことを考えた。土地の古老の孫娘という女性。彼女は何を知っているのだろうか。
「おはようございます」
木下が事務所に入ってきた。彼の顔も疲れていて、山田の失踪によるストレスが窺えた。
「おはよう、木下さん。山田くんの件、どうなった?」
「警察は依然として手がかりなしと言っています。現場一帯を捜索しましたが、何も。まるで霧が消したように、です」
木下はため息をついた。
「監視カメラの記録は?」
「地下エリアのカメラは、彼が地下五階に入っていくところまで映っていました。しかし、その先の映像は、何かの障害でノイズだらけです。復元も不可能だと言われました」
高村はうなずいた。偶然にしては出来すぎている。
「今日、少し外出する。土地の歴史に詳しいという人に会ってくる」
「そうですか。何か手がかりが見つかると良いですね。こちらの現場は、私が監督します」
高村はコーヒーカップを置くと、設計図のコピーをカバンにしまった。あの記載されていない空間について、専門家の意見を聞けるかもしれない。
約束の場所は、現場から車で三十分ほど離れた喫茶店だった。古びた看板が風に揺れ、店内は薄暗いが、落ち着いた雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
店員に案内され、奥の席に通された。彼女はまだ来ていない。高村は設計図を広げ、再び確認した。間違いない、地下五階東側に、設計上ではコンクリートで埋まっているはずの空間が、白く空白として描かれている。いや、よく見ると、それは後から消されたような跡があった。
「高村さんですか?」
振り向くと、二十代前半の女性が立っていた。清楚な服装で、緊張した面持ちだった。
「はい、お約束の高村です。お越しいただきありがとうございます」
「西山美雪と申します。祖母が、あの土地のことを気にしていて」
彼女は席に着き、注文した紅茶が運ばれるのを待って、ゆっくりと話し始めた。
「祖母は、あの辺りがまだ工場になる前、子供の頃に住んでいたそうです。当時は小さな集落で、みんなで助け合って暮らしていたと言っていました」
「その土地に、何か特別な伝承や、祠のようなものはありましたか?」
美雪はうつむいた。
「はい。あります。祖母がよく話してくれたんです。集落の外れに、小さな祠があったと。でも、それは普通の神社とは違って、何かを封じるためのものだったそうです」
「何かを封じる?」
「はい。土地の悪い気とか、そういう類のものだと思っていました。でも、祖母は真剣に、『あそこには影従様が住んでいる』と言うんです」
「影従様?」
「ええ。姿のない、しかし人の形をした影のようなものだそうです。それは土地に根ざしていて、時に人を惑わせ、時には連れ去ると言われていました」
高村は古い日誌の記述を思い出した。影が実体を飲み込む、と。
「その祠は、どうなったのですか?」
「工場建設の際に取り壊されたそうです。祖母は、それ以来、土地に災いが起こると信じていました。実際、工場では事故が相次ぎ、ついには作業員の方が失踪なさったそうです」
美雪は紅茶のカップを両手で包み込むように持った。
「祖母は、あなたが新しいビルを建てていると聞いて、とても心配していました。あの祠の跡地に、再び大きな建物を建てるのは危険だと言って」
「祠の正確な位置はわかりますか?」
美雪は鞄から古い地図を取り出した。それは昭和初期の地形図で、現在のものとはかなり様子が違う。
「ここです。現在のノヴァ・タワーの、ほぼ中心にあたります」
彼女が指さした場所は、まさに設計図に空白として描かれている部分、地下五階東側の真上だった。
高村は息を呑んだ。偶然の一致ではない。何かが意図的に働いている。
「美雪さん、これは非常に重要な情報です。ありがとうございます」
「高村さん、お願いです。どうか工事を止めてください。祖母は、影従様がもう目を覚ましていると言っています。これ以上刺激すると、もっと大きな災いが起きると」
