現場監督の手記に残る最期の警告

@tamacco

第1話 礎石の下の記憶

東京の西側、かつては工場地帯として栄えたこのエリアは、今では再開発の真っ只中にあった。巨大なクレーンが林立し、鉄骨が組み上がる音が朝から晩まで響き渡る。ノヴァ・タワー建設現場は、高さ二百五十メートル、地上五十階建てのオフィスと商業施設を兼ね備えた複合ビルを建設するプロジェクトだった。


現場監督の高村悟は、朝六時に現場事務所に足を踏み入れた。コーヒーメーカーから立ち上る湯気が、まだ冷え切った室内の空気をわずかに温めている。彼はコートをハンガーに掛けると、デスクに積まれた書類に目を通し始めた。今日は基礎工事の最終段階、地下五階部分のコンクリート打設を控えている。順調にいけば、来週からはいよいよ地上部分の建設に着手できる。


「おはようございます、高村さん」


現場主任の木下が、ドアを開けて入ってきた。木下は五十歳を過ぎているが、長年の現場経験で培った勘は鋭く、高村にとってはなくてはならない存在だ。


「おはよう、木下さん。今日の打設の準備はどうだ?」


「はい、問題ありません。ただ、一つ気になることがあって」


木下は眉をひそめた。


「昨夜、地下五階の検査に行ったんですが、なんだか変な音がするんです。コンコンというか、カチカチというか、そんな音がどこからか聞こえてきて」


「配管の音じゃないか? あるいは鉄骨の熱膨張とか」


「いや、そういうのとはちょっと違うんです。どちらかというと、誰かが壁を叩いているような、そんな音でした」


高村は軽く笑った。


「気のせいだろう。この時期は疲れがたまっているし、現場の音は錯覚を起こしやすいからな」


「そうかもしれませんが」


木下は納得いかない様子だったが、それ以上は言わずに書類の確認を始めた。


午前八時、高村と木下はヘルメットを装着し、現場地下へと降りていった。エレベーターが地下五階に到着すると、冷たく湿った空気が肌にまとわりつく。コンクリートの匂いと、わずかなカビの匂いが混ざり合った、独特の臭いが漂っている。


作業員たちは、コンクリートポンプ車の準備を着々と進めていた。大きな機械の音が響く中、高村は設計図を手に、最後の確認を行った。


「監督、ちょっと来てください」


若い作業員の一人、山田が声をかけてきた。彼は地面を指さしている。


「ここ、なんだか変です。地面の一部が陥没しているみたいで」


高村が近づくと、確かにコンクリートで覆われる予定だった部分が、わずかに窪んでいた。直径三十センチほどの小さな穴が開いている。


「なんだこれは。基礎工事の段階でこんな穴が開いているなんて、検査で見落としたのか?」


木下が屈み込み、穴の中を懐中電灯で照らした。


「深そうだな。何か落ちているかもしれない。工具かなにかが埋まっているのか?」


高村は作業員に指示した。


「確認してみろ。慎重に掘り起こしてくれ。コンクリート打設までに埋め戻さないと」


作業員たちがシャベルを使って穴を広げ始めた。しばらくして、シャベルが何か硬いものに当たった音がした。


「監督、何かあります」


作業員が手で土を掻き分けると、そこには革製のカバンが現れた。それは黒ずんでいて、所々にカビが生え、長い間地中に埋もれていたことを物語っていた。


「なんだ、ただの古いカバンか。誰かが忘れていったものだろう」


高村が言うと、木下が首を傾げた。


「しかし、こんな深さに埋まっているなんておかしいですよ。意図的に隠したのではないですか?」


カバンは簡単に開いた。中には、一冊のノートと、いくつかの書類が入っていた。ノートの表紙には、「現場日誌」と書かれており、日付は昭和五十年と記されている。


「昭和五十年? 随分と古いな。この土地には昔、工場があったはずだ。その時のものか?」


高村はノートを手に取った。ページは黄ばみ、所々にシミがついていた。開くと、達筆な文字でびっしりと書き込まれている。


「これは当時の現場監督の日誌みたいだな」


木下が覗き込みながら言った。


「読んでみますか?」


「そうだな、ちょっとだけ見てみよう。何か参考になることが書いてあるかもしれない」


高村はノートを事務所に持ち帰り、昼休みに読み始めた。


日誌の最初のページには、以下のように記されていた。


「昭和五十年四月十日。晴れ。今日から、西山工場新棟建設工事が始まった。私は現場監督として、このプロジェクトを任されることとなった。土地の地盤は強固で、順調に工事が進むことを願う」


