すべてのラブコメに告ぐ、光に溢れよ

海辺_雪(Watabe_Yuki)

第1話 


[chapter:1   箱と彼女]


彼女は僕の初恋の相手だった。最悪の女だった。今でいうツンデレとか、ヤンデレとかそんな可愛いものではない。包丁を持ち出すとかそういうヒステリックなこともしない。むしろそれは僕の方だ。彼女はただひたすらに『切実』だった。人間が生きていくために必要な『ネジ』みたいなものをどっかに落としてしまっていて、それをどうにかして取り戻そうと死に物狂いであがいていた。  彼女とは、11月の最初の月曜日に、メンタルクリニックで出会った。綺麗とも可愛いとも言い難い。普通。髪がふわふわしてて、しかも長すぎる。それが第一印象だった。 そのメンタルクリニックは順番制を導入していて毎月同じ人と顔を合わせることがあった。僕は必ず月初めの月曜午後が診察日だった。  会釈したのは僕の方だったと思う。人間の礼儀としてそうすべきだと思ったからだ。彼女は下を向いて無視した・・・とその時は思った。別に腹は立たなかった。なぜって僕は三カ月間、強烈な精神安定剤をぶち込まれ続けていた。髪も爪も伸びっぱなし。風呂にもほとんど入ってない。ひげも生えてれば完璧だったけどそれは産毛程度しか伸びなかった。いずれにしても、そんな奴に話しかけられて楽しい奴はいないだろう。その日は珍しく特別混んでいて、彼女が僕の隣に座った。 「すいません。いきなり。」 彼女がしゃべった。数秒してからやっと僕に対して話してくれたんだと分かった。なにか恐るべき冒険をしているような表情だった。気持ちがわかる。初対面の人に話しかけるのは本当に辛い。 「う」 う。僕に言えたのはそれだけだった。「うん」まで言い切る気力がない。とにかくそれ以来、挨拶はしてくれるようになった。  時間だけは無限にあった。一応の人前に出る礼儀として、親に髪を切ってもらい(母が美容院で昔バイトをしていた)、薄い髭をそって、爪を切って歯磨きをして、風呂に入る様になったのはひとえに彼女の功績といっていい。薬の量が減らされ、種類が変わったせいもあるけれど。


[chapter:2   豚の詰め箱と男]  