高村は複雑な表情をした。
「私個人の判断ではどうすることもできません。上層部を説得するには、もっと確かな証拠が必要です」
美雪はうなずき、小さな包みを取り出した。
「これは祖母から預かりました。祠の跡地で拾った石だそうです。何か役に立つかもしれません」
中には、黒く輝く小さな石が入っていた。触ると、ひんやりとしていた。
高村は感謝してそれを受け取り、別れを告げた。
現場に戻る車中、彼は考えた。伝承と設計図の一致。失踪事件。不可解な現象。全てがつながっている。しかし、それをどう証明すればいいのか。
事務所に着くと、木下が慌てて走り寄ってきた。
「高村さん、大変です。設計図が、設計図がおかしいんです」
「落ち着いて、どうした?」
木下は事務所のデスクの上に広げられた最新の設計図を指さした。
「見てください。地下五階の壁の厚さが、昨日まで三メートルだったのに、今日は二メートル八十センチになっているんです」
「書き間違いだろう。バージョンが違うのか?」
「いえ、同じバージョンです。しかも、これだけじゃありません」
木下は別の書類を取り出した。構造計算書だ。
「コンクリートの強度基準も変わっています。昨日まで許容されていた数値が、今日は基準未満になっている。まるで、建物自体が弱体化しているかのようです」
高村は設計図をじっと見つめた。確かに、細かい数値が変わっている。しかも、変更履歴には何も記録されていない。
「コンピューターのファイルを確認したか?」
「はい。ですが、変更された形跡はありません。元からこのデータだったと言うんです」
高村はカバンからコピーした設計図を取り出し、比較した。コピーには、まだ三メートルと書かれている。現物の設計図だけが変化している。
「こんな馬鹿なことがあるか? 物理的な書類が変化するなんて」
「ですが、現実です。他にもおかしい点があります」
木下は現場の写真を何枚か並べた。
「昨日撮影した地下五階の写真です。見てください、壁の位置が微妙にずれている。設計図の変化と一致しています」
高村は目を疑った。確かに、コンクリートの壁が、設計図通りではなく、あたかも何かによって押しのけられているように歪んでいた。
「これはひどい。基礎構造に影響が出かねない」
その時、高村の携帯が鳴った。ゼネコンの上層部、田中本部長だった。
「もしもし、高村です」
「高村君、どうなっている? 工事の遅延について説明が必要だ」
「本部長、実は重大な問題が発覚しまして。設計図に不可解な不一致が生じていまして」
「何だって? 説明してくれ」
高村は状況を簡潔に伝えた。古い日誌、伝承、そして変化する設計図について。
電話の向こうでしばし沈黙があった。
「高村君、君は疲れているんじゃないか? 設計図が変化するなんて、現実的にありえない。おそらくは、書類の管理ミスか、あるいは君のストレスによる錯覚だ」
「ですが、写真にも写っています。木下主任も確認しています」
「それなら尚更だ。複数人で同じ錯覚を共有しているのかもしれない。私は明日、専門の調査チームを派遣する。それまで工事を中断し、君は休養を取った方がいい」
「しかし、山田の失踪は」
「警察に任せよう。我々は建設会社だ。幽霊話をしている場合じゃない」
電話は切れた。高村は無力感に襲われた。誰も信じてくれない。いや、信じたくないのだ。
「どうされましたか?」木下が心配そうに尋ねた。
「本部長は、我々が錯覚していると思っている。調査チームが来るまで、工事中断だ」
「それは困ります。現場はどんどんおかしくなっています。今止めなければ、もっと大きな事故が」
その言葉と同時に、外で大きな音がした。金属が激しくぶつかる音だ。
二人は外に飛び出した。地下から上がってきた作業員たちが、騒然となっている。
「どうした?」高村が声をかけた。
「監督、地下五階で、また変な音がして。それで、鉄骨の接合部が外れかけたんです。危うく大事になるところでした」
