第21話

リーチュとアシュトンが、命がけの旅を続けている間。

王宮にいるジークフリート・フォン・エルベシュタットは、待つことしかできなかった。


彼の手元には、日に一度、クライネルト公爵家を経由して届けられる、伝書鳩によるごく短い報告書があるだけだ。


『本日、異常なし。順調に進んでいる』


その無機質な文字列に、リーチュたちが無事であることを知って安堵すると同時に、自分がこの国家的な危機において、完全に蚊帳の外であるという無力感を、ジークフリートは痛いほど感じていた。

自分が本来、先頭に立って指揮すべきだった場所に、今はアシュトンがいる。

そして、その隣には、リーチュがいる。


その事実が、鉛のように重く、彼の心にのしかかっていた。


「ジークフリート様、お疲れでございましょう」


そこへ、ノックもそこそこに、エミリアが甘い声と共に部屋へ入ってきた。

その手には、銀の盆に乗せられた、色とりどりの砂糖菓子。


「皆様の御無事を、わたくし、神殿でお祈りしてまいりましたわ。そして、ジークフリート様のために、特別に甘いお菓子をご用意させましたの。きっと、お心の慰めになりましょう」


にっこりと、彼女は完璧な淑女の笑みを浮かべる。

しかし、その善意の押し売りが、今のジークフリートには、神経を逆なでするだけのものだった。


「……今は、そんな気分ではない」


「まあ、そんなことをおっしゃらずに……」


「下がれと言っている!」


ジークフリートが、思わず声を荒らげると、エミリアはびくりと肩を震わせ、傷ついた瞳で彼を見つめた。

そして、静かに部屋を出ていく。

その背中に向かって、謝罪の言葉をかける気力すら、今の彼にはなかった。


一人になった執務室で、ジークフリートは額を押さえた。

なぜ、こんなにも苛立つのだろう。

エミリアの行動の、何がそんなに気に入らないのだろう。


(……リーチュなら)


ふと、彼の脳裏に、ありえない仮定が浮かんだ。

もし、今、自分の隣にいるのがリーチュだったなら。

彼女は、こんな時、どうしただろうか。


きっと、甘い菓子など、持ってくるはずがない。

おそらく、何も言わずに、神経を鎮める効果のあるカモミールティーか何かを、そっと机の端に置いてくれるだろう。

そして、「お気になさらず。どうせ、わたくしも飲みたかっただけですわ」などと、ぶっきらぼうに言うのだ。


言葉は、いつも棘を含んでいた。

態度は、いつも冷ややかだった。

だが、彼女の行動には、常に相手を深く観察した上での、的確な「思いやり」があった。

そのことに、なぜ、失ってから気づくのだろう。


その日の午後、ジークフリートは、廊下でクライネルト公爵と鉢合わせした。

公爵の顔には、愛娘を危険な旅に送り出した父親としての、深い疲労の色が浮かんでいたが、その背筋は、まっすぐに伸びていた。


「……公爵」


ジークフリートは、自分でもなぜそんなことを聞くのか分からないまま、口を開いていた。


「リーチュは……。あなたの娘は、昔から、あのように森や薬草に詳しかったのか?」


その問いに、アルブレヒトは、わずかに目を細めた。


「ええ、殿下。あの子は、物心ついた頃から、豪華なドレスや宝石よりも、泥だらけになって薬草図鑑を広げている方が好きな、少し変わった子供でございました」


そして、彼は、静かに、しかしはっきりとした口調で続けた。


「わたくしは、そんなあの子の姿を、ただの一度たりとも、恥じたことはございません。むしろ、誇りに思っておりました」


その言葉が、雷のようにジークフリートの胸を貫いた。

恥じたことはない。誇りに思っていた。

自分は、どうだった?

彼女のその個性を、「王太子妃にふさわしくない」と、一方的に断じ、矯正しようとしていなかったか。

彼女が本当に好きなもの、情熱を傾けているものに、ただの一度でも、真剣に耳を傾けたことがあっただろうか。


自室に戻ったジークフリートは、窓の外を眺めながら、呆然と立ち尽くした。


「私は……彼女の、何を、見ていたというのだ……」


婚約者として、何年もの時を隣で過ごしてきたはずなのに。

自分は、彼女の表面を覆う「悪役令嬢」というレッテルしか見ていなかった。

その内側にある、誰よりも深い知識と、強い意志と、そして、不器用な優しさを、全く理解しようとしてこなかった。


自分が捨てたのは、ただの傲慢でわがままな婚約者ではない。

この国を救う鍵を握るほどの、類まれなる才能を持った、かけがえのない女性だったのだ。


そして、その彼女の隣に立つ資格があったのは、王太子という地位にあぐらをかいていた自分ではなく、彼女の本質を理解し、その輝きを認められる、アシュトンのような男だったのだ。


「……ははっ」


乾いた笑いが、唇から漏れた。

後悔は、あまりにも遅すぎた。

もう、自分にできることなど、何もない。


ジークフリートは、窓の外の、遠い空を見つめた。

せめて、無事に戻ってきてくれ。

そして、君の選んだ男と、幸せになってくれ。

そう祈ることしか、今の彼には許されていなかった。

深い、深い後悔の闇が、孤独な王太子を、静かに包み込んでいた。

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