2003年の夏。僕はまだ高校生だった。すべての都合の悪いものを見ないようにして僕らは夏だけを共有していた。いつもと同じ、何か起こりそうで、何も起こらない夏。社会では企業が統廃合を繰り返していた。死亡率15%という凄まじい疫病であるSARSがパンデミックの兆候を見せていた(ちなみに、14世紀ヨーロッパ人口を三分の一まで激減させたペストは死亡率10%と言われている)。小泉内閣が発足して膠着した政治状況を好転させようと奮闘していた。  だけどそれらの話題を学校で耳にしたことなんて一度もない。僕らはそういった意味の危険から一番遠い場所に隔離されていた。遠くで蝉の鳴く声が聞こえ、風の吹きこむ教室の中。自分で何か選んでいるようで、実は何も選べない。そんな『箱』の中に僕らは押し込められていた。  そんな場所で突然、僕は発狂した。  ちょっと思い出してほしい。学生だった頃のあの訳の分からなさを。大人の誰もが、学力で僕たちを見ていた。ちょうどどの豚が一番肥えているか図るみたいに僕らを見ていた。君は特進クラスにいた。なぜって、君は最初の模試で英語と国語で偏差値70を叩きだしたからだ。この豚は使える、大人はそう思ったのかもしれない。   クーラーのない教室。頭蓋骨を軋ませる、何の役に立つのかだれも説明してくれない公理と定理。英語の単語。君がいつアメリカに行くって宣言したんだ?学校は確かに(比較的)安全だった。だけど『意味』というものが完全に欠落していた。  そして目の前に座る友人が、すげえええええええ臭いんだ。まるで1000年間発酵させたキムチみたいな臭いがするんだ。その臭いが教室中に絶え間なくぶちまけられてる感じなんだ。 でも何も言えない。なぜってその男は、君のことを友達として見てくれた、ただひとりの友達だからだ。  君は親から無言で、あるいははっきりと勉強しろと言われてきた。とにかく勉強した。いつか役に立つと信じて。だけどだんだん調子がくるってきた。上手く集中できない。覚えても覚えても次のページに次の課題がある。終わらない砂漠を歩き続けてる。歩き続けろと言われる。いいことがあるからと。英単語が何なんだろう。本当に、本当に何の役に立つんだろう。この日本で?別に金儲けしたいわけでもないのに?でもとにかく詰め込む。すくなくとも覚えようとする。だけど頭の中に白い砂漠のイメージばかり浮かんでくる。  明らかに君は少しずつ壊れてきている。言うことがおかしくなる。君は夕食後、時にぶっ続けで3時間くらい親に今日の出来事からニュースの話から読んだ本の話やら笑えそうなジョークの話をする。僕の両親は忍耐力があった。でも何か変な眼で君を見ている。なんでそんな表情をするのかと思うと急に涙が止まらなくなる。父親と母親が君をしっかりと抱き締める。君はその手を振りほどく。なぜって恥ずかしいからだ。君にもプライドがある。誰にも弱いと思われたくないという切実なプライドが。君は勉強机に向かう。親に自分はタフなんだとアピールする。もう数日間、君はうまく眠れていない。    その男は、そんな君と通学路が一緒だった。とりあえず、臭いは置いておく。男はなんかいいやつすぎた。君がフラフラ歩いているもんだから心配して話しかけてくれた。君は大丈夫だといった。「道路が揺れてるだけなんだ」と。男は黙って聞いてくれた。そんなつもりはないのに、君は学校まで行く間中、聞くに堪えない暴言を何度も何度も繰り返し、形を変えてまさに罵詈雑言の嵐を周囲の世界にまき散らしていた。なんだかその内容は今思っても全く意味をなさない言葉のサラダという奴だった。ちょっと表現がはばかられる形容詞と形容詞が交尾してどうしようもなく新しい罵倒の言葉が生まれ続ける。次から次にだ。 信じられないと思うけど、男はその間中、ずっと背中をさすってくれた。信じられるか?でもとにかくそんな奴だった。学校につく頃、君の中の怒りの嵐はやっと収まる。そして猛烈に恥ずかしくなってくる。 「大丈夫?」 男は本当に心配そうに聞いてくる。君は大丈夫と答える。とてもじゃないがそんな男に、君は臭いなんて言えなかった。  ごめん僕の話だった。君の話じゃない。君は僕なんかよりはるかにまともなのはちゃんとわかってる。でもなんとしても想像してほしかったんだ。 僕の事。友達なんて一人もいない僕を人間として見てくれた、たったひとりの男の事を。  そして、その日からなんとなく学校の行き帰りと、休み時間に、その男と僕はつるむようになった。というか、僕はそいつがどこにいても学校中を探して歩いていた。そいつがいないとほとんど机をたたき割りそうなくらい不安だった。正直こうやって書きだすとなんかもう、死にたくなる。でもとにかくそうだった。まあ大体は臭いでどこにいるかわかった。そいつは絶対にライオンか何かに生まれるべきだったと思う。すくなくとも草食動物は絶対にダメだ。どんくさいし臭いし確実に追跡されてケツを齧られる気がする。その男にはちゃんとわかっていた。僕が何か深刻で解決不能の問題を抱えていることが。そして、解決できない以上、決して口に出さないことが男同士のルールだということが。僕も臭いとは一度も口に出さないで済んだことは一生の誇りだ。無言で結ばれた不戦条約。  すこし肥満気味。少しくどい顔。優しいクマ。僕が思うに、男はそれほど裕福な家で生まれたわけじゃない。公営住宅の一隅が彼の家族の居場所だった。  彼は学校にも行きたくなかった。心の底で、自分の生来もって生まれた性質から必然的に生じる問題について友人達から指摘されることを恐れていた。少年時代から、よくそのことでからかわれた。もちろん、それによって男は傷ついたが、それで他人と喧嘩なんてできなかった。その方法をだれも教えてくれなかったからだし、元々暴力なんて彼のステータス一覧表には記載されていなかった。だから別に平気という顔をせざるを得なかった。ほかにどんな方法で男にプライドを守る方法があっただろう。おかげで、彼をあざける人間はますます増えた。  彼はRPGゲームを愛していた。あるいは当時最新のファンタジー小説を。かれはそこに脱出口を見つけることができた。剣。魔法。無限に広がる制約のない世界。それこそが彼にとって『世界』だった。現実はその世界に浸る前の悪夢以外の価値を彼に示してくれなかった。  彼ははやく『箱』から出たいと本気で願っていた。でも学校生活はどうだ?と父や母に聞かれれば「楽しいよ」と答えた。男は両親を自分の問題で傷つけたくなかった。父と母はそれを聞いてほっとする。激務の連続で、小さくしぼんでしまったようなその顔が、すこしだけ和らいだ顔になる。楽しめよ、なんて死ぬほど的外れなアドバイスを男に贈ったりする。そこには本当に良かった、という安堵の思いがぎっしりとこもっている。両親にとって、男は生きる意味そのものだった。  男は授業の合間合間にもしばしば『本当の世界』に逃避した。その世界で、彼は剣士だった。それほどイタいというほどの妄想じゃない。主人公たちの傍で、一緒に戦う。それだけ。決定的な役割なんてひとつも果たせない。でもその世界において、登場人物たちが男の事を『仲間』と認めてくれている。男は彼らの為に命を懸けることができて、彼らもまた男の為に命を懸けてくれる。あるいは夜、皆でたき火を囲む。ささやかな談笑の中に、男の居場所がちゃんとある。  男は命と知恵の限りを尽くして、ボロボロになるまで戦う。そのことを、仲間の皆が認めてくれている。ついに歩けなくなった男を、ヒロインが抱きしめてくれる。大粒の涙を零してくれる。男はヒロインに恋していた。でもそんなこと言えない。なぜってそのヒロインは主人公に恋をしているからだ。苦しめたくなかった。主人公はすべてが終わった後、血まみれの男を抱えて故郷へ戻る。彼は物語の最後にしっかりとしたお墓に入れられる。柔らかく、美しい花に囲まれた陽だまりの丘に。  気が付くと、男は先生から名指して呼ばれていた。何が何やらわからない。「キモ」と斜め後ろの女子が呟く声が聞こえただけだった。  僕は学校にその男がいると、いつもの「大人しい奴」を演じ切ることができた。理系科目の成績は下がる一方だったが、相変わらず国語と英語だけがずば抜けていた。普通科の連中からは妬まれ、同じ特進クラスの連中からは軽くみられる特進クラスの落ちこぼれ野郎。それが僕の立ち位置らしかった。  もっともそれは後になってから冷静に分析すればって話。そんなことに気を配る余裕は全くなかった。相変わらず授業は意味というものを欠落させて進行していたし、眠れないし、そんなこと以上にとにかく感情のバランスが取れない。まるで怒りと悲しみが脳みその中でジェットコースターを作ってらんらんらんらんらんらんらん遊んでるみたいだった。だがすくなくとも、その男とつるんでからはそのジェットコースターの角度がぐんと緩やかになった。そいつとどんな話をしたのか覚えていない。だが間違いなく僕が一方的にしゃべり、男は聞き役に徹してくれていたことだけは確かだ。上手くいっていたんだ。あの日までは。  2003年、高校3年の夏休み。最初の日。よりにもよって、そいつは特進クラスの夏期講習に来た。大体の「使える豚」は予備校に行っていて「使えない豚」がギュウギュウに詰め込まれてるその教室に、そいつは来た。ゴジラのテーマでも流すべきだった。あるいはベートーヴェンの『運命』とか。 とにかく、そいつは僕を見つけて僕の前に座った。本当に不思議なんだけど、最初から最後まで、クラスであいつ臭くね?とか言う奴がいなかった。「私は吃音障害がありましてね」と自己紹介した英語の教師がいて、別にそいつに一ミリの興味も持てないまま授業が淡々と進行していた。誰も何もしゃべらない。夏だけ。あるいは1000年の封印を解かれたキムチだけ。皆一人一人がセンテンスごとに起立して文章を読まされる。  次第にそれどころじゃなくなってくる。目が痛い目が痛い。臭気なんてかわいいもんじゃない。兵器みたいに涙腺にしみる。だんだんとセンテンスごとに呼吸器官まで、締め上げるみたいに息がうまくできなくなった。 男の読み上げる番。バチッと頭の「中」で音がした。しっかりと、即物的な音。物理的な衝撃を感じる音が。そのあと「はっ」って僕が叫んで立ち上がってた。みんなが僕を見た。言い訳しようとした。小さな目を丸くして僕を見る、その男に。そうじゃないんだって言いたかった。目の前に教科書しかなかった。英語の教科書しか。それが台本だった。立ち上がったら、センテンスごとに読み上げればいい。それで全部終わればいい。 ―――読めばいいんだ。 あとは怒涛だった。どうしようもない。次から次に読み上げてやった。センテンスからセンテンスへ。次のページ。センテンスからセンテンス。発音記号。ページ番号。センテンスからセンテンス。センテンスからセンテンス。チャイムが鳴った。次のページ。次のページも。とにかく終わらせたかった。何もかも。またチャイム。うるせえんだよ。そしてまた次のページ。最後のページ。終わりのあとがきらしいなにか。発行した会社の名前。裏にマジックで書いた自分の名前、最初の表紙。最初の  男が  腕に触れていた。なにか腕をさすってくれた。なにか言いたそうだった。言いたいのは僕の方だ。臭いって言いたいわけじゃなかった。それを分かってほしかったんだ。それを伝えたかったんだ。気付いたら泣いてた。すげえ不細工な顔してたと思う。しゃくりあげる感じの、あの一番みじめな感じで。とにかく、そいつが腕をさすってくれてたんだ。    今、書いててやっとわかった。あの時、何が一番つらいって『僕が』耐えきれなかったことだった。他の誰かが臭くねーかとかアイツマジなんなのとか言ってくれれば誓って泣いたりしなかった。みんな驚異的に我慢強かった。そこには思いやりらしきものがあった。よりによって、一番そいつに耐えきれなかったのが僕だったのが死ぬほどつらかった。あの頃は、うまく言葉にできなかっただけで。  その後はよく覚えてない。先生だか、(その日限りの)クラスメイトだかに保健室に連れられて、3時間くらい妄想してたら親が来て、家に連れてかれた。それ以来、僕は学校に行ってない。お情けで高校卒業。男ともそれきり。今なにしてんだろ。親とかになってんのか。というかなんで一度も電話とか、とにかく会いたいって言ってこないんだ。僕にお前以外友達いないこと、知ってただろ絶対。