作業員の一人が震えながら報告した。
「けが人は?」
「はいはいいませんが、みんな怖がっています。もう地下には降りたくないと言う者も」
高村は木下を見た。
「現場の安全を最優先する。全員に地上作業のみを指示してくれ。私が直接、地下を確認する」
「でも、危険です」
「構わない。本部長に報告するには、もっと確かな証拠が必要なんだ」
高村はヘルメットを装着し、単身地下へと向かった。懐中電灯と、美雪からもらった石を持って。
地下五階に降り立つと、空気が重く感じられた。通常の現場の臭いではなく、腐ったような、甘ったるい臭いが漂っている。
コンクリート打設が途中だった床は、所々でひび割れていた。それは施工不良とは思えない、不自然な割れ方だった。
「誰かいるか?」
呼びかけても返事はない。しかし、確かに誰かに見られている気がする。
彼は設計図の空白部分、かつて祠があったとされる場所に向かった。途中、壁に奇妙な影が映っているのに気づいた。それは人間の形をしているが、細長く歪んでいて、あたかも壁から這い出してくるようだった。
「気のせいか」
振り向くと、何もいない。
目的地に着くと、そこはまだコンクリートで覆われていなかった。地面がむき出しで、あの古い日誌が見つかった穴が残っている。
彼は懐中電灯で周囲を照らした。すると、穴の傍らに、何かが落ちているのに気づいた。それは、現代の工具ではなく、錆びた古い鑿だった。
「これは、もしかして」
古い日誌には、工具が行方不明になると書かれていた。これは当時のものかもしれない。
その時、背後で足音がした。高村は振り向いた。
「木下さんか?」
誰もいない。しかし、足音は確かに聞こえた。
「山田か? もし君なら、返事をしてくれ」
応えはない。代わりに、かすかな囁き声が聞こえる。
「早く、帰れ」
「誰だ! 正体を現せ!」
高村は叫んだ。すると、囁き声は笑い声に変わった。それは不気味で、人間とは思えない声だった。
彼は美雪からもらった石を取り出した。石は冷たかったが、なぜか安心感を与えてくれる。
すると、突然、周囲の空気が動いた。影が蠢き始める。
「これは、幻覚か?」
高村は目をこすった。しかし、影は消えない。むしろ、はっきりと形を成し始める。それは人間のシルエットだが、細部がぼやけて、あたかも墨を流したような姿だ。
影はゆっくりと近づいてくる。高村は後ずさりした。
「触れるな」
影は腕を伸ばし、高村の方に向かってきた。彼は咄嗟に石を掲げた。
すると、影は止まり、ゆっくりと後退した。石が何らかの効果を持っているようだ。
「お前たちは、影従様なのか?」
影は答えない。ただ、じっと高村を見つめている。複数の影が現れ、彼を取り囲み始めた。
高村は石を握りしめ、ゆっくりと出口の方へ歩き出した。影は道を開けるが、それでもプレッシャーを感じさせる。
「我々は、ここを離れるつもりはない。このビルを完成させる」
影の一つが、不自然な動きで首を傾げた。そして、かすかな声で言った。
「歪みが、完成する」
「歪み? 何の歪みだ?」
「設計図の、歪み。我々の、歪み。全てが、一つになる時」
影はゆっくりと消えていった。最後に、はっきりとした言葉が聞こえた。
「三人目が、捧げられる」
高村は急いで地上に戻った。心臓は激しく鼓動し、冷や汗が流れている。
事務所に戻ると、木下が待ち構えていた。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「木下さん、我々は大きな間違いを犯している。このプロジェクトは、単なる建設じゃない。何か別の目的がある」
「どういうことです?」
高村は地下で見たことを話した。影と、その言葉について。
木下は真剣な表情で聞いていた。
「三人目が捧げられる、ですか。それは、もしかして」
その時、事務所の電話がけたたましく鳴った。高村が受話器を取る。
「もしもし」
「高村監督ですか? 私は警察の者ですが、山田さんの件で連絡しました」
