第23話
月光山脈からの帰路は、行きとは全く違うものだった。
険しい道のりであることに変わりはなかったが、二人の間に流れる空気は、以前の緊張感を孕んだものではなく、どこか甘く、穏やかなものへと変わっていた。
時折、視線が合うたびに、リーチュは頬を染め、アシュトンは不器用にそっぽを向く。
あの崖の上での、ささやかな告白。
その余韻が、二人を優しく包み込んでいた。
旅の終わりは、新しい関係の始まりでもあった。
離宮の門が見えてきた時、見張りに立っていた門番が、二人の姿を認めて叫んだ。
「お帰りなさいませ! リーチュ様、バレフォール団長!」
その声を聞きつけ、屋敷の中から、父アルブレヒトやハンナ、そして離宮の使用人たちが、わっと駆け出してくる。
「リーチュ! 我が娘よ!」
「リーチュ様! ご無事で……本当によかった……!」
父に力強く抱きしめられ、ハンナに泣きつかれ、リーチュは「もう、大げさですわ」と照れくさそうに笑った。
その時、アルブレヒトは、娘の隣に立つアシュトンが、ごく自然に娘の手を握っていることに気づいた。
そして、全てを察したように、深く、そして優しく頷いた。
すぐに王宮へ「月光草、確保」の吉報が届けられると、重苦しい空気に沈んでいた王宮は、歓喜の渦に包まれた。
リーチュは、旅の疲れを癒す間もなく、決意の表情で父に告げた。
「お父様。一刻も早く、この月光草を薬にしなければなりません。王宮の薬草研究所をお借りしますわ」
「しかし、リーチュ、お前の体は……」
「大丈夫です。……それに、アシュトンがついていてくれますから」
リーチュの揺るぎない瞳を見て、アルブレヒトはそれ以上何も言わなかった。
娘はもう、自分が守るだけの存在ではない。
国を背負って立つ、一人の人間として、成長していたのだ。
王宮の薬草研究所。
そこは、王国中から最高の薬師たちが集められた、知識の聖域だった。
普段は、厳格な序列とプライドが渦巻くその場所に、国王陛下の勅命を受けたリーチュが、アシュトンと共に足を踏み入れる。
「この方が、クライネルト公爵のご令嬢……?」
「我々を差し置いて、あのような若い娘に指揮を任せるなど……」
研究所の宮廷薬師たちは、明らかに懐疑的だった。
しかし、リーチュが黒い袋の中から、青白く輝く『月光草』を取り出した瞬間、その場の空気が一変する。
「ま、まさか……本物の、月光草……!」
「おお……! 生きている間に、目にすることができるとは……!」
幻の薬草を前に、薬師たちの目が、畏敬と興奮の色に染まった。
そして、彼らはすぐに、リーチュがただの公爵令嬢ではないことを、思い知らされることになる。
「調合を始めます。第一助の方は、銀のすり鉢に乾燥させた『太陽の涙』を五十グラム。第二助の方は、『風読み草』の茎を正確に三センチに切り分け、蒸留水の準備を」
リーチュの指示は、淀みなく、的確で、一切の無駄がない。
その声は、若くとも、長年この研究所を束ねてきた薬剤師長のような、絶対的な自信と威厳に満ちていた。
薬師たちは、その気迫に圧倒され、まるで魔法にかけられたかのように、一糸乱れぬ動きで彼女の指示に従い始めた。
その日から、リーチュは研究所に籠り、不眠不休で製薬作業に没頭した。
彼女の集中力は凄まじく、その瞳には、月光草と、目の前の薬釜しか映っていない。
アシュトンは、その鬼気迫る彼女の姿を、ただ静かに見守っていた。
彼は、研究所の扉の前に仁王立ちし、食事を運ぶ侍女以外、誰一人として中に入れようとはしなかった。
彼にできるのは、彼女がその才能を存分に発揮できる環境を、全力で守ることだけだった。
そして、三日目の朝。
朝日が、研究所の窓から差し込んできた、その時。
「……できましたわ」
リーチュの、かすれた、しかし喜びに満ちた声が響いた。
最後の工程を終えた薬釜の中には、朝日を反射して、美しく輝く琥珀色の液体が満たされていた。
王国を救う、希望の雫。
特効薬の完成だった。
完成した薬は、すぐに国境付近で灰死病に倒れていた兵士たちに送られた。
結果は、劇的だった。
死の淵をさまよい、もはや助からないと思われていた兵士が、薬を飲んで数時間後には、熱が下がり、意識を取り戻したのだ。
その奇跡の報せは、瞬く間に王国中に広まった。
人々は、熱狂した。
「国が、救われたぞ!」
「奇跡の薬を作った、若き薬師様万歳!」
いつしか、人々は、彼女をこう呼ぶようになっていた。
かつて「悪役令嬢」と蔑み、噂した同じその口で、今は、最大限の尊敬と感謝を込めて。
『クライネルトの聖女』、と。
王宮のバルコニーから、民衆の歓声に応える国王たちの、さらに後ろ。
リーチュは、その喧騒から逃れるように、柱の影に隠れていた。
そんな彼女の隣に、アシュトンがそっと寄り添う。
「……わたくし、ただ、好きなことをしただけですのに」
戸惑うリーチュに、アシュトンは、穏やかな声で言った。
「君の『好き』が、この国を救ったんだ」
その言葉に、リーチュは、はにかむように微笑んだ。
その笑顔は、どんな宝石よりも、輝いて見えた。
遠く離れた場所から、ジークフリートが、その光景を万感の思いで見つめていた。
自分が手放してしまったものの、本当の輝き。
それを、彼は、今、まざまざと見せつけられていた。
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