[newpage] [chapter:3   漂白された箱と僕]  


で、カウンセリングだかを受けさせられて、そいつがやたら上から目線でなんか嫌いだったから黙ってた。あっという間にメンタルクリニックに回された。精神科の病院。親同伴。「大丈夫だからね。」とお母さんが言ってた。いや僕も大丈夫なんだけど。なんで僕はここにいるんだ。森の環境音と穏やかなピアノの曲を組み合わせた優しい音楽。清潔な白い待合室。すべてが漂白されて清潔に思えた。ナショナルジオグラフィックと、寄贈されたらしいラブコメディの小説がどちらもシリーズで置いてあった。  最初の診療日。その日は僕と母以外誰もいなかった。置いてあったラブコメ小説を読んだ。多分、生まれて初めて読んだラブコメだと思う。最初の一行から躁病みたいにヒロインの心が弾んでいた。彼女の一人称を通して部屋の中の「好きなもの」と「嫌いなもの」が異常なほど細かく語られて状況が一向に進まない。  それが逆に面白くなってつい読み進めてしまった。ヒロインが部屋から出る前に僕の名前が呼ばれた。 診察室に、先生がいた。なんだかさえない感じでどうぞ、と促され、席に座る。見れば見るほど、いやどうみても治療が必要なのはそっちだろと突っ込みたかった。 「顔色悪いけど大丈夫ですか?」 とにかくそれを先に聞いた。大丈夫だよ、と先生が言った。あの絶望的な笑顔はなんというか、壮絶だった。 「でも最近、よく眠れないんだ。君はどうだい?」 「べつに・・・ふつう」 「そう。」 それでその日の診察終わり。信じられないが本当にそうだった。帰り際に挨拶もない。  その次の週。読みかけのラブコメの続き。ヒロインは学生で、図書委員だった。好意を抱いている男の子がいる。お互いに何も言わない。無言の、名前のつけようもない動作の端々が精緻に描かれている。時間経過や周囲の状況に合わせて、お互いのささやかな仕草と表情だけで『会話』が進行していく。ホントにラブ「コメディ」というべきものなのか疑問はあったが、ともかく一つ言えるのは一話読むごとにヒロインと男の子の関係性だけが言葉ではなく視線や仕草だけで深まっていくことだけだった。  診察が始まった。先生は一週間で一年くらい老け込んでる感じがした。 「眠れてるかい?」 「はいまあ。先生は?」 「全然だめだ。でも平気だよ。」 「・・・本当は三時間くらいしか寝れない。」 「そう。」 それでその週の診療も終わり。なんだこれ。本当にそう思った。なんで僕はここにいるんだ。  次の週。ラブコメの続き。男の子が初めてしゃべる。「図書委員の仕事で、何か手伝えることある?」と。ヒロインは反射的にないと答えてしまう。そしてそのことを後ですごく後悔する。でも直接なんて言えない。男の子は自分の友達の輪の中にいたし、ヒロインもクラスの女子から何か言われたくなかった。―――また僕の名前が呼ばれた。そしてこの日からしばらく、僕はこの本を『読めなくなる』。  診察室。僕は思い切って聞いてみた。 「あの、ぼくここにいる意味わかんないです」 「私もだよ。」 笑ってしまった。今思い出してもその返しは秀逸だと思う。心のガードをちょっと緩めてしまった。 「先生はもっと寝たほうがいいよ」 「ありがとう。そうするよ。」 「ともかく僕は健康だから。」 「眠れないときはどうしてるのか、聞いていいかい?」 「何もしてない。」 「何もしないと、いろいろ考えるだろう?私は天井を見てる時が一番つらい。何がって、仕事のことが頭に浮かぶんだ。君はどうしてる?」 僕は、何も考えない。何も考えることがないのがつらい、のか?とにかくあれ以来僕のプライドらしきものはズタズタで回復不能だった。精神的活動停止。成り行き任せ。機械的にご飯を食べて、音楽を聴いてるだけ。一日おしまい。どんなに思い出そうとしても、季節感が思い出せない。多分クーラーの効いた部屋っていう箱からほとんど出なかったからだと思う。音楽を繰り返し聴きすぎて中耳炎になって、耳鼻科に行ったくらいで、あとはこのメンタルクリニックと部屋を往復した記憶しかない。  それでも僕は率先して家事をやった。床を磨いたし、風呂掃除をした。ごみの分別を覚えて曜日ごとに間違いなく捨てたし、皿洗いもした。キッチンの掃除も大切だ。洗濯物を洗濯機に放り込んで、干して、僕と、お母さんと、お父さんに分けて折りたたんだ。お米をといで炊いておいた。家じゅうのホコリというホコリをすべて雑巾でふき取った。控えめに言って、僕は間違いなくベストを尽くした。たとえその間、大声で奇声を発し続けていたとしても。ぜったいに包丁を触らせてもらえなかったり、買い物のためにスーパーに行くことはさせてもらえなかったとしても。深夜になるたびに町内を徘徊していたとしてもだ。  とにかく先生に変な奴だと思われたくなかった。細部まで一つ一つ説明した。玄関の靴をきちんとそろえておくことがいかに大事かという話、ハイターは原液を入れすぎてもかえって効果が落ちるだけという話、だんだんと夢の中でも掃除するようになって目が覚めるとすごい損をした気分になることなんかを。診療時間は絶対にオーバーしていたはずだが、そのことについて先生は特に何も言わなかった。 「なるほど。君は努力している。」 「うん。」 「どこもおかしくはない」 「そう」 わかってくれたらしい。僕は満足していた。 「なあ、もし君さえよければなんだが、せっかくだし、お母さんを安心させてあげるというのはどうかな」 「え?」 「つまり、ごくごく効果の薄い、よく眠れるようになる薬を私が処方するわけだ。ほんの形式的にね。私はお母さんに薬を飲むよう伝えたので大丈夫ですと言うわけだな。お母さんは安心するだろう」 今思い出しても本物の狸野郎としか思えない。でもその時僕は認められた恍惚状態でまあいいかくらいにしか思っていなかった。その日初めて、(薬の名前は伏せるけど)『形式的で、効果の薄いよく眠れる薬』が一日2錠で一か月分処方された。あの弱々しい仕草。弱々しい笑顔。あの老人の仕草のなにもかもが、その日のための布石だったわけだ。僕には全く見抜けなかった。それがとびっきり強い精神安定剤だと実体験で知ったのはその次の日からだった。    医学は素晴らしい。劇的な効果だった。僕は狂人から廃人にクラス替えした。朝起きる。なんとお父さんが朝ご飯を部屋に持ってくる。「飲みなさい」といって薬を渡す。のまざるを得ない。「あーんしてごらん」と言われる。従わざるを得ない。それからご飯を食べて20分後には完全にベッドから起き上がれないまま一気に昏睡状態に急降下していく感じだった。    とにかく、とにかく眠い。いやそもそも意識が保てない。5メートル先のトイレに行こうとして漏らしたと言えば少しは伝わるだろうか。なにもできない。たまに覚醒しても安らかすぎる暖かすぎるけだるさだけ。僕はほとんど死んでいた。リビングデッド。毛布にくるまるゾンビ。    その頃の写真が一枚だけ手元にある。目元がおかしい。その視線の先にはレンズを向ける父がいたはずだが、その父親も、その先にあるはずの壁も見ていない。すべてを透過して夢を見てる。その夢をはっきりと思い出せる。現実に存在しないネバーランド。そこはすべてがぼんやりしていて、輪郭を喪失した底抜けに薄気味悪い世界だった。  そんな状態で三カ月間過ごした。11月の最初の週。大雪の降る直前。僕は本物のゾンビになりかけていた。爪も髪も伸びたまま。お風呂にも入れないから異臭もしてたと思うのだが、そんな相手に彼女は話しかけた。


