第3話 影の住人

黒野巌に会う決意をしてから、高村は一夜を徹した。ほとんど眠れなかった。目を閉じると、歪んだ設計図と、地下で見た影の群れが浮かんでくる。あの不気味な囁き声が耳について離れない。


「三人目が、捧げられる」


朝、鏡を見ると、自分の顔が別人のように憔悴していた。しかし、彼の決意は固い。このままでは、さらに多くの犠牲者が出る。山田の無残な死を無駄にはできない。


現場事務所に着くと、木下が待ち構えていた。彼もまた、寝不足の様子だ。


「高村さん、昨夜からまた変な報告が。作業員の何人かが、夜中に現場で人影を見たと言っています。しかし、警備員が確認したところ、誰もいなかった」


「みんな神経質になっているんだろう」


「いえ、それだけじゃありません。今朝、コンクリートのサンプルを検査したら、異常な数値が出ました。強度的には問題ないのですが、組成が通常のコンクリートとは明らかに異なる。まるで、何か別の物質が混入しているようです」


高村はうなずいた。


「木下さん、今日は社に戻る。黒野社長に直接会うんだ」


「クロノスの? しかし、あの方は簡単に会ってはくれませんよ」


「何としてでも会わなければ。このプロジェクトの真相を知っているかもしれない」


高村はカバンを手に、車に向かった。その時、彼は美雪からもらった石を忘れずに持っていった。何故か、それがお守りのように感じられた。


クロノス本社は、都心の高層ビルの最上階にあった。窓からは東京の街が一望できる、権力の座に相応しい場所だ。


受付でアポイントのない訪問であることを伝えると、案の定、断られた。


「社長は多忙でして、突然のご面会はお受けできません」


「どうしてもお願いしたい。ノヴァ・タワープロジェクトに関する重大な問題です」


受付の女性は困惑した表情を浮かべたが、内線で誰かに連絡した。


しばらくして、エレベーターから一人の男が降りてきた。四十代前半の、鋭い目をした男だ。


「私は黒野社長の秘書、市村と申します。ご用件をお聞きします」


高村は状況を簡潔に説明した。設計図の不一致、不可解な事故、そして影の存在について。


市村は無表情に聞いていた。


「興味深いお話です。しかし、それらはすべて科学的に説明可能な現象ではないでしょうか。現場のストレスが、集合幻覚を生んでいるのかもしれません」


「ですが、実際に死者まで出ています」


「山田さんの件は、警察も事故と判断されました。遺体の状態は確かに不可解ですが、我々建設会社が関与できる範疇を超えています」


高村は腹が立った。彼らは真相を隠そうとしているのか、それとも本当に信じていないのか。


「どうか黒野社長にお会いください。たった五分で結構です」


市村はしばらく考え込んだ後、うなずいた。


「では、社長のスケジュールを調整します。午後二時、三十分だけ時間を空けましょう」


高村は感謝して、ビルを後にした。時間までまだ三時間ある。彼は近くの公園で腰を下ろし、考えをまとめた。


携帯が鳴った。美雪からのメールだった。


「お会いできて光栄でした。祖母が、もう一つ伝えたいことがあるそうです。影従様は、もともとこの土地の守護神だったが、工場建設で土地を汚されたため、怨みを持つようになったと。祠には、影従様を鎮めるための鏡が納められていたが、壊されたまま行方不明だそうです。その鏡が見つかれば、影従様を再び封じられるかもしれません」


鏡? 高村は古い日誌を思い出した。確かに、祠の内部についての記述はなかった。もし鏡が存在するなら、それはどこに?


