第19話 名前を取り戻す戦い
霧が、形を持ち始めた。
それは輪郭のない“人の影”だった。
目も口もない。
黒でも白でもなく、ただ“無色”。
しかし、確かにそこに“在る”。
風が止まる。
火が揺れる。
街の空気が震えた。
「…………だれ?」
声はない。
ただ、問いだけが響いた。
魔物の群れが押し寄せる。
牙。爪。怒号。
騎士たちは必死に剣を振るう。
「押し返せ!!」
「ここを守れ!!」
だが、押し寄せる魔物の背後から――
霧はゆっくりと歩み続けていた。
足音はない。
ただ、存在だけが迫ってくる。
そのたびに、街の輪郭が薄れた。
壁が透明になり、家が霞む。
「……消えてる……」
セレスは絶望を飲み込んだ。
「これは……戦いじゃない。
“塗り潰し”だ……!」
ノーミが泣きながら叫ぶ。
「みんな……まって!
きえないで……!!」
その声は小さかった。
震えていて、弱かった。
しかし、誰よりも必死だった。
タケルはその肩を掴む。
「大丈夫だ。
お前はここにいる。」
「……タケル……」
「だから、俺が呼ぶ。
お前らを、全部だ。」
アーキリークは、ゆっくりと腕を伸ばした。
掴んだ空気が、消える。
灰色の霧の腕が、街へ向けられる。
その先にいたのは――
子供たち。
泣きながら、名前を思い出せずに震えている。
「いやだ……こわい……」
霧が
――だれ?
その問いは、鋭い刃のようだった。
誰も答えられない。
答えた瞬間、存在が塗り潰される。
沈黙。
恐怖。
絶望。
そこへ――
タケルが叫んだ。
「お前は――レーヴァだ!!」
小さな魔族が震えながら振り向く。
「……レーヴァ……
そう……わたし……レーヴァ……!」
その瞬間、霧が止まった。
シオンが祈りを結ぶ。
「……どうか……
この子たちを……!」
その祈りは優しく、真っ直ぐで、強い。
しかし、霧はからかうように揺れた。
「祈りは通じねぇよ」
タケルが歯を食いしばった。
「これは神じゃない。
名前がない、空白だ。
だから――」
息を吸い、腹から声を出す。
「この街の名前は――“ルーカの街”だ!!」
瞬間。
空気が震えた。
沈黙。
次の瞬間――
「ルーカ!!」
「ルーカ!!」
「ルーカ!!」
子供たちが叫んだ。
大人たちが叫んだ。
泣きながら、声をあげた。
その叫びは、祈りではない。
定義だった。
“ここに街がある”
“ここに人がいる”
霧が、大きく歪んだ。
アーキリークが笑う。
無音の笑い。
裂けたような輪郭の奥から、空白が覗く。
「…………だれ?」
問いは、街全体に広がった。
「われ……?」
「ここ……?」
「名……?」
霧が街を覆い、色が消える。
輪郭が崩れる。
世界が“なかったことにされる”。
リリアンが杖を掲げる。
「陣式起動――概念拘束!!」
光の輪が弾け、霧の脚を縛る。
しかし。
その光は、触れた瞬間に消えた。
「効かない……!」
「当たり前だ」
セレスが矢を放つ。
それも――消えた。
「虚無に魔術は届かん……!」
霧は静かに歩み続ける。
そのとき。
ドグーが前に立った。
霧に向けて、淡い光を放つ。
《解析中。
対象:名前のない空隙。
干渉方法:不明。
しかし――》
「しかし?」
《あなたたちは“ここにいる”。
それは、対象が否定できない事実。》
「……つまり?」
《名前を呼べ。
呼ばれた者は消えない。
呼ばれない者が消える。》
タケルは笑った。
「よっしゃ。分かりやすい!!」
魔族が、泣きながら地面に座り込む。
「こわい……
わたし……だれ……?」
タケルが叫ぶ。
「お前は――ヴェイルだ!!」
姿なき仮面の青年が、木陰に浮かんだ。
「……役割……
与えられた……」
霧が後退した。
レーヴァが叫ぶ。
「たすけて……みんな……たすけて……!」
ノーミが手を取り合う。
「わたし……ここにいる……!」
ピリカが飛び回る。
「やばいのいろです!!
みんなでよぶのです!!」
「だから翻訳しろ!」
「たぶん!!」
魔物の群れが突撃する。
グルが拳で迎え撃つ。
「姉御! 後ろは任せろ!!」
「感謝」
「感謝……!? 姉御が感謝!?
俺……死ぬかもしれねぇ……!!」
リリーの拳が火花を散らす。
セレスが吠える。
「みんな呼べ!!
名前を!!
声を!!」
空気そのものが震え始めていた。
名前を呼び続けることで辛うじて侵蝕を遅らせていたが、
アーキリークの広がりは止まらない。
霧は子供たちの足元まで迫り、
建物は半ば透明に溶け、
魔物たちすら怯えて退き始めている。
もはや、誰の声も届かない。
――だれ?
