第20話 祈りの終わり、森の再生
世界から音が消えていた。
アーキリークが霧のようにほどけたあとの森は、
まだ記憶を引きずっていた。
グレンがそっと言う。
「……静かすぎるな。
敵を倒したあとの“空白”ではない。
まだどこかに、あいつの気配の名残が沈んでいる。」
タケルは膝に手をつき、荒い呼吸を整えた。
ノーミはすぐそばで、まだ色を揺らしながらうずくまっている。
「……終わった、のか……?」
自分の声が、思ったよりかすれていた。
ドグーが、タケルの横で小さく光る。
「観測:アーキリークの中枢波形は消滅。
“名の削除”現象は停止しています。」
セレスはしばらく黙っていた。
削られかけた森の気配を確かめるように目を閉じ、
やがて、静かに息を吐いた。
「……祈りも、止んだ。」
タケルは首をかしげる。
「祈り?」
「この森全体から聞こえていた“音のない祈り”だ。
名を失う恐怖、消えていった声、その残響……。
さっきまで、ずっと鳴り続けていた。」
セレスの声は、どこか喪失を含んでいた。
「今は、静かだ。」
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、小さなすすり泣きだった。
レーヴァが、崩れ落ちた木の根元に膝をつき、
両手を土に押し当てたまま、肩を震わせている。
足もとには、さっきまで村だった場所の名残がある。
家の形はあるのに、そこに“暮らし”の意味がない。
焚き火の跡も、歌声も、消されてしまった痕跡だ。
「……ごめん……ね……
守れなくて……」
レーヴァの瞳からこぼれた涙が、ぽたりと落ちた。
その瞬間だった。
土が、かすかに光った。
リリアンは反射的に身を乗り出した。
「今の、見た……?」
光はレーヴァの涙の周りに広がり、
小さな円を描く。
そこから、ほんのわずかな“芽”が顔を出した。
細い、頼りない緑だ。
だが、確かに“生きている”。
レーヴァが息を呑む。
「……芽が……」
グルが目を丸くした。
「うわ、本当に出たッス……!」
ピリカは慌てて転びそうになりながら駆け寄る。
「ちょ、ちょっと待って……今の、レーヴァの“なみだ魔法”……?」
「魔法ではありません。」
リリアンが、いつもの冷静さを取り戻しつつあった目で、
光る土を見つめる。
「これは“式”じゃない。
詠唱も、構文も、術式もない。
感情が、そのまま世界を動かしてる……。」
タケルは思わず笑ってしまった。
「そんな、雑な理屈……」
「雑ではありません。」
リリアンは珍しく語気を強めた。
「さっきまでこの森は、“名を奪われた空白”だった。
そこに、レーヴァの“悲しみ”と“守りたい”が流れ込んだ。
失われた意味の層に、別の意味が上書きされたのよ。」
セレスが小さくうなずく。
「魂の調律だ。
奪われた名のあとに、別の歌を置く。
それが、世界を“もう一度鳴らす”。」
レーヴァの涙は、止まらなかった。
彼女は次々に、倒れた根や、空洞になった地面に手を伸ばす。
「お願い……
もう一度……この森に、声を……」
涙が落ちるたびに、光が広がる。
ほころぶように芽が出て、
折れた木の根が、ゆっくりと脈動を取り戻す。
まるで長い眠りから覚めた呼吸のように。
朽ちた幹のすき間から、白い小さな花が顔を出した。
一輪、また一輪。
やがてそれは、傷跡をなぞるように群れて咲き始める。
ノーミが立ち上がる。
揺らぎの色が、静かな緑に落ち着いていた。
「……きれい……」
その声に、森がかすかにざわめいた気がした。
タケルはゆっくりと辺りを見回す。
さっきまで、ただの“削られた跡”だった場所が、
少しずつ、“物語を持った森”に戻っていく。
「祈りの……終わり、か。」