彼は返信を打った。


「情報ありがとうございます。鏡について、もっと詳しく教えてください」


すぐに返事が来た。


「祖母も詳しくは知らないそうです。ただ、鏡の裏には三つの紋様が刻まれているとだけ。それは、月、星、太陽を表しているそうです」


高村はその情報をメモした。何かの手がかりになるかもしれない。


午後二時、高村は再びクロノス本社を訪れた。市村秘書に案内され、社長室へ通された。


社長室は想像以上に広く、壁一面が窓になっていた。しかし、ブラインドが降ろされ、室内は薄暗かった。空気が重く、線香のような匂いが漂っている。


「ようこそ、高村監督」


奥から、低く響く声が聞こえた。黒野巌は大きなデスクの向こうに座っていた。六十歳前後だが、その目は異様に輝き、年齢以上の威圧感があった。


「お時間をいただきありがとうございます」


「構わん。ノヴァ・タワーは私の夢のプロジェクトだ。何か問題があると聞いてな」


高村は覚悟を決めて、全てを話し始めた。古い日誌、変化する設計図、影の存在、そして山田の死。


黒野は終始無表情で聞いていた。時折、細く長い指でデスクを叩くだけだ。


「面白い」黒野は最後にそう言った。「君はオカルト話を信じるのか?」


「信じたくはありません。しかし、説明のつかない現象が多すぎます」


「現象は常に存在する。我々が理解できないだけだ。ノヴァ・タワーは単なるビルではない。未来の都市のモデルとなるべき建造物だ」


「しかし、設計図が変化するなど、通常では考えられません」


黒野はゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩いていった。ブラインドの隙間から街を見下ろしながら言った。


「この街は常に変化している。設計図など、所詮は紙上の理想に過ぎない。真の建築は、現場でこそ完成するものだ」


「それはわかっています。ですが、犠牲者が出ている以上」


「犠牲?」黒野は振り返り、鋭い目つきで高村を見た。「進歩には常に犠牲がつきものだ。重要なのは、その犠牲が未来にとって意味があるかどうかだ」


高村は背筋が凍る思いがした。黒野は犠牲者が出ることを承知しているのか?


「社長は、影従様のことをご存じですか?」


黒野の目がわずかに揺れた。


「古老の迷信だ。気にするに足らない」


「しかし、あの土地の伝承では」


「伝承など所詮は過去の話だ!」黒野の声が突然大きくなった。「我々は未来を創っているのだ!」


その時、高村は気づいた。社長室の壁に、奇妙な絵が掛かっている。それは抽象画のように見えるが、よく見ると、歪んだ塔と、それを取り巻く無数の影が描かれている。まさに、彼が古い日誌で見た図面と同じだ。


「あの絵は?」


黒野は冷たく笑った。


「私のコレクションだ。気に入ったか?」


「どうして、あのような絵を?」


「芸術とは、現実を超越したものを表現するものだ。君には理解できまい」


高村は確信した。黒野は何かを知っている。いや、むしろ積極的に関与している。


「社長、一つお願いがあります。工事を一時停止させてください。徹底的な調査が必要です」


「不可能だ」黒野の答えは冷たかった。「プロジェクトは予定通り進める。もし君が務められないなら、代わりを用意しよう」


「それは困ります。現場の監督としての責任があります」


「ならば、変な幻想に囚われず、仕事に集中してくれ」


黒野はデスクの呼び鈴を押した。市村秘書がすぐに現れた。


「高村さんを出口まで案内してくれ」


追い出されるようにして社長室を出ると、高村は無力感に襲われた。黒野は確信犯だった。彼は何かを企んでいる。


エレベーターを降りる途中、市村が小声で言った。


「高村さん、忠告します。これ以上追求するのはお止めになった方がいい」


「なぜですか? 真実を知っているんでしょう?」


市村はエレベーターの表示盤を見つめたまま、無表情で答えた。


「社長の意志は絶対です。逆らう者は、皆不幸になります」


「脅しているのか?」


「単なる事実の提示です」


エレベーターが一階に着いた。市村は去り際に、最後に一言付け加えた。


「山田さんも、好奇心が強すぎました」


高村はその言葉の意味を考え、立ち尽くした。山田は何かを知っていたのか? あるいは、知りすぎたのか?


現場に戻る道中、高村は考え続けた。黒野社長は確かに怪しい。しかし、直接的な証拠は何もない。どうすればいいのか?


現場事務所に着くと、木下が慌てて走り寄ってきた。


「高村さん、大変です。また一人、作業員がいなくなりました」


「何だって? 誰が?」


「鈴木です。地下での配管作業中に、突然消えたと言います」


「詳しく話してくれ」


木下の説明によると、鈴木は他の作業員二人と地下五階で作業中、トイレに行くと言って席を外した。しかし、三十分経っても戻らない。探しても見つからず、携帯電話も通じない。