[chapter:4   漂白された箱と彼女]  


数回程度、顔を合わせるうち、彼女は僕がほとんど外部に反応を示すことができない状態だったと気付いたらしかった。服装が思い出せない。だけど背丈に合ってない小さな赤いコートと白いマフラーをしていたことは多分間違いない。彼女はほとんど服なんて持っていなかったから。  この男子は多分頭がおかしい。お人形。裏切らない、口答えしない、バカにしない。彼女はついに決意したらしかった。わざわざ僕の隣に座って、最初に切り出した話を今も覚えている。彼女は自分の膝小僧をさすりながら前後に揺れていた。 「私、なんでここにいるのか分からないんです。みんなわたしのこと『疲れてる』っていうんです。お母さんが神経衰弱だって。でも、違う。ちゃんと私は生きてる。いろんな本をちゃんと読んでるんです!だれも―――話を聞いてくれないんです。またそういう話か、って感じの顔で、だれも話を聞いてくれないんです。」 彼女はそこまで言い切った後で、何度も深呼吸していた。その後で僕の横顔を見た。なにか恐ろしいものを見てる感じで。目の前の僕は無言。弛緩した顔。焦点の合わない目。僕は真っ白に漂白されていた。僕の名前が呼ばれて、10秒くらいして僕は最大限の力を振り絞ってやっと立ち上がって診察室へ入っていった。 「薬が合わないのかもしれないね」 審判の日。それが僕に下された判決だった。処方される薬が変更されて、その量も減った。 それ以来、その薬は増えることも減ることもなく、それ以後、老人が脳梗塞だかで死ぬまで処方され続けた。その薬のおかげで、僕はかろうじてベッドから脱皮できた。相変わらず『家』という箱の中以外居場所はなかったけど、前のように家事に精を出すことができるようになった。大声はなし。夜のお散歩も無し。父と母はやっと少し安心したみたいだった。 「薬が効いたんだね。」 真夜中。雪に埋もれる住宅街。いろいろな形の箱。その箱の中で、父が母と話していた。 「効いたんだよ。」  翌月、クリニックはいつものように閑散としていた。彼女は診察券をほとんど受付に叩きつけるくらいの勢いで渡してから、僕を探していた。ブーツが雪まみれで、ほとんど瞳孔が開き切っていた。  赤いコートは擦り切れていて、ほとんど彼女の背丈に合っていなかった。僕を見つけ、隣に座る。首からほどいた自分のマフラーに話しかける様にして話し始めた。ほとんど彼女はブレーキの壊れた機関車みたいにしゃべり続けていた。 「むかし、ホロコーストっていうことがドイツであって、多くの人が殺されたんです。『強制収容所』っていう箱の中で。たとえば、そこに子供がいて、殺されたとして、その子供に『人生は価値がある』ってどうして、いえるのか、分からないんです。例えば、生まれてすぐ燃えるごみに捨てられた子供とか。そんな子供に『世界には生まれてくる価値がある』って、言える人、いるんでしょうか。」 受付で彼女の名前が呼ばれたが、ますます彼女が過熱しただけだった。彼女はほとんど前後に揺れていた。すでに彼女はアクセルを踏みぬいて頭脳の性能限界点を超えてしまっていた。『語ること』で彼女自身についての何かを僕に伝えようとしていた。 「それで思うんだけど、そんな子供たちの人生に『意味』は存在するの?そんな残酷すぎる世界に生まれてくるだけの『価値』はあるの?世界中・・・戦争だらけ、病気だらけ、災害だらけ、理不尽なことばかりニュースで伝えているって思わない?生まれてくることは本当に『正しい』の?私はこの世界に『意味』も『価値』も存在しないんじゃないのってみんなに聞いてみただけ。私はちゃんと事実に基づいて話してる。間違っていないし、誰の事も責めていない。なのに・・・!」 歯軋りしてしゃべる人間を初めて見た。彼女の全身像は漏れ出した憎悪で歪んでるようにさえ思った。  要するに―――彼女は『この世界の理不尽さ』を強烈に憎悪していた。自分の持てるすべての論理性と言語能力を稼働させて、不条理極まるこの世界のあらゆる『意味』や、『価値』みたいなものを全否定しようともがいていた。  当たり前だけど、本当にすべてが無意味だと思っている人間が他人の首根っこを捕まえて、世界の無意味さについて髪を振り乱して語るはずがないのだ。意味があると思うからこそ語るのだ。つまるところ、僕の知る限り彼女だけが、自分が死ぬ間際に縋りつける『意味』や『価値』をありったけの力で探し続けていた。  老人も受付の人も、もう僕らを完全に無視していた。僕も彼女も診察を受け損ねていた。僕の診療時間が終わるころには母が来ていたはずだから、多分僕らを見つけたはずだ。そして驚愕したんだろう。小学生のころから、友達一人連れてこなかった息子が『女の子』と話しているわけだから。邪魔するべきではないと判断したのかもしれない。どこに視線を置いていいのかさっぱり分からず、僕は目の前の観葉植物をひたすら眺めていた。 「ねえ、眠っている間、なにか考えることってできる?お金だとか恋人の事。それって眠っている間、つまり死んだあとも同じだと思わない?子供が生まれても関係ない。『死んだら何も関係ない』ってことなら、今、私たちのいるこの世界って何?」 「ああ、それは確かに」 それは確かにそうだった。寝てる間は何も関係ない。先月までその道のプロだった僕が保証できる。寝てる間はすべてが無意味だ。僕が僕であることさえ。目の前の『人形』がいきなりしゃべって、その子はすこしびっくりした様子が視界の端に映った。もしかしたらその時初めて僕がちゃんと身だしなみを整えていることに気が付いたのかもしれない。いずれにしても、まともに聞いてるなんて思ってなかったのだろう。でもこうして再現できる程度にはちゃんと聞いていた。  とたんにあうあうあう・・・といった感じで彼女はしゃべれなくなってしまった。僕は何かフォローすべきだった。でも何を? 「ちゃんと聞いてる。強制収容所の話。また話してよ。」


[chapter:5   箱の外と、最悪のデート]  


