第8話 英雄(ヒーロー)不在の病室

車内には、黒いスーツの男が三人、そして一人の少年が姿勢を正して座っていた。


「殿下、今日はお見舞いの日和ではありません。あの店員は勇敢でしたが、犯人はまだ捕まっていないのです」


 その中の一人が、全員の懸念を口にした。


「この件がストーム・テック社と直接関係している可能性も排除できません。万事、慎重にお願いします」


 昨日の商店街での惨劇は、「街角の小規模な強盗事件」として処理されていた。


 強盗犯がわざわざ自動車をプレス機のように潰す超能力を使うなんて、鶏を割くのに牛刀を用いるようなものだが、誰もその矛盾を指摘しない。


 街には隕石でも落ちたかのような大穴が開いているのに。


 しかし王室の意向には逆らえず、メディアはこぞって「奇妙な強盗事件」として報道したのだ。


 少年は伏し目がちに沈黙していた。


 長い睫毛が落とす影が、彼の冷ややかな表情をより一層厳しく見せている。


 その威厳は、たとえ継承権を剥奪されても、彼が一国の王子であることを周囲に知らしめていた。


 王子が決断した以上、部下たちは命を賭して従うしかない。


 車が病院の前に停まるまで、誰も異議を唱えなかった。


「ついて来なくていいですよ。ここで待機していてください」


 王子はそう言うと、一人で車を降りた。


 ポケットから黒縁メガネを取り出してかけ、襟元の第一ボタン――光の女神の横顔が刻印されたもの――を引きちぎった。


 SPも王室の紋章もなければ、彼はただの無口で陰気な少年に見える。


 人混みに紛れるのは簡単だ。


 しかし、王子の護衛隊長(ロイヤルガード・キャプテン)はそうは思わなかった。


 黒スーツの青年が早足で少年の後を追い、脳波で他の二人に病院内の避難誘導を指示した。


 王室の側近になれるのはレベル8以上の高位能力者ばかりだ。


 瞬く間に院内の患者とスタッフに脳波放送が届いた。


「貴方はいつも、僕の言うことを聞きませんね」


 少年王子は呆れたように言った。


「私の任務は殿下の安全を守ることであり、言うことを聞くことではありませんから」


 長身の護衛隊長カイは、悪びれもせず笑った。


「それに、殿下の好き勝手を放置していたら、私の始末書が山のように積み上がってしまいます」


 トラブルメーカーな王子の護衛隊長を務めるうちに、戦闘能力よりも公文書作成能力の方が向上してしまった男である。


 一方、病院の反対側では、レイアが病室を間違えたことに気づいていた。


 彼女が探している「英雄」はここにはいない。


 静まり返った病室で、酸素マスクをつけた男子学生がベッドに横たわり、昏睡状態に陥っていた。


 顔色は土色で、頬はこけ、生気がない。


 しかし……どこか見覚えがある。


『アケンだ』


 リュックサックの中からLKが教えてくれた。


 アケンは『今日発』補習塾の成績トップで、冬のレベル5検定に合格する可能性が最も高い生徒だ。


 この内気で無口な少年は、才能には恵まれていなかったが、誰よりも努力家だった。


 余暇のすべてを脳力トレーニングに費やしていた。


 アケンはかつて、レイアに夢を語ったことがある。


「父を超える存在になりたい」と。


 レイアはアケンの父親を知っていた。


 脳力レベル9のマスターで、脳波で数々の名曲を奏でた音楽家だったが、7年前の事故で若くして亡くなっている。


 ベッド脇のカルテには「急性脳損傷」と書かれていた。


 どうしてこんなことに?


「脳の使いすぎ?」


 レイアはとっさに思った。


「補習のやりすぎかな」


『アケンはここ2週間、補習塾に来てなかったんだ』


「サボり?」


 信じられない。


 アケンの勤勉さは誰もが知っている。


 親に強制されて嫌々来ている生徒とは違い、彼は本気で自分を高めようとしていた。


 それに、彼は正義感も強かった。


 以前、『常勝』の生徒たちがレイアを街角で囲んだ時、助けてくれたのもアケンだった。


 レイアは今でも覚えている。


 アケンが彼女を背に守り、『常勝』の連中に放った言葉を。


「弱い者いじめなんて最低だ。本当に実力があるなら、脳力検定で勝負しろ!」


 まるで男版の愛佳(アイカ)だ。


 もっとも、愛佳は決してレイアをかばったりはしないけれど。


 レイアがまだ信じられない顔をしているのを見て、LKは事実を告げた。


『誰だって疲れる時はあるさ。パン(小胖)の話じゃ、最近『最初(オリジナル)・ファンタジア』にハマってて、補習の時間にフライドチキン屋でフルダイブしてるのを何度か目撃されたらしい』


 ナツ先生が授業で言っていたことがある。


「どんなに目標が明確でも、苦しい努力の過程で脳は逃避を求める。これは脳の防衛本能だ」と。


 ダイエット中の人がドカ食いしてしまったり、オリンピック選手が練習をサボりたくなるのと同じだ。


 苦痛を感じた時、脳は自分を慰める指令を出す。


 もし誰かが強靭な意志でその惰性に打ち勝てたとしても、それは単に肉体的耐久力が優れているか、脳がまだ限界のSOS信号を受け取っていないだけなのかもしれない。


 レイアはアケンの冷たく白い手を握りしめた。


 彼が一日も早くこの深い眠りから覚めることを、心から祈った。


 まるで彼女が毎日、現実世界で目覚めるように。


 レイアとLK猫が部屋を出ると、廊下には人っ子一人いなかった。


 まるで避難命令が出たかのように静まり返っている。


 彼女は改めて店員の病室を探し当て、ドアを開けようとした瞬間――。


 誰かに腕を掴まれた。


『レイア! 危ない!』


 黒猫がリュックから飛び出し、爪を立てて男の顔に襲いかかった。


 レイアも同時に、男の急所めがけて蹴りを入れた。


 長身の青年は凄腕のようだったが、そんないかがわしいストリートファイトの技には慣れていなかったらしい。


 咄嗟にレイアを持ち上げて床に叩きつけようとした。


「カイ、やめてください」


 少年の落ち着いた声が響いた。


 青年が動きを止めた隙に、LK猫が彼の手首に噛みついた。


 猫の牙が肉に食い込み、男は掴んでいた少女を放さざるを得なかった。


 レイアは壁際まで後退し、命令を下した人物を見た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る