第20話

月光山脈を目指す旅は、日を追うごとに過酷さを増していった。

もはや獣道すらなくなり、二人は深い森の中を、コンパスと太陽の位置だけを頼りに進んでいた。


アシュトンは、ぬかるんだ急斜面で、先に立つリーチュに手を貸した。

彼女の手は、貴族令嬢のものとは思えないほど、土と薬草の汁で汚れ、小さな切り傷がいくつもついている。

だが、その手は驚くほど力強く、アシュトンの手をしっかりと握り返してきた。


(……強い人だ)


アシュトンは、馬上から、少し先を歩くリーチュの背中を見つめながら、改めてそう思った。

旅が始まってから、すでに五日が過ぎている。

ろくに眠れぬ夜もあった。食事も、彼が狩った獲物や、リーチュが見つけた木の実くらいのものだ。

普通の貴族令嬢であれば、泣き言の一つや二つ、とっくに口にしているだろう。

しかし、リーチュは、ただの一度も弱音を吐かなかった。


それどころか、彼女は、この旅を心から楽しんでいるようにすら見えた。


「アシュトン、待って!」


突然、リーチュが足を止め、崖の下を指さした。


「あそこに咲いているのは、『竜の鱗』だわ! まさか、こんな場所で本物に出会えるなんて!」


彼女が指さす先には、崖の中腹から、青い鱗のような葉を持つ不思議な植物が顔を覗かせている。

その瞳は、高価な宝石を見つけた時よりもずっと、きらきらと輝いていた。


「危険だ。下りるな」


「でも、あれは火傷の特効薬になる、とても貴重な薬草なの。少しだけでも採取できれば……」


名残惜しそうにするリーチュを見て、アシュトンは小さくため息をついた。

彼は、馬から降りると、ロープを取り出し、手際よく近くの太い木に結びつける。


「ここで待っていろ。俺が取ってくる」


「え、でも!」


リーチュの制止も聞かず、アシュトンは熟練の動きで崖を降りていく。

そして、危なげなくその薬草を採取すると、再び崖を登り、彼女の手にそっと渡してやった。


「……ありがとう、アシュトン」


受け取った薬草を、宝物のように胸に抱きしめるリーチュ。

その、子供のように無邪気な喜びに、アシュトンの胸の奥が、温かいもので満たされていくのを感じた。


彼は、自分がリーチュを守っているようで、実は、何度も彼女に助けられていることを知っていた。

ある時は、毒を持つ植物を的確に見分け、彼の進路の危険を教えてくれた。

またある時は、彼の古い傷が痛むのを敏感に察し、即席の塗り薬を作ってくれた。


彼女は、決して守られるだけのか弱い存在ではない。

知識と、勇気と、そして何より、強い精神力を持った、対等なパートナーなのだ。


(王宮で見た彼女は、一体何だったのだろう)


アシュトンは、思い返す。

常に退屈そうな顔で、美しいドレスを着て、まるで精巧な人形のように座っていた、かつての王太子の婚約者。

あの時の彼女と、今、目の前で泥だらけになりながら、生き生きと目を輝かせている彼女が、どうしても同じ人物だとは思えなかった。


その日の夜。

いつものように、二人は焚き火を囲んでいた。

リーチュは、昼間アシュトンが採ってきてくれた『竜の鱗』を、うっとりと眺めている。


「本当に綺麗……。ありがとう、アシュトン。今日のことは、一生忘れませんわ」


焚き火の炎に照らされた横顔が、心からの喜びで綻ぶ。

その、飾り気のない、素顔の笑顔。

それを見た瞬間、アシュトンの口から、自分でも意図しない言葉が、滑り落ちていた。


「……リーチュ」


「はい?」


「君は」


アシュトンは、一度言葉を切ると、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめて言った。


「王宮にいた時よりも、今の方が、ずっといい顔をしている」


それは、彼にしては驚くほどストレートで、何の飾り気もない、心の底からの言葉だった。


「……!」


突然の言葉に、リーチュの肩が、びくりと震えた。

彼女は、驚いて目を丸くし、次の瞬間には、顔がカッと熱くなるのを感じた。

まさか、この無愛想で、お世辞などとは無縁の男から、そんなことを言われるとは、夢にも思っていなかった。


「……なっ……」


リーチュは、照れくささのあまり、何も言い返せない。

ただ、心臓が、痛いほどドキドキと高鳴っている。


「……泥だらけの顔ですのに。おかしなことを、おっしゃるのね」


なんとかそれだけを絞り出し、彼女はぷいとそっぽを向いた。

しかし、その耳まで、真っ赤に染まっている。


その可愛らしい反応に、アシュトンの鉄仮面が、ごくわずかに、だが確かに緩んだ。

焚き火の向こう側で、彼が穏やかに微笑んでいるのを、リーチュは盗み見てしまった。

その、初めて見る優しい笑顔に、リーチュは、ますます顔から火が出そうになるのを感じる。


厳しい旅の道中で、二人の心は、確実に、そして急速に、一つに近づいていた。

言葉はなくとも、焚き火の炎が、その間に通い合う温かい感情を、静かに照らし出していた。

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