翌月も雪が絶え間なく降っていた。まるで世界を白く塗り潰そうとしているみたいだった。また話してよといった以上、彼女の隣に座るしかなかった。何か楽しい話題がないか考えてみたけど何もない。不思議だった。男といた時は話題なんて考えたこともなかったのに。  彼女の方はしっかり話題があるようだった。今思うんだけど、つくづく彼女は思いつめていたんだなと思う。僕が彼女の立場だったら、是が非でも違う精神科に行ってしまって二度と顔なんて合わせないよう努める気がする。とにかく彼女は一冊の本を赤ん坊みたいにしっかり抱きしめていた。 「これが、私の『敵』・・・。」 そう言って彼女が本を見せてくれた。『夜と霧』と題された本で、彼女がよく例に出す『アウシュヴィッツで死んだ赤子』の元ネタというか、なぜ日本でドイツの強制収容所の話をしつこく持ち出すのか、その答えらしかった。 「読んで、みて。ちょっと、私が書き込んでて、汚い、けど。」 そういって彼女はそのまま帰ってしまった。僕はカバンも何も持っていなかった。クリニックでビニール袋を2枚余分にもらって、濡れないように細心の注意を払うしかなかった。  自分の部屋。机の前に、彼女の持ってきた本を拡げる。『夜と霧』著者、ヴィクトール・E・フランクル。そう、彼女は書き込んでいた。彼女の言う『ちょっと』とは、一つの文章につき、一つの書き込みを加えることをいうらしかった。うまく説明できないが、「精神の自由」と題された章から『夜と霧』の文章と彼女の『書き込み』が並列して書き込まれ、ピアノで言うところの連弾のようになっていた。二重の物語。印刷された文字列とシャーペンの文字列。文章同士がカーチェイスしてる本なんて、初めて見た。  1933年、ドイツ国内でナチ党という政党が政権を掌握して以降、国内だけでなくヨーロッパ中のユダヤ人がユダヤ人というだけで尊厳を奪われ、財産を奪われ、命そのものを奪われた。  すべてを奪われるに値する理由は特に無い。ドイツ経済がほとんど最悪とっていいほど破たんしかけていたことと、歴史的にユダヤ人はヨーロッパ中で嫌われていたこと、19世紀後半から産業革命によって成功したユダヤ人が多かったこと、それらすべてを政権掌握に利用できるとナチ党が判断したことが、複合的に組み合わされた結果だった。  反ユダヤ主義を掲げるナチ党の最高幹部はまだ不十分だと考えていたらしく、1943年に絶滅収容所という数百万人規模でユダヤ人を『処理』できる『箱』をいくつも作り出した。そんな時代、そんな場所に一人の英雄がいた。ヴィクトール・エミール・フランクル。男はその絶望的な箱の中で、それでも世界の『意味』と『価値』を見つけ出そうと存在の全てをかけて戦っていた。  彼は『夜と霧』のなかで、強制収容所という『箱』の中の状況と、それが人にどのような影響を与えるかについて学者らしい正確さで記録していた。人は名前を奪われ、番号で呼ばれ、食事と休息を極限まで制限されるとどうなるか。さらにそんな状況で『物』として扱われた場合には。―――そこにあるのは感情の消滅、善悪を判断し行動を起こす能力の圧倒的な凍結だった。  それでも、フランクルはその箱から出ることができた。そして伝えることができたのだ。人は強制収容所という箱の中でも、毅然とした態度をとることができるのだと。そしてそのことによって人は自分の人生に『意味』と『価値』を認め、肯定することができるのだと。  フランクルは本の中で熱く語る。 【(略)例えば強制収容所の心理学なら、収容所生活が特異な社会環境として人間の行動を強制的な型にはめる、との印象を与えるかもしれない。(略)すなわち、人間は、生物学的、心理学的、社会学的と何であれ様々な制約や条件の産物でしかないというのは本当か、と。そしてとりわけ、人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、ほんとうにこの強いられたあり方の影響を免れることができないのか、このような影響には屈するしかないのか、収容所を支配していた生存「状況ではほかにどうしようもなったのか」と。  こうした疑問に対しては、経験を踏まえ、また理論に照らして答える用意がある。経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。  それ例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつ見受けられた。一見どうにもならない極限状況でも、やはりそういったことはあったのだ】 彼女が噛みつく。 【そういった『英雄的な人』がごく一部に過ぎなかったという事実こそ、人間が生物学的、心理学的、社会学的制約の産物でしかないことの証拠を言えないか?これは不当な主張だ。100mを9秒台で走れる人間がいたからと言って、全員にそれを求めるような主張は慎むべきだ。これは本質的に「選ばれた人間」だけが行使しうる「英雄的行為」を目撃した、というだけであって、多くの人間にその可能性は留保されていない。選択の余地などない話なのだ。そして貴方は、『理論に照らして』、と書き記しているがその理論の実効性を、貴方は証明し得たのか?その箱の中で、貴方の肉体と精神だけを武器として。】 次のページでさらにこんな具合に。 フランクルが魂を削る様にして吼える。 【(略)彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ】 彼女が憎悪を込めて叫ぶ。 【ならば自分の肉親や友人が強制収容所に再び入るとき、同じことを言えるのか?そもそも恐怖や肉体の苦痛に対して『鈍い』だけでなぜそんなにも意味がある人間といえる?それは単に私たちに真似なんてできないという絶望を与えるだけの存在でしかない。私の言っていることはみんなの言うようにそんなにも『疲れてる』人間の主張なのか?私は難病を経験した。それはただひたすらに痛みだけがリアルの世界であって、それ以外のすべてが机上の空論となる世界だった。そこにあるのは闇だけだった。】 『精神の自由』と題されたページから、延々と、希望と絶望が、人に生まれた喜びと怨みが、魂と魂が互いを破壊しようともがいていた。ただ一点を除いて。 フランクルが呻くように言う。そこだけ彼女の丁寧な赤線が引かれて、付箋までつけられていた。 【私の心を苛んでいたのは(略)、私たちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ】 彼女が応える。彼女らしくない、殴り書きのような文字で。 【たとえ状況は違っても、私は貴方と同じものを見た。同じ疑問を。だけど貴方の主張に同意はしない。貴方も私も、ただ怖くて、震えていただけ。強くなかったから、弱虫だから生き延びられた。違うなんて言わせない。貴方は暖かなベッドの上で死んだ】 ―――と。  その書きなぐる文字を何度も読み返した。その部分だけを特に。なぜだか不意に、この女の子を守らなくちゃいけないと思った。自分でもうまく説明できない。でもなぜか、そんなふうに思った。  翌月も、彼女は同じ場所にいた。キチンと両手を膝の上において、全身で『遅い』と抗議している感じだった。 「ありがと。返す。」 その翌月に、その本を彼女に返した。返してから、気になっていたラブコメの続きを読むふりをしていた。 「病気したんだ」 「読んだの?」 「うん。なんかボケとツッコミみたいだった。」 そう言ったら彼女が少し笑った。 「冗談だけど。病気は、もう平気なの?」 「うん。たまたま治療が上手くいったから。でも、ね。私と同じ病気にかかって、治らなくて、死んでいった人はたくさんいた。本当に、たくさん。」 「・・・そう。今日、診察が終わったら、そこの公園に行ってみない?別にいいんだけど。天気が良いから。」 「えと、うん、いいけど。私は外は苦手だから。」 「少しだけでいい。僕は外に出してもらえない。今日、外に出たい。その本を書いた人も、最後は箱から出ていった。」 「そう。」  彼女の診察が終わるまで、僕はラブコメの続きを読んでいた。たしか、男の子が初めてヒロインに話しかけて、でもヒロインが反射的に男の子の申し出を断ったあたりで読むのをやめていたはずだった。  ヒロインはなんとか、男の子に話しかけようとする。でも上手くいかない。二人きりになったのは物語の終盤だった。ヒロインがごめんね、たくさん話したかったのに、うまく言えなかったと伝える。男の子もきっかけを探していたんだけどな、と苦笑して言う。思いは通じていた。そう、ちゃんと伝わっていたのだ。信じられないことに、そこから先の巻がなかった。巻末に作者急病と簡潔に説明があった。それはないだろ。それはダメだろ。こっちはやっと廃人生活から立ち直ったのに。楽しみにしてたんだ。 「ウソだろ・・・。」 「え、と。何が?」 とっくに彼女は隣に座っていた。  多分それが、定義上、僕の最初のデートだった。でもお母さんが付いてきちゃった。公園はひたすらに冷たく、澄んだ青空の下にあった。子供時代に来たはずだけど、遊具も花壇も、はっきりと形がわからない。すべて白い輪郭を残して雪の中に包まれていた。そんな世界で、僕一人だけ恥に固まっていた。彼女が全力でマザコン野郎と僕を非難してる気がした。歩く通路だけはきちんと融雪剤がまかれていて、僕はその道をただ機械的に歩いていた。彼女は僕の隣を歩いていたが、実質的にこれは彼女と、僕の母のデートと言うべきだと本気で思う。母はしゃべりっぱなしだった。彼女の年齢だとか、いつもはどう過ごしているのだとか。 「年は19歳です。」 「あの、市立図書館で、本を読んでいます」 彼女はそれら一つ一つに丁寧に答えていた。  家に帰ってからも、母は上機嫌だった。 「市立図書館だって。行ってみたら?いい子だと思う。とっても」 ぶっ殺してやりたい。本気でそう思った。でも僕にできたのは、自分の部屋に戻って、ベッドの上で歯軋りするくらいのことだけだった。


