第6話 聖女②

 昼下がりの教室には、穏やかなざわめきと共に彼女の名が何度も飛び交っていた。


「セレナ様、明日の祈りの会にもご出席されますか?」

「もしよろしければ、午後の実技もご一緒に……」


 神託によって学園に編入された聖女セレナ。その存在は、わずか数日で学内の空気を変えた。


 銀に近いプラチナブロンドの髪。

 淡い青の瞳。


 誰もが羨むその容姿と、自然体で飾らない笑顔。彼女の周囲には、常に穏やかな空気が流れていた。


 見た目も中身も完璧で、教師たちまで声が柔らかくなるんだから恐れ入るわ。


(……もし私がリリアナじゃなければ。きっとあの子たちと一緒に、無邪気にセレナ様を讃えていたのでしょうね。)


 ゲームで見た通りの聖女。いや、現実の彼女の方が、ずっと人間らしい。優しく、まっすぐで、光を帯びた存在。


(……私とは、正反対)


 私の周囲には相変わらず誰も寄り付かない。セレナとまだ言葉を交わしたことすらない。けれど彼女の存在は、教室の空気そのものを変えていた。


 感情を波立たせる必要はない。

 ただ、破滅を避けるだけ。


──


 魔法理論の授業。


 生徒たちが順に立ち上がり、簡易術式を展開していく。


 私の番になり、一礼して詠唱を始めた。

 必要最低限の言葉で魔力を流し込むと、杖の先に緻密な魔法陣が静かに浮かび上がる。


「……見事だ」

 教師が感嘆を漏らす。


 その直後、背後から静かなささやきが耳に届いた。


「……さすが、公爵家の娘ね」

「血筋が複雑でも、堂々としていられるなんて、立派なものだわ」

「公爵様の庇護がなければ、とてもあんな態度は取れないでしょうに」


 声は小さい。けれど、はっきり聞こえた。笑い声が重なり、扇子が小さく鳴る。


(確かリリアナは公爵家の愛人の子、そういう設定だったわね)


 淡々と、他人事のように思い出す。この身体に宿る過去。

 それが彼女を孤立させた最大の要因であり、同時に「悪役令嬢」としての根本的な構造でもある。


 教師が次の生徒を指名する声を聞きながら、私は静かに杖を握り直した。


──


 昼休み。


 廊下を歩いていたときのこと。

 前を歩く少女が、足元の段差に気づかずよろめいた。周囲の生徒たちは一瞬だけ動きを止めたが、誰も手を伸ばさない。


 私は迷わず近づき、無言でその腕を支えた。


「……大丈夫?」


 少女は目を丸くし、次の瞬間――怯えたように距離を取った。

「す、すみませんっ……!」

 逃げるように去っていく背を見送り、私は短く息を吐く。


(……助けただけなのに。やっぱり、怖がられるのね)


 まったく、どれだけ悪評が定着してるのかしら。ここまでくると見事だわ。


──


 放課後。

 教室にはまだ多くの生徒が残っていた。


 ノートを閉じようとしたとき、背後からくぐもった笑い声が聞こえる。


「ねえ聞いた? あの氷の公女様、またやったんですって」

「ふふ……廊下で気弱な子を突き飛ばして、怖がらせたらしいわよ」

「まぁ……やっぱり、血が違うのね。くすっ……平民の血が混ざってると、品格って隠せないものだわ」


(……また陰口?   懲りないわね)


 彼女たちは、午前の授業で陰口を叩いていた令嬢たちだ。話題に飽きるどころか、さらに脚色を重ねて楽しんでいるらしい。


 ……あー、なんか懐かしいわね。

 理由もなく悪く言われて、勝手に話が盛られて。

 本当は違うって言い返しても、誰も聞いちゃくれない。


 九条静――前の世界の私も愛人の子だった。それだけで、悪者のレッテルを貼られて。


 ……笑っちゃうわ。世界が変わっても結局同じ。

 でも、もう気にしない。

 怒るのも、疲れるだけだし。


 そう思って席を立とうとした、そのとき――


「そのお話……少し違うと思います」


 全員がはっとして振り返る。

 声の主はセレナ。


「えっ……ど、どうかなさいましたか、セレナ様……?」


 セレナは一歩前に進み、静かに視線を向ける。


「私はその場を見ていました。リリアナさんは、転びそうになった子を助けただけです」

 淡い青の瞳が、真っすぐに令嬢たちを見据えている。


「それを怖がらせただなんて……そんな言い方は、あまりに失礼ではありませんか?」


 令嬢たちは一瞬、言葉を失った。

 気まずそうに顔を見合わせ、慌てて口を開く。


「わ、私たちはそんなつもりで言ったわけでは……」

「そ、そう。ただ心配して……」


 セレナは静かに首を振る。

「それに、平民の血と仰いましたね。私ももともと平民の出です。けれど、生まれではなく、どう生きるかが人を決めるのではないでしょうか」


(……ああ、これが聖女か)

 まっすぐで、疑いのない光。

 まるで物語の中から抜け出してきたような。


 令嬢たちは顔を見合わせ、明らかに動揺していた。

「そ、そんな……! セレナ様、私たちはただ――」


「ええ、分かっています」


 セレナは穏やかに微笑む。

 その笑みには怒りも非難もない。

 ただ、透き通るような静けさだけがあった。


「でも――」


 柔らかな声が、再び教室に広がる。


「謝る相手が、違うと思います」


「……え?」

 令嬢たちが困惑したように目を瞬かせる。


 セレナはゆっくりと首を振り、視線を私へと向けた。


「本当に言葉を向けるべき相手は、私ではなくリリアナさんです」


 その言葉に、教室の空気がぴたりと止まった。

 一斉に、視線が私へと向けられる。


 令嬢たちは顔を伏せたまま、ためらうように数歩、私の方へ進む。

 静かな足音だけが響き、やがてその場に並ぶとゆっくりと頭を下げた。


 頬を紅潮させ、涙をこらえるように唇を震わせていた。目尻にはかすかな光が滲み、必死にまばたきで押しとどめている。


「っ……リ、リリアナ様……申し訳ありませんでした……!」

「わ、私たち……軽率でした……!」


 私は小さく息を吐き、穏やかに口を開く。


「……お気になさらないでください。

 噂というものは、勝手に形を変えるものですから」


 周囲の生徒たちがざわめく。

「あんな言葉を、この場で言えるなんて……」

「……本物の令嬢って、ああいう方を言うのね」


 令嬢たちは涙をこらえながら小さく礼をし、逃げるように教室を後にした。

 残された空気は、どこか重たく、そして妙に静かだった。


(……別に気にしてなんていないわ。ただ面倒事は、もう御免なだけ。)


 それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。


 セレナに、お礼くらい言った方がいいのかしら。

 でも、何て言えばいいのかわからない。変に近づけば、また妙な噂を立てられそうだし……。


 そんなことを考えていた、そのとき――


「リリアナさん、少しお話してもいいですか?」


 振り返ると、そこにセレナが立っていた。

 淡い光の中で微笑む彼女を見て、息がわずかに止まる。


 ……また、世界が少し動いた気がする


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