高村はページをめくった。工事の進捗が細かく記録されており、特に問題はなさそうだった。しかし、五月頃から、少しずつ不可解な記述が増えていった。


「五月十五日。曇り。今日、作業員の一人が体調不良を訴えた。頭痛とめまいだという。現場の騒音のせいかと思い、休憩を取らせた」


「五月二十日。雨。地下作業中、工具が次々と行方不明になる。誰かがいたずらをしているのかもしれない」


「六月五日。晴れ。夜勤の作業員から、現場で子供の声が聞こえるという報告があった。確認したが、誰もいなかった。錯覚だろう」


高村は眉をひそめた。これらの記述は、今の現場で起きている小さなトラブルに似ている。木下が言っていた変な音や、工具の紛失、作業員の体調不良だ。


「ただの偶然か?」


彼はさらにページをめくった。


日誌の後半になるにつれて、記述はより不気味になっていった。


「七月十日。曇り。基礎工事中、地下三メートル地点で異様なものを発見した。石でできた小さな祠のようなものだ。地鎮祭の際には何も報告されていない。何だろうか?」


「七月十五日。雨。作業員三人が同時に体調不良を訴えた。皆、同じ症状だ。頭痛、めまい、そして幻聴がすると言う。医者に診せたが、原因はわからない」


「七月二十日。晴れ。私は独自に調査を始めた。土地の古老から、この辺りには昔、小さな祠があったと聞く。しかし、戦後の開発で取り壊されたらしい。何か因縁があるのだろうか?」


高村は読み進めるうちに、少しずつ胸騒ぎがしてきた。この記述は、今の現場で起きていることとあまりにも似ている。同じ土地で、数十年前に同じような問題が起きていたのだ。


「八月五日。雷雨。ついに重大な事故が起きた。作業員一名が行方不明になった。昨夜の夜勤中に消えたらしい。警察も捜索したが、痕跡は何もない。現場はパニック状態だ」


「八月十日。晴れ。失踪した作業員はまだ見つからない。工事は中断せざるを得ない。上層部は工事再開を迫っているが、私はためらっている。何かがおかしい」


日誌はここで、突然途切れていた。最後の数ページは破り取られたようで、ないのだ。しかし、最終ページの裏表紙の内側に、小さく赤い文字で何かが書かれていた。インクではなく、何か別のもので書かれたようだ。それはかすれて読みにくかったが、何とか解読できた。


「基礎の下に眠るものに手を出すな。設計図は歪み、影は実体を飲み込む」


高村はその言葉を読んで、背筋に冷たいものが走るのを感じた。これは単なる日誌ではない。何かからの警告なのか?


彼は窓の外を見た。夕方の光が差し込み、現場の鉄骨が長い影を落としている。何かがおかしい。このプロジェクトには、設計図にない何かが潜んでいる。


その時、事務所のドアが激しくノックされた。


「監督、大変です!」


木下が息を切らして飛び込んできた。


「何だ? 落ち着いて話せ」


「山田くんが、いないんです! 昨日から姿が見えなくて、携帯にも出ない。家族にも連絡が取れないと言われました」


高村は手に持っていた古い日誌を見つめた。昭和五十年の夏、一人の作業員が失踪した。そして今、また同じことが起きた。


「すぐに警察に連絡しろ。そして、現場の作業を一時中断させてくれ」


「ですが、上層部にはどう説明すれば?」


「今はそれどころじゃない。まずは山田を探すんだ」


木下が去った後、高村は再び日誌を開いた。最後の警告の言葉が、頭から離れない。


「基礎の下に眠るものに手を出すな」


彼は考えた。あの穴から見つかったこの日誌は、偶然なのか? それとも、何かが意図的に私たちに見せているのか?


