カッパと太郎

ようすけ

第1話



🥒 河童とキュウリと哲学と 🥒

1. 都会の片隅、深夜の決断


山田太郎(42歳、独身、趣味は苔盆栽、職業はフリーランスのロゴデザイナー)は、深夜2時のアパートの台所で、重大な決断を下そうとしていた。


まな板の上には、鮮やかな緑色のキュウリが一本。


「よし、やるぞ」


太郎は、カッパを呼ぶことにしたのだ。


発端は、先週届いた母からの手紙だった。「太郎、あなたももういい年なのだから、もう少し生き方に『深み』を持ちなさい。例えば、河童に会ってみるなど、どうでしょう。人生が変わるかもしれませんよ」という、何とも禅問答のようなメッセージ。


「深み、か…」


太郎の住むアパートは、古びた二階建ての最上階。近くに川はあるが、整備されたコンクリートの護岸で、水深はくるぶしほど。カッパなどいるはずがない。しかし、太郎は真面目だった。母の「深み」という言葉が、まるで人生のチェックボックスのように彼の脳内で点滅していた。


太郎は、インターネットで検索した「確実な河童の呼び出し方」に従って、キュウリのヘタを正確に切り落とし、塩を振り、そして庭師用の小さなスコップを手に、夜の闇へと飛び出した。


2. 暗渠(あんきょ)の儀式


太郎が向かったのは、アパートから徒歩10分の場所にある、今は使われていない古い水路の暗渠(あんきょ)の入り口。コンクリートの蓋がされ、錆びた鉄柵で封鎖されている。


「…ここに、深みが」


太郎は、フェンスの隙間から、キュウリと、お供え用の小皿に入れた日本酒を押し込んだ。そして、カッパが好むとされる相撲の型、「四股(しこ)」を真剣に踏み始めた。


「ハッ! ドスコイ! ハッ! ドスコイ!」


深夜の住宅街に響き渡る、42歳の中年男性の「ドスコイ」。通行人はいなかったが、近所の飼い犬が遠吠えを始めた。


その時だった。暗渠の奥から、**「ゴボゴボ…ペチャ…」**という湿った音が聞こえた。


太郎は四股を踏むのを止め、息を呑んだ。


そして、鉄柵の向こう、暗闇の中から、ぬるりと、何かが現れた。


それは、背丈が約1メートル、緑がかった皮膚、皿は、まるで陶器のような光沢を放っている。手には水かき。まさに、カッパである。


カッパは、太郎が供えたキュウリに近づき、その完璧な切り口をじっと見つめた。


「あの…もしや、河童様で…?」太郎は緊張で声が裏返った。


カッパは太郎の方を向き、口を開いた。


「…ふむ。このキュウリ、ヘタの断面が黄金比ではない」


3. カッパ、美食を語る


カッパは、その一言で太郎の期待を木っ端微塵にした。太郎が人生の深みを求めて深夜に四股を踏んだ結果が、キュウリの切り口へのダメ出しだった。


「えっ、黄金比…ですか? ネットには、ただ『新鮮なキュウリ』としか…」


「ネット、ネット、ネット。君たち人間はいつもそうだ」カッパはため息をついた。「我々河童にとって、キュウリとは哲学だ。ヘタの断面を1:ϕにカットすることで、初めてその『キュウリネス(Cucumberness)』が解放される。これは古代河童学の基本だ」


カッパは、キュウリを手に取り、太郎が用意した小さな日本酒の器をくいっと飲み干した。


「失礼。自己紹介が遅れた。私はカッパーノフ・キュウリョヴィッチ・ノストラダーマス三世。略してカプノスだ。この一帯の『水辺の精神と美食文化の守護者』を務めている」


「ど、どうも。山田太郎です。ええと、その、ノストラダーマス様…」


「カプノスでいい。…で、君はなぜ私を呼び出した?」


太郎は、母からの手紙の「深み」について語った。人生の停滞、漠然とした不安、そしてロゴデザインの仕事における「緑色のバリエーション」の枯渇。


カプノスは、話を聞きながら、太郎の用意したキュウリを一口かじった。


「…ふむ。この種のキュウリは『シャキシャキ感』に偏重しすぎている。我々が求めるのは、『シャキ』と『ネバ』の協奏曲だ。キュウリと宇宙の繋がり、それを君は理解しているか?」


「え、宇宙…ですか?」


「そうだ。君はロゴデザイナーだったな。君のデザインに**『宇宙のネバつき』**は含まれているか?」


「…いえ、主に『清潔感』と『信頼感』で…」


カプノスは首を横に振った。


「ダメだ。信頼感など、キュウリ一本で吹き飛ぶ。君に必要なのは、キュウリのヘタを黄金比に切る技術と、**『カッパ流ロゴ・デザイン哲学』だ。ついてくるか? ただし、君の人生は『ぬるぬる』**になるぞ」