世界の“根”に突き刺さる問いが、
すべての存在を塗り潰そうとしていた。
「くそっ……! 呼ぶだけじゃ抑えきれねえ……!」
タケルが歯を食いしばる。
ノーミの小さな声も震え始めていた。
「みんな……きえちゃう……
わたし……みんな……よべない……よべないよ……!」
霧の腕が伸びる。
その先端は、もはや“空白そのもの”だった。
触れられた瞬間、名前は失われ、
存在式は崩れ、“いたこと”すら消える。
タケルが叫ぶ。
「誰か……止めてくれ!!」
その声を裂いたのは――
◆白く澄んだ、たった一つの足音だった。
――カン。
硬質な音が、沈みきった戦場に落ちる。
次の一歩が、暗闇へ灯火をつけるように響く。
振り向いた全員が、息を呑んだ。
◆リリアンが歩み出ていた。
金の髪を揺らし、杖を握り、
まるで世界の終わりに立ち向かうように前へ進む。
揺らぎひとつない足取り。
周囲の霧が、彼女に触れられず避ける。
「……リリアン……?」
タケルの声が震える。
リリアンはゆっくりと彼にだけ目を向けた。
「タケル。
――ご苦労でしたわ。
ここから先は、“術式”の仕事です。」
淡々とした声。
しかし、その奥に強い怒りがあった。
名前を奪う存在。
定義を破壊する現象。
世界の論理を冒涜するもの。
彼女が最も許しがたい相手だった。
「リリアン……」
セレスが言葉を失う。
「ここまで侵蝕された領域……
あなた一人で……止められるのか?」
リリアンはふっと息を吸った。
「止めます。
“名を持つ世界”を、守るために。」
杖を持つ指が、かすかに震えていた。
それは恐怖ではない。
覚悟と怒りで震える術者の指だった。
◆白炎が灯る。
リリアンの足元に、白い魔導式が展開した。
同時に、霧がざわめく。
理解したのだ。
――この女だけは、自分を“名前で定義しようとしている”と。
アーキリークが低く揺らいだ。
――……だれ……?
「質問に答える義務はありません。」
リリアンが静かに返す。
「あなたのような“無名の侵蝕”には、
相応しい処置があります。」
杖をゆっくりと掲げる。
彼女の声が、世界そのものに刻まれるように響いた。
◆そして――リリアンの詠唱が始まる。
「すべての境界よ、
今ここに定義されよ。」
「外は外、
内は内、
侵入を拒み、
侵害を拒む。」
「私は値を与える。
誤差は零、
名は揺らがず、
存在は失われず。」
「ここに住まう者は、
今日も明日も、
名を持つ者なり。」
《広域結界――恒常の床(フロア)、不侵の壁(ウォール)》
白い光が地面に広がり、
街の輪郭が“再び描かれ始めた”。
騎士団が息を呑む。
「守られた……!」
だが、リリアンは首を横に振った。
「――まだ足りません。」
霧が怒ったように揺らめく。
――だれ……??
「世界は複雑。混沌は深い。」
リリアンは第二の魔導式を開く。
「ならば、“複素領域”まで動員します。」
彼女の声は、静かで――燃えるようだった。
「虚数域、開放。
複素平面、展開。
回転行列、走れ。
偏微分、重ね。
無限級数、収束せよ。」
「総和は一、
誤差は零。
我が式に、矛盾はない。」
「――ただ、完全なる最適化を望むから。」
《第二式展開――全域干渉
“進入拒絶、侵蝕無効、名を奪う者はここに至らず”!!》
白炎が爆ぜ、結界が第二段階へと変質した――。
結界が第二段階へ移行し、
街全体を覆う巨大な光の半球が立ち上がる。
アーキリークの問いが、かき消された。
《……だ れ……?》
その声は結界内に届かない。
“質問として不成立”となり、世界式の外へ追い出される。
霧は裂け、後退し、悲鳴のような揺らぎを残して森の奥へ逃げ去った。
◆静寂と、驚愕
白い光がゆっくりと弱まる。
街の輪郭は完全に戻り、人々は息を吹き返すように立ち上がった。
防衛線にいた騎士たちが震えた声を上げた。
「これが……魔術……これが文明か……!」
セレスは呆然と空を見上げる。
「精霊を借りずに……ここまで……?」
シオンは胸に手を当て、震える声で言った。
「……奇跡です……」
グレンは息を吐き、笑うように呟いた。
「……奇跡だね……
でも、あの子は“奇跡”なんて言われるの、嫌いそうだ……」
◆リリアンの宣言
リリアンは深く息を吐き、杖を下ろした。
「……結界、維持完了。
これでしばらくは、誰の名も奪わせません。」
タケルが駆け寄った。
「リリアン……すげぇよ。
本当に……守ってくれたんだな……!」
彼女はそっぽを向きながら、そっと言う。
「当然です。
――この街は、“名を持つ世界”なのですから。」
白炎の余韻が消える。
だがその場にいた全員が理解した。
この瞬間、世界は確かに“守られた”のだと。
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