【エピローグ:感染経路】
202X年 7月15日 筆者(私)の自宅
私は今、震える手でこの原稿を打っている。
Kから預かったハードディスクは、すでに物理的に破壊した。ドリルで穴を開け、塩水に浸した。
だが、遅すぎたようだ。
異変は、私がこの記事の構成を考えている最中に起きた。
ふと、PCのモニターの縁(ベゼル)と、液晶画面の間のわずか数ミリの隙間が気になった。
そこに、視線を感じたのだ。
気のせいだと思い、作業に戻ろうとした。しかし、キーボードを叩く私の指のリズムに合わせて、部屋のどこかから「カチ、カチ」という音が反響する。
最初は壁だと思った。次は床下だと思った。
違う。
音は、「私の中」から聞こえていた。
鏡を見た。
私の左目。まぶたと眼球の隙間に、何かが挟まっていた。
ゴミではない。
それは小さな「唇」だった。
私の眼球の裏側から、小さな唇が「隙間」をこじ開けて、外を覗いていたのだ。
その唇が、私の脳内に直接響く声で囁いた。
「……見つけた。ここも、空室だ」
私は理解した。
S団地は発生源に過ぎない。
彼ら――「隙間」に住む者たち――は、物理的な空間だけでなく、情報という空間を移動する。
須田拓海の記録。Kの音声。
それらを文字に起こし、こうして物語として構築することで、私は彼らに「通り道」を作ってしまったのだ。
今、私の背中の皮膚が、内側から引っ張られている。
誰かが、私の背中のチャックを下ろそうとしている。
いや、違う。
私が「古い皮」なのだ。
中から出てこようとしている彼こそが、新しくて、整理された、正しい「私」なのだ。
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