[chapter:6   大きな箱の中と、光溢れる世界]  


そのころ、彼女が僕を気に入っていたのかは、分からない。実際のところ確かめようもない話だ。僕の方はある意味で完全に「お熱」だった。こいつが男だったらまちがいなく高校以来、最高の友達と言っていいのになと思っていた。なんたって彼女以外、知り合いなんていないのだ。最高以外なりようがない。市立の図書館に、ほぼ確定的に彼女がいた。僕は症状が落ち着いたみたいだからと、釈放の身。彼女が来るなと言わない限りはとりあえず、一緒に居ようと思っていた。    2時くらいになると、僕は(包丁無しで。隠されててどこにあるかさっぱりだった)サンドイッチを持参して昼飯として食べていた。彼女は昼食代として渡されていたお金をガメて貯金していた。サンドイッチを作ったら食べるかと聞いたら「多分」と答えたので、その日から二人分作るはめになった。言わなければよかったと今でも思う。雑に作れないことがあんなに辛いと思わなかった。結局ペンナイフを内緒で買って、それをこっそり使って焼いたベーコンとレタスをはさんだだけのサンドイッチを4つ作った。あとは魔法瓶に淹れた紅茶だけ。具材は多少変わってもいつもサンドイッチばっかりだった。僕も彼女もよく飽きなかったもんだと思う。とにかく彼女は食べてくれた。外に金属製の長いベンチが設けられていて、大体はそこで昼食をとった。図書館の奥には森があった。冬の森からは、誰かの焚いたたき火の匂いと、朽ちていく落ち葉や木の実の匂いがした。  僕は市立図書館の雰囲気だけを楽しんでいた。それは大きくて、明るい箱だった。天井が広く、大きな窓がいくつも並んでいる。一階の受付には彫刻や絵画の小作品が飾られていて、その奥と、大階段を上った二階に膨大な数の書籍が書架に並べられていた。 彼女は相変わらずヴィクトール・E・フランクルと闘争を続けていた。『夜と霧』『それでも人生にイエスという』『人間とはなにか』『虚無感について』・・・最後の一冊についてはほぼ精神医学の専門書であって、ほとんど彼女の能力を超えていたはずだが、とにかく彼女は熱心に読み込んでいた。 「ねえ、そのフランクルって人が嫌いなの?」 「そんなわけじゃない、かも。ただ、不思議なだけ。自分の奥さんとお母さんを焼き殺されて、それでも、生きていくために論理を組み立てようとしてるから、興味があるだけ。」 「人はガス室に入っても自分の在り方について、決定する存在であることができる。自分の人生を意味のあるものにできる。そんな感じ?」 「そう。」 彼女が細い目を丸くして僕を見ていた。少しだけ笑ってしまった。だって普段彼女はめったに表情なんて浮かべない。超硬質の文学少女。そんな女の子が目を丸くしてたら誰だって笑う。 「それが、この人が生涯ずっと言い続けていたこと。でも最後まで本当にそれが多くの人に可能なのかどうか、その前提については疑ってくれなかった。貴方は・・・どう思うの?」 「意味とか価値とかは知らない。すくなくとも強烈な安定剤を飲まされてる間は『自己決定』なんて無理だ。5メートル先のトイレに行けなくて漏らした。」 僕はありのまま話しただけだったが、彼女ははにかんで笑った。想像してツボにはまったらしい。はにかみながら、次第に肩を震わせながらうつむいてしまった。 「んだよちくしょう。」 「ごめん」 「勝手に笑ってろ。」 悔しいけど、つられて笑ってしまった。  彼女はサンドイッチのお礼のつもりか、いろいろな絵を書いて、その物語を聞かせてくれた。どれもこれも、不思議な話ばかりだった。 


ある時点まで、僕の中で守りたいという気持ちにさせるという一点を除けば、彼女は男友達の代用品だった。そう、ある時点までは。  そんな異性と、終始一緒に居るとどうなるか。彼女と一緒に市立図書館に居座る。一緒に昼飯を食べる。その繰り返し。魔法瓶に淹れた温かい紅茶で流し込むようにして、サンドイッチを小さく齧る彼女を見る。そのX回目に何が起こるか。そう、X回目に。頭蓋の中、シナプスのどこかでパチッと何かの化学物質が分泌される。とめどなく大量に。受容体がそれを受け取る。それは硬く閉じた精神の殻を突き破ってその子を見続ける以外できなくなる感情の決壊だった。 「あ、の、どうしたの」 「わかんない」 「泣かないで」 「べつに。今、君の事見てたら、すごくドキドキした。それで、なんでもできる気がした。それだけ。」 彼女が僕を見て、少しのけぞるような仕草をした。その後で、地面を泳ぐ魚でも要るみたいに視線があちこちを彷徨っていた。サンドイッチの感触を確かめるみたいに指が細かく動いていた。 「そう。」 それが、彼女の返答だった。そんな彼女の仕草の一つ一つが強烈なドラッグみたいだった。今、思い出してみるとそれはちょっと食欲みたいだった。食べたいし食べられたい。一方的ではなく、方向性というものが混乱した強烈な食欲だった。  そしてその時初めて気づいた。彼女の右耳は、上半分が存在しなかった。耳の下半分はちゃんとある。でも、上にあるべき部分はネズミにでも齧られたみたいに無くなっていた。そのことについて、質問しなかったのが良かったのか悪かったのか、今でも分からない。


[chapter:7   箱の外の箱と、僕と彼女]  