夜、高村は一人で現場に残った。事務所の明かりだけが点いている。彼は日誌をめくりながら、過去と現在の不可思議な一致について考え込んだ。


突然、電話が鳴った。事務所の内線だ。


「もしもし、高村です」


受話器の向こうからは、誰かの息遣いが聞こえるだけだった。


「誰だ? もしもし?」


すると、かすれた声が聞こえた。


「早く、止めてくれ」


「誰ですか? 何を止めろというんだ?」


「工事を、止めてくれ。さもないと、また同じことが起きる」


電話は切れた。高村は受話器を持ったまま、しばらく動けなかった。声は聞き覚えがない。しかし、何故か懐かしいような、不気味な感覚があった。


彼はデスクに伏せていた日誌を見た。ページが風でめくれ、ある一節が目に留まった。


「私は彼らに警告したが、誰も聞き入れなかった。今、私はこの日誌を残す。後世の者よ、もしこれを見つけたなら、すぐにこの地から離れよ。さもないと、呪いが解かれ、影が這い出してくる」


高村は思わず目をこすった。さっきまでこのページはなかったはずだ。気のせいか? 疲れているのか?


彼はコーヒーカップを手に取り、一口飲もうとした。その時、窓の外に何かが動く気配を感じた。振り返ると、誰かの影が一瞬、通り過ぎるのが見えた。


「木下さんか?」


返事はない。高村は立ち上がり、ドアを開けて外を見た。誰もいない。しかし、地面に足跡が残っていた。それは泥の足跡で、事務所の方に向かっている。


彼は懐中電灯を持ち、足跡をたどっていった。足跡は現場の地下入口で消えていた。地下は暗く、不気味な静けさに包まれている。


「誰かいるのか?」


呼びかけても返事はない。高村は一呼吸置くと、地下へと降りていった。懐中電灯の光が、コンクリートの壁を照らし出す。何もない。ただ、冷たい空気が漂っているだけだ。


彼が引き返そうとした時、遠くからコンコンという音が聞こえた。木下が言っていた音だ。それは確かに、誰かが壁を叩いている音のように聞こえる。


音は次第に近づいてくる。高村は光を音の方向に向けた。しかし、何も見えない。


「おい、誰だ!」


音は突然止んだ。そして、かすかな笑い声のようなものが聞こえた気がした。


高村は急いで地上に戻った。心臓が激しく鼓動している。何かがおかしい。この現場には、単なる事故や失踪では済まない何かが潜んでいる。


事務所に戻ると、彼はすぐにノートパソコンを開いた。この土地の歴史について調べ始めた。かつてここにあった工場、それ以前の姿。そして、あの古い日誌に書かれた祠について。


検索を進めるうちに、一つ気になる記事を見つけた。これは数十年前の新聞記事のスクラップだった。見出しには「工場建設現場で作業員失踪 怪奇現象の噂も」と書かれている。日付は昭和五十年八月だ。まさに、あの日誌の記述と一致する。


記事には、失踪した作業員の名前や、当時の現場監督の名前は記載されていなかった。しかし、工事はその後中止され、土地は長らく放置されていたと書かれている。


高村は考えた。もしあの日誌の内容が本当なら、今起きていることも無視できない。しかし、プロジェクトを中止するとなれば、莫大な損害が出る。上層部が簡単に同意するはずがない。


彼はデスクの引き出しから、ノヴァ・タワーの設計図を取り出した。基礎部分を詳細に確認する。すると、一箇所、気になる点があった。地下五階の東側に、設計図に記載されていない小さな空間が示されていた。それは意図的なのか、それとも単なるミスか?


その時、携帯電話が鳴った。見知らぬ番号だ。


「もしもし」


「高村さんですか?」


声は若い女性だった。


「はい、そうですけど」


「私は、かつてこの土地に住んでいた者の孫です。祖母から言われて連絡しました。あなたが、あの現場の監督さんだと聞いて」


高村は身を乗り出した。


「何かご存じですか?」


「祖母が、あなたに伝えたいことがあるそうです。明日、会えませんか?」


「はい、ぜひお会いしたいです」


彼女は場所と時間を伝えた。高村はメモを取ると、電話を切った。


もしかしたら、この女性が何か手がかりを知っているのかもしれない。彼は期待に胸を膨らませた。


しかし、同時に不安も感じていた。あの古い日誌の最後の警告が頭から離れない。


「設計図は歪み、影は実体を飲み込む」


彼は窓の外を見つめた。ノヴァ・タワーの鉄骨が、月明かりに浮かび上がっている。それは確かに、歪んだ設計図のように見えなくもなかった。


高村は覚悟を決めた。真実を突き止めるためには、危険を冒すことも厭わない。だが、その代償がどれほど大きいものか、彼はまだ知らないのだった。

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