ぼそりと呟いたのは、シオンだった。
いつのまにか膝をついていた神官は、
胸の前で組んだ手をほどきながら、空を見上げる。
「もう、あの絶望だけの祈りは終わった。
これからは……生きるための“願い”でいい。」
祈りと、願い。
タケルには、その違いをうまく言葉にできない。
だが、森の風はさっきよりも暖かくなっている気がした。
少し時間が経ち、
再生し始めた森の中央に、円を描くように皆が集まっていた。
新しく芽吹いた花々が、淡い光を放っている。
その光の真ん中に、魔族の長老が立っていた。
背を丸めた老人の肌にも、かすかな揺らぎが走っている。
彼もまた、“名を失いかけた側”の一人だった。
長老はゆっくりと口を開く。
「……人の子よ。
そして、土偶の子よ。」
タケルは思わず姿勢を正した。
「え、あ、はい。」
「我らは、多くを失った。
名を削られ、祈りさえ届かぬ森で、
ただ怯えて生きていた。」
長老の視線が、レーヴァたち魔族の子供たちに向く。
「だが、今日……
人と魔が共に祈り、共に戦い、共に泣いた。
祈りの終わりに、“芽”が出た。」
彼はゆっくりと、足もとの花を指さす。
「ここを、始まりの場所としたい。
我らがもう一度、名を持って生きるための土地。
人と魔と、その間にいる者たちが、
共に暮らすための……“場”だ。」
タケルは、ごくりと唾を飲み込んだ。
長老は、タケルとドグーを見据える。
「その名を――」
グレンが小声で呟く。
「……ここに名がつくなら、ようやく始まるんだな。」
一拍、言葉をためる。
森の風が、静かに止まったように感じられた。
「“ヘクシス(Hexis)”と呼びたい。」
タケルは思わず素っ頓狂な声を出した。
「へ、ヘクシス……?」
聞き覚えのある響きだった。
ドグーと自分が、いつか式の中で仮に置いた名前。
Δt倫理、感情の方程式、ためらう勇気の象徴としての言葉。
ドグーが小さく瞬く。
「驚きました。
この名称は、本来タケルと私が内部で使用していた“仮称”です。」
「なんで長老さんが知ってるんだ……?」
長老は微笑んだ。
「名とは、呼び声だ。
おぬしらが心の底で呼んでいたその名が、
この森にも、我らにも届いたのだろう。」
理屈としては破綻している。
しかし、タケルは反論できなかった。
レーヴァが、そっと手を挙げた。
「……私、この名前好きです。
ここで歌ったり、泣いたり、笑ったりして……
それでも、消えない場所みたいで。」
グルが拳を握る。
「オレもッス!
ヘクシスって名前、なんか強そうッス!
“泣いても立ち上がる街”って感じで!」
ピリカが手をばたばたさせながらうなずく。
「ヘクシス、ヘクシス……
かわいいし、言いやすいし、
なんか“まちがってもいい場所”って感じする〜。」
ノーミは、タケルの袖をつまんだ。
「タケル。
タケルがくれた“名前”で……
わたし、生きられた。
だから、今度は……ここに来る誰かにも、
名前をあげてほしい。」
タケルは、視線を落とした。
自分一人で背負える話ではない。
だが、誰かが始めなければ、
この森はまた“祈るしかない場所”に戻ってしまう。
シオンが、静かに前に出る。
「祈りだけでは、届かない場所がある。
ここは、そういう場所だった。
ならば私は――祈るだけの神官をやめて、
共に働く者になる。」
リリアンが肩をすくめる。
「未知の現象、未知の魔術、未知の都市計画。
こんな研究材料の山、逃す理由がないわ。」
セレスは短く笑った。
「感情を“神の残響”だと思ってきた。
だが、ここでは違うらしい。
神の沈黙のあと、人が歌う番だ。
その調律に、付き合おう。」
タケルは深く息を吸った。