「監視カメラは?」


「地下五階のカメラは、またしてもノイズで使えませんでした」


高村は頭を抱えた。三人目だ。影の囁きが現実になろうとしている。


「すぐに警察に連絡だ。そして、現場の全作業員を地上に上げろ」


「しかし、上層部からの指示では」


「今は上層部の指示より人命が大事だ! 全ての責任は私が取る」


高村は単身、地下へ向かうことにした。懐中電灯と、美雪からもらった石を持って。


地下五階は、前回よりもさらに不気味な雰囲気に包まれていた。空気が濃く、呼吸がしづらい。どこからか、かすかに鈴木の名前を呼ぶ声が聞こえるような気がした。


「鈴木! いるか?」


呼びかけても返事はない。しかし、確かに誰かの気配を感じる。


彼は配管作業をしていた区域に向かった。工具が散乱し、作業の途中で中断されたことがわかる。


その時、遠くで物音がした。コンクリートの塊が転がる音のようだ。


「誰だ?」


高村は音の方向に走った。曲がり角を曲がると、そこには鈴木のヘルメットが落ちていた。しかし、本人の姿はない。


「鈴木! 返事をしろ!」


突然、周囲の温度が急激に下がった。息が白くなる。影が蠢き始める。


「また来たか」


高村は石を握りしめた。影は前回よりもはっきりと形を成している。細部までが見えるようだ。人間のようだが、目が虚無のように空洞で、口がない。


一つの影がゆっくりと近づいてくる。高村は石を掲げた。


「私に触れるな!」


影は止まったが、後退しない。むし、周囲の影が次々と現れ、高村を取り囲む。


「鈴木を返せ」


影の一つが不自然に首を傾げた。


「三人目、捧げられる」


「何のために?」


「歪み、完成するため」


「歪みとは何だ?」


影は腕を上げ、周囲の壁を指さした。壁がゆっくりと波打っている。コンクリートが液体のように流動し始める。


「現実が、再構築される」


高村は目を疑った。物理法則が無効になっている。これは幻覚ではない。現実に起きている現象だ。


「止めろ!」


影は笑った。口がないのに、笑い声が聞こえる。


「もう、遅い。儀式は最終段階に入った」


突然、影の群れが道を開けた。その先に、一人の男が立っている。鈴木だ。しかし、彼の様子がおかしい。目が虚ろで、体が微かに震えている。


「鈴木! 大丈夫か?」


鈴木はゆっくりと顔を上げた。その目は完全に黒く染まり、白眼がない。


「監督、見えてます」鈴木の声は二重に重なっている。彼自身の声と、何か別のものの声だ。「全てがつながっている。設計図と現実が、過去と未来が」


「鈴木、正気に戻れ!」


「正気?」鈴木は歪んだ笑みを浮かべた。「正気こそが狂気です。私は初めて真実を見ました。影従様の偉大さを」


高村は近づこうとしたが、影の壁に阻まれる。


「彼はもう、我々のものだ」影が囁く。「三人目の犠牲者。これで儀式は完了する」


「何の儀式だ!」


「現実の書き換えだ。この塔を基点に、世界を歪める。我々が実体を得るために」


鈴木の体がさらに歪み始める。影が彼の体に取り込まれ、同化していく。


「止めなければ!」


高村は石を鈴木の方に向けた。すると、鈴木が苦悶の表情を浮かべた。


「その石、邪魔だ」


影の群れが一斉に高村に襲いかかる。しかし、石の周囲だけは、彼らが近づけない。


「鈴木! 戦え! お前の意志で!」


鈴木の目に一瞬、本来の光が戻る。


「監督、逃げてください。もう、だめです。私の体が、私じゃなくなる」


「そんなことあるか!」


「伝えてください、家族に、愛していたと」


鈴木の体が完全に影に飲み込まれる。彼の形が崩れ、黒い煙のように渦巻く。


そして、煙が一つのかたちに固まる。それは人間の形をしているが、完全に影でできている。目だけが、鈴木の目のように見える。


「さあ、始めよう」影となった鈴木が言う。「新たな世界の創造を」


高村は無力感に打ちのめされた。彼は一人の男を救えなかった。現場監督として、最も大切なものを見失っていた。


影の群れが去っていく。鈴木の影も、彼らと共に消える。


高村がうつむくと、床に何かが落ちているのに気づいた。それは鈴木の名札だった。しかし、それには彼の名前の他に、奇妙な模様が刻まれている。月、星、太陽の紋様だ。


まさに、美雪が話していた鏡の紋様と同じだ。


高村は名札を拾い上げた。これは何かのメッセージか? 鈴木が残した手がかりか?


