第23話 Voice_Message:漆原から主人公への留守電(日付不明)

スマートフォンのスピーカーから流れてくるノイズは、潮騒に似ていた。

ただし、それは海の水音ではない。

無数の電子データが擦れ合い、砕け散る、デジタルな情報の波打ち際の音だ。


私は唾を飲み込み、耳を澄ませた。

肉の塊と化したカメラが、机の上でドクン、ドクンと脈打ち、そのリズムが受話口からのノイズとシンクロしている。


『……あー、聞こえるか』


漆原京介の声だ。

間違いなかった。

あの粗野で、どこか人を食ったような、しかし今は深い疲労と諦念に塗りつぶされた声。

録音状態は酷く悪い。まるで、深い海の底から、あるいは分厚いコンクリートの壁越しに喋っているように、声がこもって響いている。


『今、そっちは何月何日だ?

いや、答える必要はない。俺には聞こえないからな。これは一方通行のメッセージだ。

それに、ここにはカレンダーなんてない。

あるのは「記録」だけだ。再生されるのを待っている、永遠の「今」だけだ』


私はスマホを握る手に力を込めた。

やはり、この電話は「過去」からではない。

「箱」の中から掛かってきている。

漆原は死んでいない。彼はあの祭壇の箱の中で、データの一部としてまだ意識を保っているのだ。


『これを聞いているお前。

名前は知らないが、俺のデータを弄っている編集者だろう。

お前、今、酷い顔をしてるぞ』


心臓が跳ねた。

私は反射的に、部屋の鏡を探そうとしたが、鏡などない。

あるのは、PCに繋がれたカメラのレンズだけだ。

あのカメラの「目」が、私を見ている。

そして、その視覚情報が、箱の中の漆原へと共有されているのだ。


『鼻血が出てる。目も充血してる。部屋中、紙切れだらけだ。

……ハハッ、傑作だな。俺が最後に見た自分の顔とそっくりだ』


乾いた笑い声。

だが、すぐにその声は真剣なトーンへと沈んだ。


『いいか、よく聞け。時間が惜しい。奴らが気づく前に伝えておく。

俺は失敗した。

俺は、自分が「撮る側」だと思っていた。

カメラという武器で、怪異を切り取り、支配できると思っていた。

だが、違った。

俺たちは、撮らされていたんだ』


ノイズが激しくなる。

ザザッ、ザザッという音の向こうで、遠くの祭り囃子のような音が聞こえる。

ピーヒャラ、ドンドン。

いや、それは楽器の音ではない。

人の悲鳴と、骨を叩く音で構成されたリズムだ。


『小島だ。

あのアシスタントの小島に気をつけろ。

俺はずっと、あいつをただの鈍臭い若者だと思っていた。

だが、あいつはこの村の出身じゃない。

もっと悪い。

あいつは「呼び水」だ』


漆原の声が早口になる。


『あいつが連れてきたんだ。俺を。そしてお前を。

あいつのカメラワーク、お前も気づいただろ?

あいつは、映しちゃいけないものを、わざとフレームの端に入れている。

サブリミナルじゃない。

あいつは「道」を作ってるんだ。

こちらの世界と、あちらの世界を繋ぐための、視線のパスを』


私は息を呑んだ。

あのトンネルでの映像。

小島が撮った映像に映り込んだ、小島自身の姿。

あれは心霊現象などではなかった。

小島自身が、カメラを使って意図的に「向こう側」を招き入れていたのだとしたら?


『俺は箱の中で、あいつの正体を見た。

あいつは人間じゃない。

いや、かつて人間だったモノの集合体だ。

三十年前に消えた村人たちの「誰かが見つけてくれるはずだ」という執念が固まって、人の形をとったのが小島だ。

だからあいつは、俺たちみたいな「記録係」を誘い込む』


『編集者、お前もそうだ。

お前が今やっている作業。

カットを割り、テロップを入れ、音を整える。

それは、映画を作っているんじゃない。

「受肉」の手伝いをしているんだ。

バラバラだった俺たち(データ)を、一つの物語として再構築することで、現実に固定しようとしているんだ』


ドスン。

机の上のカメラが大きく跳ねた。

まるで、その話を止めようとするかのように。


『やめろ! 手を止めろ!

完成させるな!

完成したら、それはもうただの動画ファイルじゃない。

「門」になる。

お前のPCが、お前のモニターが、奴らが大量に雪崩れ込む玄関になるぞ!』


漆原が叫ぶ。

しかし、その声に混じって、別の声が聞こえ始めた。


『……せん……せい……』


小島の声だ。

甘ったるい、粘着質な声。


『……漆原先生……まだ喋れるんですか……?