「何か見つかりましたか?」
「はい、ですが、良い知らせではありません。山田さんの遺体を発見しました」
高村は絶句した。
「どこで?」
「現場から五キロ離れた川で発見されました。しかし、不可解な点が多数あります」
「どういう?」
「第一に、死後経過時間が、失踪からわずか数時間と推定されます。しかし、その間、現場周辺のカメラには一切映っていません。第二に、遺体の状態が、通常の水死とは明らかに異なります」
「どのように?」
「遺体は、まるで何かに強く圧縮されたように、全身の骨が折れていました。しかし、外傷はほとんどありません。そして、最も不可解なのは」
警官は言葉を詰まらせた。
「遺体の衣服から、このメモが見つかりました」
「メモ?」
「はい。『設計図は歪む、二人目』と書かれていました」
高村は受話器を握りしめた。二人目。ということは、最初の犠牲者は、数十年前の失踪者か。そして、三人目がこれから捧げられるというのか。
電話を切ると、高村は木下に内容を伝えた。
「これはもう、偶然じゃない。意図的なものだ」
「しかし、誰が? 何が?」
高村は古い日誌を手に取った。
「この日誌の最後のページが破られている。そこに答えがあるかもしれない」
「ですが、もうありませんよね?」
「直接的な記述はない。だが、ヒントはある」
高村は日誌の表紙を仔細に観察した。そして、分厚い表紙の内側に、何かが挟まっているのに気づいた。
「これは」
それは、薄い羊皮紙のようなものだった。開くと、そこには現在の設計図とは似て非なる、歪んだ建物の図面が描かれていた。建物は生き物のようにうねり、ところどころに人間らしき影が描かれている。
「これは、ノヴァ・タワーの設計図ですか?」
「そうだ。しかし、歪められた」
図面の隅に、小さく記された文字があった。
「影従の儀、三つの犠牲をもって完了す。礎は血で固められ、歪みは実体を帯びる」
高村はため息をついた。
「我々は、単なる建設作業員じゃない。儀式の実行犯なんだ」
その夜、高村は自宅で設計図を広げ、考え込んだ。プロジェクトを止めるには、もはや通常の手段では無理だ。上層部の誰かが、この儀式について知っているかもしれない。いや、むしろ推進しているのか?
彼はパソコンを開き、ノヴァ・タワープロジェクトの関係者を調べ始めた。出資企業、設計者、そしてゼネコンの上層部。
すると、一つ気になる点を見つけた。プロジェクトの発案者であり、最大の出資者である株式会社クロノスの社長、黒野巌という人物が、オカルト趣味で有名なのだ。彼は過去に、いくつかの怪しい宗教団体との関わりが報じられていた。
「もしかして、彼が?」
その時、高村の携帯にメールが届いた。差出人不明だった。
内容は短い。
「好奇心は猫を殺す。次はお前の番だ、監督さん」
高村は背筋に寒気を走らせた。彼はカーテンの隙間から外を見た。道路の向こうに、誰かが立っている。遠すぎて顔は見えないが、あの影のようなシルエットだ。
影はゆっくりと手を挙げ、高村を指さした。
そして、またしてもかすかな囁き声が聞こえる。
「三人目が、捧げられる」
高村はカーテンを閉めた。もう後戻りはできない。彼はこの謎を解き、プロジェクトを止めなければならない。さもなければ、次の犠牲者は自分か、あるいは無実の作業員だ。
彼はデスクに伏せ、古い日誌と歪んだ設計図を見比べた。過去と現在が交錯する中、真実はどこにあるのか。
そして、最後のページの警告が頭をよぎる。
「設計図は歪み、影は実体を飲み込む」
それは単なる比喩ではなく、文字通りの意味だった。影従様が実体化し、この世に現れようとしている。それを可能にするのが、ノヴァ・タワーという歪んだ設計図なのだ。
高村は決意した。明日、直接黒野社長に会いに行こう。そして、全てをぶつけよう。
しかし、それがどれほど危険な行為か、彼はまだ知らない。
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