4. ぬるぬるの修行とロゴの閃き


太郎は、人生の「深み」が「ぬるぬる」であることに疑問を感じつつも、カプノスの提案を受け入れた。


それからの数日間、太郎は夜な夜な暗渠の前でカプノスとの修行に励んだ。


修行とは、まずキュウリの黄金比カット。カプノスは、太郎が$1.6180339...$に近づくたびに、「惜しい! そこは$0.0000001$だけ**『ぬめり』**が足りない!」とダメ出しをした。


次に、『カッパ流ロゴ・デザイン哲学』。


「太郎。いいか。ロゴは、『水、時間、そして後悔』の三要素で成り立っている。たとえば、このキュウリを見ろ」


カプノスは、太郎が黄金比カットしたキュウリを水に浸した。


「水は『流転』。形は常に変わる。ロゴもそうだ。君は昨日作ったロゴを、今日すでに『後悔』しているだろう? その後悔こそが『時間』の証だ」


太郎は、確かに先日納品した食品会社のロゴについて、『もう少し緑を明るくすればよかった』と後悔していたことを思い出し、冷や汗をかいた。


「そして、最も重要なのは『皿の湿度』だ。皿が乾いていては、創造性も枯れる。君の皿は常に『潤っている』か?」


「あの、カプノスさん。私の皿は頭ではなく、お皿に盛ったキュウリのことですよね?」


「どちらともとれる。それが『深み』だ」カプノスは得意げに言った。


ある日の深夜、太郎は、キュウリの黄金比カットに成功した。カプノスは、その完璧な断面を見て、「これは…宇宙のネバつきだ!」と叫んだ。


その瞬間、太郎の脳内に、稲妻のような閃きが走った。


「わかった! 緑色のバリエーションだ!」


太郎は、すぐにアパートに戻り、デザインソフトを立ち上げた。彼は、今まで使っていた「清潔感あふれる緑」や「信頼感のある緑」を捨てた。


代わりに採用したのは、『ぬるぬるした深緑』『後悔の若草色』『水垢のようなエメラルドグリーン』、そして、『黄金比の断面の光沢』を表現した『微妙に光沢のあるライムグリーン』だった。


太郎は、その新しい色を使ったロゴを完成させた。それは、まるで沼の中から生まれたかのような、どこか不安を誘うが、同時に目を離せない、強い魅力を持つロゴだった。


5. 別れと深みと、残されたもの


数日後、太郎は、新しいロゴをクライアントに提出した。


クライアント(地方の漬物会社の社長)は、新しいロゴを一目見て、目を丸くした。


「これは…これは…『生命のぬめり』を感じる! うちの漬物は、まさにこの、『得体の知れない深み』が足りなかったんだ! 山田さん、あなたは変わった! 何か『深み』のある経験でも?」


太郎は静かに答えた。「ええ。少し『ぬるぬるした哲学』を学びました」


太郎は、高額な報酬を受け取り、フリーランスとして大きな自信を得た。緑色のバリエーションは、尽きることがなかった。


その夜、太郎は、黄金比でカットしたキュウリと、高級な純米大吟醸を手に、暗渠へと向かった。


しかし、鉄柵の向こうに、カプノスの姿はなかった。


代わりに、太郎が供えた皿の上には、丁寧に折られたメモが置かれていた。


太郎へ。


君のロゴに「ぬるぬる」が宿った。もう私に教えることはない。


ただし、一つだけ忘れるな。『人生の深みとは、皿の湿度のことだ』。


追伸:残った酒はいただく。このキュウリは完璧な黄金比だ。惜しいのは、供える皿が少しばかり安っぽい。次は李朝白磁で頼む。


— カプノス


太郎は、メモを読み終え、夜空を見上げた。彼の頭の皿(実際には皿はないが、そう思えた)は、なんだか妙に潤っている気がした。


太郎の人生は変わった。ロゴのデザインは「清潔感」から「ぬるぬるした深み」へと進化し、仕事は順調だ。


彼は、残された純米大吟醸を一口飲み、そして、暗渠の鉄柵に向かって深々と頭を下げた。


「カプノス様、ありがとうございました」


太郎は、自宅への帰り道、ふと、カプノスがいた場所を振り返った。


暗渠の鉄柵のそばに、誰かの忘れ物だろうか。


小さな、水垢のついた古い定規が落ちていた。


太郎は、それを拾い上げた。


定規の裏側には、油性ペンで乱暴にこう書かれていた。


「だいたいでいい」


太郎は、定規を握りしめ、小さく微笑んだ。彼の人生に「深み」と「ぬるぬる」、そして「だいたいでいい」という究極のナンセンスが加わったのだった。

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カッパと太郎 ようすけ @taiyou0209

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