彼は急いで地上に戻った。事務所に着くと、木下が待っていた。


「鈴木は?」


高村はうなずいた。


「また、山田と同じように?」


「いや、今回はもっとひどい。彼は、影に飲み込まれた。影そのものになってしまった」


木下は言葉を失った。


「しかし、希望はある」高村は名札を見せた。「これを手がかりに、鏡を探す。影従様を封じるための鏡だ」


「どこで探せば?」


「おそらく、現場のどこかにある。祠の跡地、つまり地下五階のあの場所だ」


その夜、高村は一人で事務所に残り、資料を調べた。古い日誌と、鈴木の名札を見比べながら。


すると、日誌の最後の破られたページの跡に、かすかな文字が透けて見えるのに気づいた。これまで気づかなかった。


彼はデスクライトを近づけ、注意深く見た。


「礎の下に鏡は眠る。三つの紋様は鍵を開く」


まさに、鈴木の名札に刻まれた紋様だ。ということは、鏡は基礎の下にある?


しかし、基礎はもうコンクリートで固められている。掘り起こすには、大規模な工事が必要だ。


その時、彼の携帯が鳴った。見知らぬ番号だ。


「もしもし」


「高村さん? 私です、美雪」


「美雪さん、どうした?」


「祖母が、また夢を見たそうです。影従様が三人目を取り込んだ。しかし、まだ希望はある。鏡は地下にあるが、コンクリートの中ではない。別の経路でアクセスできる」


「別の経路?」


「昔、祠を管理していた家系の者が、緊急時に祠に入るための隠し通路があったそうです。それは、近くの川からつながっている」


川? 山田の遺体が発見された川か?


「ありがとう、美雪さん。これは大きな手がかりだ」


「どうかお気をつけて。影従様はこれまで以上に強力になっています。あなたのことを敵と認識しているかもしれません」


電話を切ると、高村はすぐに行動を起こした。川からアプローチするなら、今夜中に動くべきだ。


彼は木下に連絡し、状況を説明した。


「危険です。私も同行します」


「いいや、私一人で行く。もし私が戻らなかったら、全てを公表してくれ」


「そんな」


「約束してくれ、木下さん」


しばしの沈黙の後、木下はうなずいた。


「わかりました。しかし、どうか無事に戻ってください」


高村は現場を抜け出し、川へ向かった。月明かりの下、川面が不気味に光っている。


彼は懐中電灯を手に、川岸を歩き始めた。隠し通路の入り口を探して。


すると、川岸の岩場に、人工的な開口部を見つけた。それはコンクリートで補強されたトンネルで、水中に続いている。


「これが隠し通路か」


高村は深呼吸をすると、水中に潜った。トンネルは思ったより長い。しかし、数十メートル進むと、上方に空間が見えてきた。


息継ぎすると、そこは洞窟のような場所だった。壁はレンガ積みで、古い時代の技術で作られている。


洞窟は徐々に上り坂になり、やがて一つの小部屋に出た。そこには、壊れた祠の残骸と、いくつかの古い道具が散乱していた。


そして、部屋の中央に、石の台座がある。台座の上には、何も乗っていない。


「鏡は、どこだ?」


彼は懐中電灯で周囲を照らした。すると、台座の側面に、三つのくぼみがあるのに気づいた。月、星、太陽の形をしている。


まさに、鈴木の名札に刻まれた紋様と同じだ。


高村は名札を取り出し、くぼみにはめ込んだ。ぴたりと合う。


すると、台座が静かに動き、回転し始めた。そして、内部から、古びた銅鏡が現れた。


鏡は意外なほど小さく、手のひらに収まる大きさだ。裏面には、確かに三つの紋様が刻まれている。


「これが、影従様を封じる鏡か」


高村が鏡を手に取ると、周囲の空気が震えた。遠くから、怒りの叫び声のようなものが聞こえる。


「見つけたぞ」


彼は急いで来た道を戻った。川から這い出ると、現場の方角が異様に暗い。影が渦巻いている。


高村は鏡を握りしめ、現場へ走った。これで終止符を打てるかもしれない。


しかし、彼が知らないのは、鏡の力だけでは不十分だということ。真の封印には、さらに大きな代償が必要なのだ。


現場に近づくにつれ、影の活動が活発になっているのがわかる。ビル全体が歪んで見える。


高村は覚悟を決めた。これからが本当の戦いだ。

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