第16話 魔族の涙とアーキリークの影

 森の端に築かれた魔族の街は、かろうじて息をしていた。


 城壁はひび割れ、門は片側が崩れ落ちている。

 風が吹くだけで、砂のように崩れてしまいそうだ。


 その根元には、倒れた魔族たちが横たわっていた。


 生きている。

 だが、呼吸は浅く、瞳は虚ろだ。


「……名前を呼んでも、返事が薄い」


 シオンが膝をつき、魔力を通す。

 体温はある。心臓も動いている。


 しかし――魂の重さがない。


「まるで“自分”を見失っているみたいです……」


 セレスは眉をひそめ、城壁の方角を見た。


「原因はどこにある?

 魔物の群れが来ているのは間違いない。

 だが、それだけじゃない。」


 リリアンが指を空気に滑らせる。


「魔力の流れが……捻れてる。

 魔法が“成立しない”場所がある。」


 彼女の魔力探査は、森全体を撫でるように広がった。


 だが、ある地点に触れた瞬間。


「……ッ!」


 リリアンの指先が弾かれ、青白い火花が散った。


「何か……“名を拒絶する”壁がある……!」


 同時に、ドグーの光核が淡く震えた。


《現象検出:

 名称拒絶フィールド。

 対象:未確定。

 危険度:上昇。》


「未確定?」


「はい。正しい名前がわかりません。」


「つまり、正体不明か……」


 セレスが唇をかむ。


 街の広場では、魔族の女が泣いていた。


 レーヴァだ。


 タケルたちが近づくと、彼女は顔を上げた。


「……仲間が……消えたの……

 魔物に食べられたんじゃない。

 “最初に名前が消えた”の……」


 タケルは言葉を失った。


 消えた?


 どういう意味だ?


「……名前が思い出せなくなって……

 そのうち、その人がいた場所も……

 家も……跡も……全部……」


 レーヴァは胸元を握りしめた。


「何が消えたのか、もうわからない……

 覚えてないの……

 でも……泣きたいの……

 大切だった気がするの……!」


 涙がぽろぽろ落ちる。


 シオンはそっと彼女の背に手を添えた。


「大切なものを失った心は……

 たとえ言葉にならなくても、覚えています。」


 レーヴァは震えた。


「……お願い……

 森を守って……

 もう、誰も……消えないで……」


 その声は痛いほど真剣だった。


 その時、城壁の上で怒号が上がった。


「魔物だ! 来るぞ!!」


 タケルたちは振り返った。


 森の闇が揺れていた。

 ざわざわと、地面が震える。


 巨大な足音、蠢く影、牙の光。


「数が……多い」


 騎士団長が呻く。


「城壁はもう……持たないぞ」


 タケルは前へ出た。


「よし、迎撃だ!

 とにかく街の人を守れ!」


 リリアンが叫ぶ。


「魔法陣準備!」


 セレスも杖を構え、手早く印を結ぶ。


「魔力、散る……

 森の“歪み”が妨害してる……!」


 その時。


「足りない……」


 静かな声がした。


 風が揺れ、影が地面に落ちる。


 仮面の青年――ヴェイル。


「人の恐怖……絶望……

 それらを、演じるには……

 “舞台”が足りない。」


 セレスが怒鳴った。


「ふざけてる場合か! どけ!!」


 ヴェイルは首を傾けた。


「舞台は……壊れかけている。

 役者は揃っている。

 足りないのは――名前だ。」


 その言葉は、重かった。


(――名前。)


 たった一言。


 だがそれは、森全体に響いた。


 木々がざわめく。

 風が変わる。


 遠く、何かが笑った気がした。


 見えない何かが、森の奥からこちらを見つめている。


「……感じるか?」


 セレスが問う。


 リリアンは冷たい声で答えた。


「ええ。

 これは“魔物”じゃない。」


「じゃあ、何だ。」


「名のないものよ。」


 背筋が凍った。


 その時、城壁に魔物がぶつかった。


 崩れる音。悲鳴。土煙。


「来たぞ!!」


 タケルは叫んだ。


「ドグー! 援護!」


「了解。あなたの安全を最優先します。」


 ドグーの腕から光がほとばしる。

 進む方向とは真逆に、あるいは真下へ、重力が強制的に捻じ曲げられ、最前列の魔物たちは加速を打ち消され、体勢を崩したまま固定された。


 セレスは精霊に命じる。


「光精霊よ、矢となりて――


 闇を射抜け。」


 しかし、光矢は揺らぎ、森の歪みに飲まれる。


「魔力が……吸われている!?」


 リリアンが歯噛みした。


(魔物を倒すだけじゃダメだ……

 この現象そのものを理解しなきゃ……!)


 その瞬間。


 崩れた城壁を、赤い影が駆け抜けた。


「グル!!」


 タケルが叫ぶと、グルは汗まみれで振り返った。


「殿しましたッ!!

 でも……もう限界ですッ!!」


「リリーは!?」


「……食べ物を……

 くれ……ば……」


 グルが言い終わる前に、反対側から怒鳴り声がした。


「持ってこい!! 火を! 肉を! 早く!!」


 リリーだった。


 腹を押さえながら、魔物の群れの前に立っている。


「食べてない!!この街!!守れない!!」


「戦う前に飯かよ!!」


「最優先!!」


 セレスが絶叫した。


「そんなことで戦況が変わるか!!」


 ドグーは静かに言う。


「栄養不足は、魔術の出力を八三%削減します。」


 全員が黙った。


「……まじかよ。」


 ドグーは荷物を展開し、食料を放り出す。


 リリーはそれを掴み、かぶりつく。


 信じられない速度で食べ、飲み込み、息を吸った。


「ッハァ!!

 いける!!!」


 その瞬間。

 リリーの瞳が、鋭く光った。


「――来るぞ。」


 森の奥で何かが蠢く。


 魔物の群れとは違う。


 もっと大きく、もっと暗く、もっと冷たい“何か”。


 見えない影が、ゆっくりとこちらへ近づいていた。


 それはまだ形を持たない。

 名前がない。


 だから、恐ろしい。


《未知の揺らぎ接近。

 危険度:急上昇。》


 ドグーの光核が淡く震えた。


「タケル。

 これは“名を持たぬ災い”です。」


「……アーキリークか。」


 誰かが息を呑む。


 その瞬間、遠くで、城壁が崩れ落ちた。


 魔物の群れがなだれ込む。


「全員、構えろ!!」


 タケルは叫んだ。


「ここからだ!!

 絶対に誰も、消させない!!」


 その叫びは、森に響いた。


 闇がかすかに揺れた。

 まるで、笑ったように。

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