彼女の為に、なにかしたい。その具体的な帰結として、バイトをすることになった。笑顔が怖いとか意味不明な理由でクビになった話とか、勤務規則違反という理由で店長を店から追い出したために警備員をクビになった話とかは置いておきたい。辛い。ともかく、最終的に、大手ショッピングモールの清掃員として働くことになった。深夜から開店までの間に床という床、通路から通路へと磨きながら移動するわけだ。  多少のコツのほかは何もいらない。学校で使ったような自在ボウキで大きなごみをとる。その後方から『ポリッシャー』という床磨き専用の大きな機械で床を磨く職員が床を磨いてついて回る(大体はそれが僕ともう一人の男性清掃員の役割だった)。ポリッシャーは水を利用して床を磨くため、飛び散った水がどうしても床に残ってしまう。その水分については、さらに後方の人間が『カッパギ』という大きなT字型の器具と、持ち上げると蓋の閉まる『文化ちりとり』を器用に使って大まかに掻き取る。  イメージとしてはポリッシャーで床を磨いた後、カッパギで水分を集めて水たまりをつくる。すかさずゴミみたいに塵取りの中に水を放り込んで手持ちのバケツに棄てるという感じだろうか。仕上げに手の空いた職員がモップがけをして拭き取っていく。場所によって多少の違いはあるが、基本的にはそれだけだった。  通路から通路。トイレ。床から床。繰り返し繰り返し。お仕事終了。大きなイベントといえば半年に一度の床のワックスがけで、単にいつもの仕事に加えて床にワックスを塗り、大型の送風機で乾かすだけなのだが面倒くさい。この日が近づくにつれて、みんなで「うわあ・・・」みたいなうんざりする気持ちを共有したものだった。  『ショッピングモールの幽霊』『清掃亡者』『ナイトツアー兼・競歩大会』・・・僕とほかの清掃員たちはいろいろな言葉で自分たちを表現しようとした。これはゲームだと思い込むことでやり過ごそうと日々言葉を発明していたわけだ。メインの清掃員は40、50代の女性たちで、彼女たちが僕の上司だった。理由は知らないが、僕は(普通の意味で)可愛がってもらえた。その仕事はだいぶ前に辞めてしまったが、社会不適応な人間であっても、人間関係さえ上手く型にはまれば仕事もできるしお金も稼げると分かったのはその後の僕の人生にとって大きな支えになった。彼女たちに出会えなかったらと思うと、今でもちょっとぞっとすることがある。  一方、彼女も僕の馬鹿話に影響されてか知らないが、フランクルとの闘争をいったん中止して仕事を探していた。書くのがつらい。何回か「ダメだった。」と簡潔な報告を受けた。ほとんどノイローゼみたいになっていた。視線がいつも昏く泳いでいる。3月の終わりだというのに、まだ雪が降る日があった。図書館の入り口は濃淡の重なる紺色の大理石で造られていて、その色に合わせて、紺色のポーチと外階段が設けられている。階段の手すりに摑まる様にして彼女が呟いた。 「間違ってると思う。なんで私が大声で呼び込みなんかしなくちゃいけないのか、わからない。だれもお客さんが来ないってことは、だれも買いたくないってことでしょ。そんなに必要だと思うなら店長が全部買えばいい。もっと大きな声でって!私は大きな声を出してる。店長の耳が悪いだけ。耳・・・」 そこまで言って彼女はうつむいて丸まってしまった。 「要らないのかも。私。この世界に。できること、全然ない。それだけじゃなくて、怖い。知らない人と働くのが。叱られるのが怖い。」 「要るだろ。僕には要る」 「愛想が、尽きるかも」 「尽きない。」 抜け出せない感情の渦。怒り、自己憐憫の無限ループは僕も知ってる。それは掛け値なしにきつい。汗が止まらない。夜眠れない。次第にしゃべることもできなくなってくる。    背中を支えるだけのつもりだったのに、彼女の顔を引き寄せていた。キスしたのはその時が初めてだった。元気を出してほしかった。二回目を彼女が求めてきた。唇を割って舌が入ってきた。ドキドキするというより、哀しかった。彼女は常に必死だった。いつも僕は傍にいただけだった。 「大丈夫だから。頑張る、から。」 そういう彼女は、どう見ても大丈夫そうに見えなかった。


[chapter:8   長い冬の終わり]  


彼女から僕の家に電話がかかってきたのはそれが初めてだった。ほとんど恐慌状態だった。何とか分かったのは、彼女の母親が三日以上帰ってきていないということだった。彼女から住所を聞き、ほんとうに小さな彼女の借家を尋ねた。あと数時間後には仕事が始まる。でもとにかく来てしまった。  そこには二段ベッドとテレビと、台所と風呂しかなかった。掛け値なしにそれだけ。どこでご飯を食べるのか見当もつかない。他に存在する物は腐臭と過剰な量の生活用品だけ。何かがどこかで腐っていた。  彼女は泣きださないように懸命に耐えていた。雑誌の束を一つ一つ確認してみたり、彼女の母親が寝ていたらしい下段のベッドの毛布をひっくり返してみたりとにかく部屋中をくまなく歩いて何かを探していた。例えば、ちょっと出かけるといった類のメモ、母親の置手紙のようなもの。あるいは小さく縮んだ母親そのもの。終始彼女は何かを呟いていた。それは自分の至らない点についての謝罪だったり、何か口論した際の自分と母親の言い分の再確認だったりした。 「なにか、あるはずなのに」 彼女が言った。風呂場から居間兼寝室、台所。玄関に備え付けられたポスト。そのあとでまた布団をめくり始めた。 「そこには、何もないだろ。お母さんの仕事場には電話したの?お父さんは?」 「した。お父さんはいない。もう、どこにも。」 「じゃあ、待つしかないと思うんだけど。」 その言葉がバチッと彼女の頭蓋の中で弾けたらしかった。 「だれもいない。お母さんが帰ってこない。愛想が尽きたんだ。なんか息が、うまくできない・・・。」 「落ち着けって。まだ何も―――」 「お父さんも私が出来損ないだから嫌いで! みんな私が変な奴だって! あいつらなんなの? 私がお父さんに殺されかけた時、病気で死にかけた時同じ思いしてんの? アホとかクズ野郎とか言われて顔ぼこぼこにされて、次の日に階段から落ちたとか言い訳しろって言われるのがどういう感じなのかとか、 ろくでもない数学の問題渡されて、出来なきゃ耳をかみ切るぞっていわれて、いきなり血が出て、それで私を責めてるの? お母さんも知らないふりしてひとりぼっちでわけわかんないまま滅茶苦茶だよ!! どうしろっていうのよ私に? 震えるしかできなくて、なにができたんだって・・・ お父さんを殺す夢ばっかり・・・殺される夢とか・・・ なにもわかんない。目が覚めても、ぶよぶよした感触があって。それがなんか・・・なんで病院なんか行かなくちゃいけなくて・・・」  彼女はベッドとテレビの間で崩れ落ちてしまった。しゃがみこんで切れ切れに呻くようにして、泣いていた。そばによって抱きしめるなんて芸当はできなかった。それが本当にすべきことだった。でもできなかった。僕はまた、傍にいただけだった。  誰にも一世一代はある。フランクルが強制収容所で精神科医として囚人達の魂を求導したように。彼女が僕の隣に座って僕の人生に踏み込んできたように。今度は僕の番らしかった。でも何をすればいいのだろう。彼女の抱えている闇は圧倒的で、応えるも何もありそうにない。だけど、具体的に、現実的にすべきことだけは明白だった。  彼女の家の電話を借りて、清掃員の待機室に電話した。今日、風邪でどうしても出勤できませんと、それだけ伝えた。幸か不幸か、最古参の女ボスが電話に出てくれた。 「今日?」 「はい。申し訳ありません。」 「えー・・・。待ってね。遅くてもいいから出勤できない?」 「無理みたいです。本当にすいません。」 「君がいないとポリッシャー使える人いないんだけど・・・。」 「はい。本当に申し訳ないんですが。」 「えー・・・。」 以下数回の繰り返しのあとでやっと「無理か・・・。」と女ボスが折れてくれた。何度も謝罪したうえで、電話を切る。  彼女に一言断ってから、台所を片付ける。凄まじい悪臭を放っていたのはまな板に置かれたままの大きなマグロの切り身だった。包丁を使って躊躇なく燃えるごみの袋にぶち込む。山積してる茶碗はどうしようもない。とにかく汚れのこびり付いた皿とまな板を洗って、どうしても汚れの落ちない皿を水につけて朝まで待つことにした。もう何もできることなんてない。彼女の隣に座る。彼女は一言もしゃべらない。しゃべらないまま、気を失うようにして僕に体重を預けて眠ってしまった。  改めて部屋を見る。開けても隣の家が見えるだけの窓。起きて着替え、食事を済ませるための畳敷きの小さすぎる居間。化粧箱。風呂場。低い天井。二段ベッドの上に彼女の読みかけの本が積まれている。信じられないほど静かすぎる。この世界に僕と彼女の二人しかいないみたいだった。彼女の母親のベッドから毛布を何枚か抜き取った。彼女を起こさないままでそれが出来たと言えば狭さが伝わるだろうか。とにかく一晩中、彼女は身動き一つしなかった。  次の日、彼女が僕より先に起きた。朝食にラーメンを作ってくれた。ネギも卵も無し。テレビのわきにしまってあった、小さな折り畳みのテーブルを拡げて、彼女がラーメンを置いた。 「ごめん。何もなかった。コショウも、固まってて使えないから。」 「いいよ別に。」 「昨日、ありがと。傍にいてくれて、嬉しかった。」 「でも、傍にいただけだ。いつも、それしかできなかった。」 「それでいいよ。私、貴方に話しかけて、良かった。貴方が私の、居場所を作ってくれた。」 「ああ。」 僕は、それを言って欲しかったんだ。そのためだけにきっと今までの物語はあったんだ。空想が今まで僕を圧し潰していた何かを運び去ろうとしていた。それは空想であっても、確かな真実の質量を持っていた。    高校時代のたった一人の友達、あの男が大学に進学して友人に囲まれていた。男の視線の先に、のちに恋人となる女性がいた。あのラブコメディのヒロインと男の子が誰もいない教室で、両手を重ね合わせて、互いの想いを確かめていた。フランクルが長い戦いの果てにたどり着いた天上の世界で、妻をしっかりと抱擁していた。彼女の語る物語の『彼』は絶対者の誘惑をはねのけて光溢れる異国の村で村人たちの祝祭の準備を手伝っていた。すべてが光に溢れていた。冷たく長い冬の物語がやっと今、終わろうとしていた。 「どう、したの?麺がのびちゃうよ。」 でも動けなかった。彼女がおずおずとテーブルの上に置いた僕の手を握ってくれた。 「ありがとう。」 彼女が、精一杯微笑んでもう一度、そう言ってくれた。


