第22話 Log_03:作業日報(空白)

気づくと、私は床に寝転がっていた。

硬いフローリングの感触。

背中が痛い。喉がカラカラに渇いている。

窓の隙間から、細い光が差し込んでいる。

朝なのか、昼なのか、それとも夕方なのか分からない。


「……あれ?」


私は上半身を起こし、頭を振った。

記憶が混濁している。

確か、漆原の成れの果てである「肉のカメラ」をPCに繋いだはずだ。

『編集してくれ』という声を聞いて、私はそれを承諾した。

そこまでは覚えている。

それから、どれくらいの時間が経った?


私はふらつく足で立ち上がり、部屋を見渡した。

そして、息を呑んだ。


「なんだ、これ……」


部屋中が、紙だらけだった。

コピー用紙、ポストイット、破ったノートの切れ端。

あらゆる紙片が、壁という壁、天井、そして家具にびっしりと貼り付けられている。

お札のように、隙間なく。


そこに書かれている文字は、どれも私の筆跡だった。

黒のマジックで、乱暴に殴り書きされている。


『見るな』

『レンダリングするな』

『444フレーム目を切れ』

『音声トラック3をミュートしろ』

『目があったら逸らせ』

『これは編集じゃない、餌付けだ』


無数の警告。

狂気じみたメモの群れ。

私が書いたのか?

記憶がない。全く覚えていない。


私は机の方へ目を向けた。

PCの電源は入ったままだ。

モニターはスリープモードに入らず、青白く発光している。

そして、その横には、あの「カメラ」があった。


USBケーブルで繋がれた、肉塊のようなカメラ。

それは数日前(?)よりも一回り大きくなり、机の天板に根を張るように、血管のようなコードを這わせていた。

ドクン、ドクンとゆっくり脈動している。

まるで、PCから栄養を吸い取って成長しているようだ。


私はPCの前に座った。

椅子に座ると、バリッという音がした。

座面にまで、『逃げろ』と書かれたメモが貼ってあったのだ。

私はそれを剥がして丸め、ゴミ箱に捨てた。

ゴミ箱は既に、コンビニ弁当の空き容器と栄養ドリンクの空き瓶で溢れかえっていた。

腐った匂いがする。


画面を見る。

編集ソフトが立ち上がっている。

タイムラインには、複雑怪奇な編集データが並んでいた。

映像クリップ、音声波形、エフェクトレイヤー。

それらが幾重にも重なり、一つの巨大なタペストリーを織りなしている。

プロの私が見ても、戦慄するほどの緻密さと狂気を含んだ構成。


「……私が、これを?」


覚えがない。

だが、マウスを握る手は、その感触を覚えていた。

指先が勝手にショートカットキーを探る。


私はデスクトップにある『Log_03:作業日報(空白).txt』を開いた。

日付を確認する。


2024年10月10日


「……十日?」


嘘だろ。

私がカメラを繋いだのは、確か六日の深夜だ。

四日間。

丸四日間、記憶がない。

この空白の期間、私は寝食を忘れて、この異様な編集作業に没頭していたというのか?


テキストファイルの中身を見る。


   ◇


【業務日報】

担当:高木 彰

期間:2024/10/07 ~ 2024/10/10


[10/07]

(記述なし)


[10/08]

(記述なし)


[10/09]

(記述なし)


[10/10]

(記述なし)


   ◇


文字通り、空白だった。

だが、カーソルを一番下までスクロールさせると、一行だけ、奇妙な文章が残されていた。


『※記憶領域のデフラグを実行しました。不要な「人間性」セクタを削除し、「編集機材」としてのドライバを更新しました』


「……ハハッ」


乾いた笑いが漏れた。

削除されたのか。私の人間としての四日間は。

私はもう、高木彰という人間ではなく、このシステムの一部、編集用のアタッチメントに過ぎないということか。


グゥゥ……。

腹が鳴った。

人間性は削除されても、肉体はまだカロリーを求めているらしい。

私は、足元に転がっていた水のペットボトルを拾い上げ、中身を一気に飲み干した。

生ぬるい水が、乾いた食道にしみる。


ふと、モニターの枠に貼られた一枚のメモが目に留まった。

他のメモとは違い、赤いペンで、丁寧に書かれている。


『電話に出るな。それは過去からの着信だ』


電話?

そういえば、ここ数日、スマホを見ていない。

私は机の書類の山をかき分けた。

埋もれていたスマホを見つける。

バッテリーは切れて画面は真っ暗だ。


「充電……しなきゃ」


私は、警告メモの意味を深く考えず、充電ケーブルをスマホに挿した。

画面に電池マークが表示される。

数秒後、OSが起動する。


ブブッ、ブブッ、ブブッ。


起動した瞬間、大量の通知が雪崩のように押し寄せた。

未読メール、LINE、不在着信。

雨宮からの督促、カード会社からの支払い通知、親からの「元気か?」というメッセージ。


日常だ。

ここにはまだ、日常の残骸が残っている。


だが、その通知の波に紛れて、一つだけ異質なアイコンがあった。

留守番電話の通知。

件数:1件。


私は指を止めた。

『電話に出るな』というメモ。

だが、これは通話ではない。録音されたメッセージだ。

再生してはいけないのか?


発信元を見る。

『不明』ではない。

番号が表示されている。

「090-xxxx-xxxx」


見覚えのある番号だ。

私の電話帳には登録されていない。

だが、私はこの番号を、最近どこかで見た気がする。


業務委託契約書だ。

緊急連絡先欄。


『漆原 京介』


背筋が凍りついた。

漆原は半年前に失踪し、今は「箱」の中――そして目の前の肉塊カメラの中にいるはずだ。

その彼から、電話?

いつ?


着信日時を見る。

2024年10月08日 03:00


私が記憶を失っている間の、深夜三時。

過去の漆原から、未来の私へ?

それとも、あの肉カメラが、勝手に電波を発して私にかけたのか?


肉塊カメラが、ドクンと強く脈打った。

液晶の目が、私を見ている。

『聞け』と言っているようだ。


私は震える指で、留守番電話の再生ボタンを押した。

スピーカーから、ザザッというノイズが流れ、そして、懐かしい、あのしわがれた声が聞こえてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る