凄いなぁ……容量(タフ)だなぁ……』


『来るな! 寄るな!』


『……静かにしてくださいよ……今、新しい人が……繋いでくれているんですから……

……あ……もしもし?

高木さぁん? 聞こえてますかぁ?』


スマホの向こうから、小島の声がした。

録音メッセージのはずだ。

一方通行のボイスメールのはずだ。

なのに、小島は私の名前を呼んだ。


『聞こえてますよねぇ。

だって、あなたの耳、もう半分こっちにありますもんねぇ』


「……っ!」


私は慌ててスマホを耳から離し、通話終了ボタンを押そうとした。

だが、画面が反応しない。

画面の中の数字キーが、すべて「目」のアイコンに変わっている。


『切っちゃ駄目ですよ。

漆原さんの遺言、最後まで聞いてあげてくださいよ。

それが「供養」でしょう?』


『……逃げろ、高木!

電源を抜け! 物理的に破壊しろ!

ハードディスクをドリルで砕け!

そうしないと、お前も……』


『……お前も……』


ザザザザザザザッ!!


激しい砂嵐の音。

そして、グチャリという、濡れた肉が潰れるような音。


『……あ……あ……』


漆原の声が、くぐもった呻き声に変わる。

水の中に沈められたような音。


『……あ……る……』


『……サ……グ……メ……』


声が変わった。

漆原の自我が、ノイズの海に溶けていく。

最後に残ったのは、無機質な合成音声のような響きだけだった。


『……記録……完了……』


プツッ。


通話が切れた。

ツー、ツー、ツー、という電子音が、静寂を取り戻した部屋に寒々しく響く。


私はスマホを取り落とした。

床に落ちたスマホの画面には、いつの間にか壁紙が設定されていた。

真っ黒な背景に、赤い文字で一言。


『Continue?』


私は震える手で顔を覆った。

電源を抜けと言われた。

物理的に破壊しろと言われた。

理屈ではわかっている。それが唯一の助かる道だと。


だが、体は動かなかった。

視線が、PCのモニターに吸い寄せられる。

そこには、編集ソフトのタイムラインが広がっている。

私が記憶を失っている間に組み上げた、狂気のモザイク画。


美しい、と思ってしまった。

何千ものカットが、完璧なリズムで噛み合い、一つの巨大な奔流となって「結末」へと向かっている。

あと少しだ。

あと数ピース埋めれば、この作品は完成する。


クリエイターとしての業か。

それとも、既に脳の構造が書き換えられているのか。

「完成させたい」という欲求が、恐怖を上回っていた。


「……小島」


私は呟いた。

奴が元凶だ。

奴が私をここへ引きずり込んだ。

だったら、見てやる。

奴がどうやって壊れたのか。

いや、どうやって「本性」を現したのか。


机の上のカメラが、ズルリと動いた。

レンズが私の方を向く。

その瞳は、さっきまでの漆原の悲痛な目ではなく、もっと昏い、底のない闇の色をしていた。

小島の目と同じ色だ。


PCの画面上で、次のファイルが点滅している。

私が記憶のない間に、既にインポート済みのファイルだ。


『Video_06:アシスタントの錯乱と失踪.mp4』


「……見せてみろよ」


私は掠れた声で言い、スペースキーを叩いた。

再生が始まる。

物語の「転」が、最悪の形で幕を閉じようとしていた。


   ◇


<動画再生開始>


画面が揺れる。

カメラを持っているのは小島だ。

だが、その映像は、これまでとは明らかに質が違っていた。

手ブレ補正が効いていないかのような、激しい振動。

そして、色彩がおかしい。

空は紫に、木々は赤く映っている。

カメラのセンサーが異常をきたしているのか、それとも、小島の目には世界がこう見えているのか。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


荒い息遣い。

場所は、あの祭壇のある洞窟から逃げ出した後の山道だろうか。

いや、違う。

見覚えのある風景だ。

公民館だ。

最初の日に訪れた、あの公民館の廊下を、小島は走っていた。


「いない、いない、いない」


小島がブツブツと呟いている。


「どこにもいない。出口がない」


カメラが玄関の方を向く。

光が差し込んでいる。

小島がそこへ駆け寄る。

引き戸を開けて、外へ飛び出す。


だが。

飛び出した先は、また「公民館の廊下」だった。


「……あ?」


小島が立ち止まる。

後ろを振り返る。

今出てきたはずの玄関の向こうには、やはり公民館の廊下が見える。


「なんでだよ……」


小島が再び走る。

突き当たりの窓を割って、外へ出ようとする。

ガシャーン!