[chapter:9   全てのラブコメに告ぐ、光に溢れよ]  


この時期以降の僕らについて笑える話はたくさんある。いわゆる「初めて」の時に僕のケツの穴に彼女が指を突っ込んでグリッとねじりやがった話だとか、キスする瞬間ごとに地震が起こって戦慄した話だとか。メールの使い方が分からず、互いに怪文書を送り付けあった話だとか。でもそいった恋についての(ラブ)・笑える話(コメディ)が、彼女について語ろうとするといつも彼方へと追いやられてしまう。彼女の抱えていた暗い沼のようなものに沈んでしまう。いつか彼女が本当にこの世界と自分自身を許せたら、その時にはこれらの話が、きちんと物語のあるべき場所に定まってくれるのかもしれない。  だから、僕はラブコメが好きなんだと思う。どんな内容であれ、そこには作者が掛け値なしに生きる希望ってこういうことだよね!と声高に主張する場面が必ずある。あるべきポイントごとに、あるべき物語がちゃんと存在している。想像力皆無の僕に光の溢れる場所の在り処を教えてくれる。人生を肯定する明るい魂の在り方を教えてくれる。僕も彼女も、もう一度、そこから人生を肯定する姿勢を学び取らなくてはならなかった。ほとんど実用的な教科書みたいなものだった。  彼女は間違いなく地獄に近い箱の中で生まれ、地獄に近い箱を転々と移動しながら生きていた。そのくらいのことは僕にもわかる。そして僕に意味や価値があるなら、それは彼女を光の溢れる場所まで連れ出すことだった。困難極まる課題。でも別に苦痛じゃない。使命感を感じるからだ。フランクルが正しいのか彼女が正しいのか。世界の意味や価値については知らないが、別に地獄で生まれたからと言って絶望し続ける必要はない。  絶望に砕かれる経験は掛け値なしに悲惨だ。できればしないに越したことはない。はっきり言ってそこには救いなんてひとつも無い。絶望を経験したからと言って人間的に成長するなんてことは一切ない。後に残るのは心身に刻まれた深刻な後遺症だけだ。学べる教訓はすべては結局人生は運が物を言いすぎるという圧倒的な結論だけだ。 そんな中で、心が壊れたまま肉体だけがただ、よたよたと立ち上がり、方向性も分からないまま這いずるように歩きだす。その途中で『どうせ死ぬなら人生を光溢れるものにする』、その覚悟をした人間は、きっと本当に安らげる場所にたどり着ける。そのことを、今も僕は手を変え品を変えて彼女に伝え続けている。  なんとしても強調したいのはべつに耐える必要なんてどこにもないということだ。いろいろな意味で、僕たちは楽で快適な居場所を探していい。というかもっともっと真剣に、命がけで探すべきなのだ。そしてその場所で僕たちは誰かを愛し、幸運なら愛されるべきなのだ。雰囲気に流されてセックスしちゃったり、さらに血迷った結果として子供を作ってしまって何よりも大切に育てるべきなのだ。人間関係を築き、バカな会話を楽しむ悦びを知るべきなのだ。まっとうに働いてお金を稼ぎ、時と場合によってはガツンと使ってしまうべきなのだ。  あれ以来、僕は彼女の家で暮らしている。彼女の(戻って来そうもない)母親を待っている。婚約したことを伝えるために。馬鹿みたいに安い家賃。コインランドリーの効率的な利用。二段ベッドは分解して廃棄してしまった。最終的に寝ることもできるデカいソファーを買った。彼女の母親の痕跡が少しずつ失われていく。少しずつ、僕らは歩いている。  今月、三日間の連休をとった。爆発的な視聴率を達成した某海外ラブコメディが面白いかどうか、二人で三日ぶっ続けで視聴して確かめてやろうじゃないかというわけだ。意味不明。ストイックすぎる企画。おつまみもお酒も買った。やらなきゃよかった。DVDを再生する。ここ最近、彼女は求人誌とのにらみ合いに忙しい。ドラマが始まる前から、呆れて少し笑っている。それを見てやっと、僕は安心してソファーに体を沈めることができる。彼女の小さな手を握りしめて、僕はドラマを楽しもうと決めた。


【完】


[chapter:参考文献]


著者 ヴィクトール・E・フランクル  『夜と霧』新版 池田香代子訳 2002年11月5日 第1刷発行 2006年2月3日 第8刷発行 みすず書房 参考動画 いつかやる社長 様  2017/04/29 投稿動画 【ゆっくり解説】世界の奇人・変人・偉人紹介【カルロ・ウルバニ】 http://www.nicovideo.jp/watch/sm31118019

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すべてのラブコメに告ぐ、光に溢れよ 海辺_雪(Watabe_Yuki) @Watabe_Yuki

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