第9話 猫と騎士と、王子の微笑み
レイアは壁際まで後退し、命令を下した人物を見た。
彼は白いシャツに制服のズボン、黒縁メガネをかけ、学者のように落ち着き払っている。
だが、よく見ればその少年が放つオーラは常人とは違う。
見覚えがある。 あの時の、リトル・プリンスだ!
少年は微かに笑った。
「申し訳ありません。僕の連れが失礼をしました」
その間も、カイと呼ばれた青年は黒猫との死闘を繰り広げていた。
髪を引っ張り、尻尾を掴み、指を噛み、髭を抜くという、高尚なSPにはあるまじき泥仕合だ。
黒猫がついにブチ切れ、跳躍して護衛隊長の顔面に張り付き、爪で引っ掻き回した。
男はよろめいて倒れそうになる。
「LK! 降りて! もうやめて!」
レイアはオロオロするばかりだ。
LKが本気で怒ると、相手が誰だろうと容赦しない。
その時、白く長い指が視界に入った。
レイアが驚いて見守る中、少年が手を伸ばし、正確無比な動きで猫の首根っこを掴み、ひょいと持ち上げた。
黒猫は不服そうに手足をバタつかせ、体をS字にねじったが逃げられない。
背中の毛を逆立てて威嚇している。
レイアは慌てて猫を受け取り、胸に抱きしめた。
「あ、ありがとう」
「いい猫ですね」
「あなたのボディーガードも、なかなかよ」
レイアの皮肉に、少年は低く笑った。
顔中傷だらけになった護衛隊長は、ボロボロの姿で憤慨した。
「き、君たち、脳波放送(ブレイン・キャスト)を聞かなかったのか? ここは立ち入り禁止だぞ」
しかも猫連れだと!
「あ、ああっ、君は!」
病室のベッドでこの「人と猫の仁義なき戦い」を目撃していた店員が、ようやく声を上げた。
「君は、僕が助けた女の子!」
黒猫の軽蔑に満ちた唸り声を無視して、レイアは店員に感謝の言葉を述べた。
「ありがとうございます。あなたがいなかったら、今ここに寝ていたのは私でした」
「いやいやいや、当然のことをしたまでです! ここに寝ていられて光栄ですよ、じゃなきゃ一生、王子様にお目にかかることなんてなかった!」
店員は感激のあまりベッドから飛び起き、患者衣のまま軽快なステップでレイアに近づき、お見舞いの花とケーキを受け取った。
「いやぁ、来てくれるだけで嬉しいのに、手土産まで!」
店員は自分で花を花瓶に挿し、ケーキの箱を開けようとしている。
肩の怪我など全く気にならない様子に、レイアと王子はほっと胸を撫で下ろした。
その時、護衛隊長が仲間の脳波を受信した。
「殿下、テレビ局の記者が来ました。英雄へのインタビューだそうです」
今は平和な時代だ。
毎日のニュースといえば少年の家出くらいで、爆発的なネタに飢えているのだ。
護衛隊長の手配で、王子は業務用エレベーターを使ってメディアを避けることになった。
レイアも逃げようとしたが、護衛隊長に腕を掴まれた。
「君もこっちだ」
顔中傷だらけの青年が言った。
どこから情報が漏れたのか、王子が平民の病院にいるという噂が脳波ネットで拡散されていた。
野次馬が集まり始めており、護衛隊長は二人と一匹を連れて右往左往しながら逃げ回った。
レイアは状況を察し、リュックからLKの野球帽を取り出して少年に渡した。
護衛隊長は嫌そうな顔をしたが、少年は喜んで帽子を被った。
深く被った帽子のつばの下から、笑いを含んだ瞳が覗く。
ようやく、三人は空のエレベーターに滑り込んだ。
しかし一つ下の階でナースや患者が大勢乗り込んできて、青年は二人を庇うように一番奥の隅に立った。
距離が近すぎて、レイアは王子の瞳の底まで見えそうだった。
光の加減なのか、この人の瞳の奥は、海のように深い藍色をしていた。
現実世界の王室なんて雲の上の存在で、テレビの中でしか見たことがない。
でも今、生身の王子が目の前にいて、自分を見下ろし、呼吸さえ触れ合いそうだ。
レイアは緊張のあまり、どうしていいか分からなくなった。
王室オーラに当てられて頭がショートし、とんでもないことを口走ってしまった。
「犯人が早く捕まるといいですね。あなたも、もっと気をつけるべきです」
言った後で、なんて変なことを言ったんだと後悔した。
静まり返ったエレベーターの中で、全員が振り返って奇妙な三人組を見た。
『脳波で言えんのか!』
護衛隊長の怒鳴り声が脳内に響いた。
「ごめんなさい、私、レベル0なの」
レイアは小声で謝った。
レベル0は「受信専用」を意味する。
一方、リトル・プリンスは「何もできないレベル1」だと言われているから、大差ない。
レベル0を差別することは、王子を差別することになる。
カイは鼻を鳴らして黙り込んだ。
チン、と音がして、エレベーターは奇妙な沈黙の中、一階に到着した。
レイアの脳内に、王子の声が響いた。
『心配してくださって、ありがとうございます。お急ぎでなければ、お茶でもいかがですか?』
王子のお茶会!
レイアは目を輝かせた。
すごく行きたい。
たとえ夢の世界だとしても、王侯貴族の生活を体験してみたい!
しかし、その時彼女のスマホが鳴った。
この時代にスマホなんて時代遅れのデバイスを使っているのは、遠距離脳波通信ができないレイアくらいだ。
LKからだった。
『アケンの母親が塾に来てる。王子様とのデートはいつ終わるんだ?』
レイアが驚いて見下ろすと、黒猫が足元で「ニャッ」と鳴いた。
いつの間にか、LKはただの猫に戻っていたのだ。
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