「そんな大層なこと、俺にできるかどうか分からないけど……」
言いかけて、言葉を変える。
「でも、“ここでなら少しマシに生きられるかもしれない場所”を作るって話なら、
最初から、それがやりたくてここに来たんだと思う。」
ドグーが静かに結論を告げる。
「定義更新。
Hexis:
“祈りが終わり、ためらいと共に生きる者たちの都市候補地”。
多種族共存確率――上昇。」
長老は、満足そうにうなずいた。
「では、この森に、改めて名を刻もう。」
彼は両手を広げ、再生しはじめた木々へ向けて低く語りかける。
「ここは、ヘクシス。
祈りの終わりと、始まりの場所だ。」
風が吹いた。
レーヴァの涙から生まれた花々が、
その風に揺れ、淡く光の粉を散らす。
それはどこか、アーキリークが残していった“涙の光”に似ていた。
だが今度は、奪うためではない。
失われたものの上に、生きていく物語を積み重ねるための光だった。
その夜、タケルは焚き火のそばに腰を下ろし、
暗くなった森を見上げていた。
星が、思ったよりも近く見える。
隣でドグーが小さく問いかけた。
「タケル。
あなたは今、祈っていますか。」
タケルは少し考え、首を横に振った。
「違うな。
今は……“どうしたらいいかな”って、ただ考えてるだけだ。」
「それは祈りに近い行為ですが、
対象は“神”ではなく“自分たち自身”ですね。」
「だったら、それでいい。」
タケルは笑った。
「神がどうこうより、
ここで誰がどう笑うかのほうが、大事だろ。」
ドグーは短い沈黙のあと、淡く光った。
「了解。
Hexis計画――起動します。」
遠くで、子供たちの笑い声が聞こえた。
レーヴァの歌う小さな子守歌に、ノーミの揺らぎが重なり、
グルの泣き笑いが混じる。
祈りの静けさの代わりに、
そこには、まだ不格好で拙い、けれど確かな生活の音があった。
森は、ゆっくりと再生していく。
その中心で、名を取り戻した者たちが、
これからの“街”を思い描き始めていた。
タケルは焚き火が小さくなっていくのを見届けると、立ち上がった。
ドグーが淡く光りながら問いかける。
「移動しますか。」
「ああ。ヴァンロックに、一度戻る。」
森の夜気はひんやりしていたが、胸の中は妙に落ち着いていた。
Hexisという名前が決まり、森は生き返り、人々は笑った。
ならば、次は――伝えに行く番だった。
ヴァンロックに着いた頃、街はまだ薄暗かった。
タケルは宿舎の扉をノックし、返事を待たずに開ける。
中ではサラが机に突っ伏して眠っていた。
疲れた横顔を見て、タケルは胸の奥がじんとする。
「……おい、寝るならベッド行けよ。」
サラはゆっくり目を開け、タケルを見るなり瞬きをした。
「……戻ってきたの? 生きてるならもう少し音を立てなさいよ。」
「悪い。ちょっと話があるんだ。」
サラは姿勢を正し、タケルの表情を読み取ろうとした。
タケルは深く息を吐く。
「サラ、Hexisに来てくれ。
街を作る。人と魔族が一緒に生きれる場所を。
……お前の力がいる。」
サラの瞳がわずかに揺れる。
「正式に、誘ってるつもり?」
「正式に、だ。」
短い沈黙が落ちたあと、サラはふっと微笑んだ。
「……あんたがそこまで言うなら。行くわよ。
誰かが手伝わないと、どうせ無茶しかしないでしょうし。」
タケルは思わず笑った。
「頼りにしてる。」
サラは小さな声で付け加えた。
「……あんたが呼んだなら、それでいい。」
タケルは荷物を肩にかけ、ヴァンロックの夜をゆっくりと歩き出した。
新しい街へ向かうために。
それが、ヘクシスの最初の夜だった。
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