第22話

旅が始まってから、十日が過ぎた。

二人はついに、古文書に記されていた最終目的地、『月光が差し込む断崖』と呼ばれる場所にたどり着いていた。


そこは、常に深い霧が立ち込め、太陽の光すら届かない、陰鬱な場所だった。

足元は、苔むした岩で滑りやすく、一歩足を踏み外せば、霧の向こうに広がる奈落へと吸い込まれてしまいそうだ。


「……すごい霧ね。これでは、何も見えないわ」


リーチュが、不安そうに呟く。

しかし、彼女の目は、薬草学者のものとして、鋭く周囲を観察していた。

この特殊な環境こそが、幻の薬草が育つ条件なのかもしれない。


二人は、ロープで互いの体を結び、慎重に崖沿いの道を進んでいく。

そして、どれくらい歩いただろうか。

不意に、リーチュが息を呑み、崖の中腹の一点を指さした。


「……あったわ、アシュトン……!」


彼女の声は、感動と興奮に、かすかに震えていた。

アシュトンが、その視線の先を追う。

深い霧の中、崖のわずかなくぼみから、ぼんやりと、だが確かに、青白い光が漏れ出ているのが見えた。

それは、まるで夜空に浮かぶ、小さな月のかけらのようだった。


「あれが……月光草……!」


幻は、実在したのだ。

王国を救う、唯一の希望。

だが、喜びも束の間、二人はその場所がいかに絶望的な位置にあるかを理解した。

垂直に切り立った崖の中腹。

人が立つための足場など、どこにも見当たらない。


「……俺が行く」


アシュトンは、迷いなく即答した。

彼は、背負っていた荷物からロープを取り出すと、手際よく近くの頑丈な岩に、何重にも巻きつけて固定していく。


「リーチュ。ここで待っていろ。必ず、持ち帰る」


その灰色の瞳には、いかなる困難にも屈しない、鋼のような決意が宿っていた。


「待って、アシュトン」


リーチュは、彼を呼び止めると、自分のリュックから、特殊な形状をした小さなナイフと、光を通さない黒い布袋を取り出した。


「月光草は、根を少しでも傷つけると、薬効が全て失われてしまうの。このナイフで、茎の根元から三センチほどの部分を、まっすぐに切ってきてほしいわ。それから、採取したら、すぐにこの袋に入れて。月の光以外の光に当てると、ただの毒草に変わってしまうから」


専門家としての、的確で冷静な指示。

アシュトンは、黙って頷くと、ナイフと袋をしっかりと懐にしまった。

これは、二人で挑む、共同作業だった。


アシュトンは、王国騎士団最強と謳われる身体能力を存分に発揮し、まるで崖に吸い付くかのように、滑らかに崖を降りていく。

リーチュは、下から固唾をのんで、その姿を見守っていた。


やがて、アシュトンは目的の場所にたどり着くと、リーチュの指示通り、慎重に月光草を採取し、黒い袋に収めた。

そして、再び崖を登り始める。


彼が、ついに崖の上にその姿を現した時、リーチュは、安堵のあまり、思わず笑みを浮かべた。


「アシュトン、すごいわ! さすが……きゃっ!」


その、安堵の瞬間だった。

喜びのあまり、ほんの少しだけ緊張が緩んでしまったのだろう。

リーチュが踏み出した一歩は、不運にも、浮石の上だった。

ぐらり、と彼女の体が大きく傾き、バランスを崩して、霧の広がる崖の方へと倒れ込んでいく。


「リーチュッ!!」


アシュトンの、絶叫が響いた。

彼は、崖を登り切ったばかりの疲労も、己の危険も、何もかもを忘れて、野獣のような瞬発力で地面を蹴った。

そして、奈落へと落ちる寸前だったリーチュの腕を、その鋼の腕で、力強く掴み取る。


アシュトンは、リーチュの体を、まるで大切な宝物でも抱きかかえるように、強く、強く、自分の胸の中へと引き寄せた。

リーチュの顔が、彼の硬い胸当てに埋まる。

どくん、どくん、と、彼の心臓が、嵐のように激しく脈打っているのが、服の上からでも伝わってきた。


腕の中で、彼女の体が、小さく震えている。

彼女を、失うかもしれなかった。

その、身も凍るような恐怖が、アシュトンの心の奥底にあった、最後の冷静さの箍を、粉々に打ち砕いた。


彼は、彼女を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。


「……リーチュ」


絞り出すような、掠れた声。


「俺は、君を……守りたい」


「……!」


「何があっても、必ず。……君を、失いたくない」


それは、あまりに不器用で、飾り気のない言葉。

だが、彼の真剣な声、力強い腕、そして、この激しい鼓動の全てが、その言葉が、彼の偽らざる本心であることを、雄弁に物語っていた。


アシュトンの胸に顔を埋めたまま、リーチュは、驚きに大きく目を見開いていた。

そして、ゆっくりと、彼の言葉を噛みしめるように、静かに、彼の背中に自分の腕を回した。

返事の代わりに。


崖の上で、固く抱きしめ合う、二つの影。

その傍らには、王国を救う希望の光を秘めた黒い袋が、静かに置かれていた。

霧の晴れ間から差し込んだ月光が、まるで祝福するかのように、二人を優しく照らし出していた。

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