第17話 無名の森の声なき祈り

 城壁が崩れ、土煙があがる。

 魔物の群れが雪崩れ込んだ。


「押し返せ!!」


 騎士団長の号令に合わせ、十名の騎士が盾を構える。


 スケルトンの爪が、金属の縁を叩く。

 キメラの咆哮が響き、森の空気が震えた。


「こんな数……聞いてないぞ!」


「城壁がなければ、とっくに突破されてる!」


「まだ城壁は残ってる! 崩れながらだけど!!」


 総員が必死だった。


 そして――


 その前に立つ黒い影。


「リリー!! 本当に戦うつもりか!?」


 タケルが叫ぶと、リリーは口の端を拭い、無造作に首を回した。


「食べた。

 戦える。

 倒す。」


「燃費悪すぎない!?」


「普通だよ。魔族、みんなそう。」


「絶対嘘だろ!!」


 だが次の瞬間、リリーの足が地面を蹴った。


 音が、遅れて追いかけてきた。


 黒い残光が走り、前列の魔物が一閃で吹き飛ぶ。


 グルがその背を追う。


「姉御! 無茶はだめっす!!」


「わたし、無茶しない!

 いつも通り!」


「それが無茶なんスよ!!」


 セレスはその戦いを見ながら、恐怖に似た尊敬を覚えた。


(……こいつ……

 本当に腹空かせて倒れていたのか?)


 しかし、その時だった。


 戦場の空気が、突然冷たく揺れる。


 魔物の群れが止まった。


 いや――止まったのではない。


「輪郭が……揺れている……?」


 リリアンの声が硬い。


 魔物たちの体が、薄くなっていく。

 境界線が溶け、ぼやけ、まるで――


 名前を失っていくかのように。


「……これは……」


 セレスがぞっとした。


「魔力じゃない。

 魂でもない。

 “存在そのもの”が溶けてる。」


 森の奥から、冷たい風が吹いた。


 その風は、名前を持たなかった。


 ただ、一つの囁きだけを連れていた。


――だれ?


 遠い声。


 聞いた者の背筋が、凍る。


「な、なんだ今の……?」


 騎士が震えながら問う。


 ドグーが静かに応えた。


「名称喪失波。

 対象の“名前”を揺らがせる現象。」


「名前を……揺らがせる?」


「はい。

 名前が消えれば、存在も消えます。」


 誰も言葉を失った。


 その瞬間――


「やめて!!」


 小さな声が響いた。


 ノーミだった。


 彼女の瞳は涙で揺れ、両手を必死に伸ばしていた。


「だれも……きえないで……

 みんな……ここに……いる……!」


 だが、魔物の群れの中に、一人だけ妙に揺れる影がいた。


 小さな魔族の幼子。

 体はうつろで、力なく震えている。


 輪郭が消えかけていた。


「名前……名前……」


 その声は、空気に溶けた。


 消える。


 このままでは。


 タケルは、迷わなかった。


「お前は――グル!!」


「えっ俺スか!?!?」


「違う!!名前!!考えろ!!」


「えっと、えっと……!!!」


 ノーミが叫ぶ。


「たすけて……!!」


 タケルは息を吸い――叫んだ。


「――ピリカ!!」


「たぶん!わたし!!」


「違う!!」


「でもよばれた!!」


「お前黙ってろ!!」


 幼子の肩に手を置き、もう一度。


「お前は……“ピリカ”だ!!」


 その瞬間。


 幼子の輪郭が光り、固定された。


 目に色が戻る。


「……ピリカ……

 わたし、ピリカ……!」


 ノーミが歓声を上げた。


「すごい!!やった!!」


 シオンの瞳が潤んだ。


「……ただ、名前を呼んだだけで……救えるなんて……」


 リリアンは震える声で呟いた。


「世界の定義が……揺らいでいる。

 名前とは……存在そのもの。

 この森で“呼ぶ”ことは――

 魔法より強い。」


 その時。


 森が、笑った。


 聞こえない声で。


 風のない空気が、ざわりと揺れた。


 どこか、遠くの闇から。


――だれ?


 まただ。


 今度は、もっと近い。


 セレスが杖を握り直した。


「来る……ぞ……!」


 魔物たちが一斉に吠えた。


「押し返せぇぇ!!」


 タケルが叫び、戦いが再開した。


 セレスの光矢。

 リリアンの魔弾。


 そして――


 誰かが消えかけるたびに、名前を呼ぶ。


「ここにいる!!」

「消えるな!!」

「お前は――ここだ!!」


 声が、祈りだった。


 声が、武器だった。


 声が、存在を繋ぎ止めた。


 そして森の奥から、冷たい霧が立ち上った。


 黒ではなく、色がない霧。


 それはまだ形を持たない。


 ただ、見ていた。


 声を持たない祈りのように。


 見て、笑って。


――だれ?


 問いは、続いていた。

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