ガラスが砕け、庭へ転がり出る。


しかし、立ち上がって顔を上げると、そこは畳敷きの大広間だった。

壁一面のビデオテープ。

生存者名簿の置かれた机。


「あはは……あはははは!」


小島が笑い出す。

カメラがぐるりと回転し、小島の顔を映す(自撮りアングル)。

その顔は、笑っていた。

涙を流しながら、頬が裂けんばかりの笑顔を浮かべている。


「閉じ込められたんじゃない。

戻ってきたんだ。

ここは『箱』の中だ。

村全体が、テープの中にダビングされたんだ」


小島がカメラに向かって語りかける。


「ねえ、見てるんでしょ?

未来の誰かさん。

ここから出られないって思ってるでしょ?

違うよ。

出る必要なんてないんだ」


小島が、床に散らばるビデオテープの一本を拾い上げる。

その黒いケースを、ガリガリと爪で引っ掻く。

プラスチックが削れ、中から黒い磁気テープが引きずり出される。


「僕たちは、情報になったんだ。

0と1の信号になったんだ。

だから、コピーできる。

無限に増えることができる」


小島は、引き出した磁気テープを、自分の口へと持っていった。

そして、スパゲッティのように啜り始めた。


「んぐ……むぐ……」


オエッ、とえづきながらも、彼は黒いテープを飲み込んでいく。

喉が奇妙な形に膨らむ。


「美味しいよ。

みんなの記憶の味がする。

三十年分の恐怖の味がする」


カメラが、その異常な食事風景をクローズアップで捉え続ける。

小島の口の端から、黒い唾液が垂れる。

それはインクのように黒く、床を汚していく。


やがて、一本分のテープを全て飲み干した小島は、満足げに息を吐いた。


「さあ、次は僕を食べて」


小島がカメラレンズに顔を近づける。


「僕を編集して。

僕のこの姿を、世界中に配信して。

そうすれば、僕の腹の中にある『村』が、みんなの画面の中に種を撒くから」


小島が立ち上がる。

そして、大広間の隅にある、押し入れの方へと歩き出す。

あの、白い手が手招きしていた押し入れだ。

今は、襖が全開になっている。


中は、漆黒の闇だ。

底なしの穴が空いているように見える。


「行くよ。

漆原先生が待ってる。

新しい『器』の準備をしなきゃ」


小島は、カメラを床に置いた。

レンズが、押し入れに向かう小島の背中を捉える。


彼は、躊躇なく闇の中へと足を踏み入れた。

その瞬間。

彼の体が、解けた。

輪郭が崩れ、ノイズの粒子となって拡散し、闇の中に吸い込まれていった。


残されたカメラは、無人の大広間を映し続ける。

だが、その映像に変化が起きた。


ビデオテープの山が、ざわざわと動き出したのだ。

数千本のテープが、まるで黒いゴキブリの大群のように床を這い、カメラに向かって押し寄せてくる。


カサカサカサカサカサカサ……。


テープたちが、レンズを覆い尽くそうとする直前。

画面の中に、一本のテープのラベルが鮮明に映った。


『高木彰 様』


プツン。


   ◇


動画が終わった。

私は呆然と画面を見つめていた。


最後のテープ。

私の名前が書いてあった。

三十年前の廃村に、なぜ私の名前がある?


いや、違う。

あれは過去の映像じゃない。

「今」の映像だ。

このPCの中で生成された、リアルタイムの映像だ。

PCのデスクトップという「大広間」で、データという名の「テープ」が、私を飲み込もうとしているのだ。


私は、机の上の肉塊カメラを見た。

カメラは静かになっていた。

だが、そのレンズの奥で、微かに赤い光が点滅している。


『準備はいいか?』


脳内に、直接声が響いた。

誰の声でもない。強いて言えば、私自身の心の声だ。

だが、それは明らかに外部から強制された思考だった。


『素材は揃った。

次は、お前の番だ。

お前の「真実」を書き加えろ。

それですべてが完成する』


私は、ふらつく手でキーボードに触れた。

もう、抵抗する気力は残っていなかった。

ただ、この物語を終わらせたい。

どんな結末であれ、この永遠に続くノイズから解放されたい。


私は、最後のフォルダを開いた。

『Document_D:漆原京介の手記(スキャン画像)』。


これが、最後のピースだ。

漆原がなぜこの村に固執し、何を終わらせようとしていたのか。

その真相を知った時、私は本当の意味で「継承者」となるのだろう。


私は、自嘲気味に笑いながら、ファイルをクリックした。

部屋の歪みが、極限まで達していた。

天井が床につきそうなほど低く垂れ込め、壁が脈打っている。

ここはもう、私の部屋ではない。

箱の中だ。

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