ゆっくり溶けていく部屋
ささやきねこ
不動産新人営業
■Log:内見前(現調)
午前十時。
区画整理の進んだ新興エリア。
駅から徒歩二分という触れ込みの、真新しいマンションの前に立つ。
「ほらな、言っただろ。ここは“回転率”がいい」
先輩はポケットから鍵を取り出しながら言った。
無精髭の残る顎、抑揚のない声。
営業マンらしさとは程遠いが、成績だけは誰よりもいい。
契約が多い。
つまり、エサをよく食わせているということだ。
「ご案内するのは若い夫婦。二人ともフルタイム勤務。帰宅は遅い。
……ちょうどいい“栄養素”だ」
冗談のつもりなんだろうが、笑えない。
エントランスの自動ドアが開いた瞬間、
ぬるりとした暖気が押し寄せた。
湿度の高い、どこか甘いにおい。
洗いたての白いシーツに鼻を埋めたような、つんとした匂い。
「ここ、いつ建ったんですか」
「竣工したばかりだが……もう大規模修繕の頃合いかもしれん。
胃も定期的に整える必要があるからな」
胃。
またそれだ。
この業界に入ってから、先輩はずっとマンションを内臓にたとえる癖がある。
エレベーターに乗り、四階まで上がる間、
どく、どく、と液体が流れるような音が足元から聞こえていた。
先輩は何も気にしない。
俺だけが、ひとり緊張している。
部屋の前に着く。
「ほら。ここだ。“0LDK”。管理費込み。
広くはないが、満足するさ」
鍵を差し込み、扉を開けると、
真っ白な空間が広がっていた。
家具はなく、生活感など微塵もない。
だが――
はっきりと、甘い。
空気が、熱い吐息のようにまとわりつく。
「窓、開けてきます」
「いや、換気はほどほどにしてくれ。胃酸が薄まる」
胃酸? またそれか。
扉の横のクローゼットを開ける。
図面より奥行きがある気がした。
暗闇が奥に奥に続いていて、
吸い込まれそうな感覚を覚える。
「……先輩、これ、奥深くないですか」
「空腹だと伸びるんだよ、胃袋は。
少しでも栄養を取り込もうとする」
じわりと汗が滲む。
暖かさが増している。
床を踏むと、わずかに沈む。
新品のフローリングのはずなのに。
生ものを踏んでいるみたいだった。
■Log:消化の痕跡
キッチン近くで何か光った。
拾い上げると小さな銀色の欠片。
噛み合わせの跡――銀歯だった。
「これ……」
「消しとけ。仕上げが甘いな」
先輩はそれを素手でつまみ、
ポケットに無造作に放り込む。
その指先に、壁紙がそっと触れた。
白い壁が、
ほんの一瞬、ふくりと盛り上がり、
吸いつくように先輩の肌を包んだ。
「ん。すまんな、もうすぐ食わせてやる」
先輩が軽く壁を叩くと、
壁紙はしゅるりと平らに戻った。
俺は無意識に壁へ手を伸ばしてしまう。
――柔らかい。
指紋が沈むようにめり込む。
指先が、少し痺れる。
じわり、と溶ける感覚。
慌てて離すと、壁紙が指を惜しむように
粘り気もなく、ただ淡く凹みを残した。
「溶かされる前に離れろよ」
先輩は当たり前のように言う。
足元では、フローリングの継ぎ目から、
かすかに液体が流れる音がする。
配管の音に似ているが、どこか脈動していた。
■Dialogue:獲物の到着
インターホンが鳴った。
若い夫婦の姿が映る。
「いらっしゃいませ。本日はご来場ありがとうございます」
先輩は仮面のような笑顔を張り付けた。
扉を開けた瞬間、夫婦は目を丸くする。
「わあ……暖かいですね、この部屋」
「なんだろう……包み込まれるようで、落ち着く」
奥さんはうっとりと壁に触れた。
壁は、そっと指を迎え入れるように膨らんでいる。
だが彼女は気づかない。
安心という名の麻酔が、すでに浸透している。
先輩は営業トークを始めた。
「この壁、吸音性が高いんですよ。
周囲の音が気にならないでしょう?」
――悲鳴は外に漏れない。
「セキュリティも万全でして。
一度入ったら、もう安心です」
――逃がさない。
夫婦は互いに顔を見合わせ、うなずいた。
「ここに、決めたいです」
早い。
飲み込みが良い。
■Log:捕食の確定
契約書にサインをもらい、
先輩がペンを片付けた瞬間だった。
空気が動いた。
部屋全体が、吐息を漏らすように湿度を跳ね上げる。
壁が、床が、わずかに脈を打つ。
明らかに、満たされた。
「それでは、鍵の準備ができ次第、再度――」
「はい!よろしくお願いします!」
夫婦は満面の笑みで頭を下げた。
その足下のフローリングが、
やわらかく揺れたことには気づかない。
俺は玄関へと向かう。
ドアに手をかけ、引く。
――カチャリ。
触れていないのに、
ロックが勝手に閉まった音。
先輩はその音を聞いて、
ほう、と満足げに息をつく。
「ほらな。もう消化は始まってる」
「……閉じ込められた?」
「違うさ。
“飲み込まれた”んだ」
夫婦に気づかれぬよう、
内側からそっと解錠する。
扉はなんとか開いた。
夫婦が手を振る。
部屋は名残惜しそうに、
床を波立たせていた。
■Ending:次の胃袋へ
廊下に出た。
背中に温かな空気が追ってくる。
ドアが閉まる直前、
郵便受けの隙間から――
ズズ……ズ……
何かをすする音。
俺は振り返り、
思わず息を止めた。
銀の欠片。
セラミックの破片。
前の住人の残滓。
すべてがこの建材の奥へ
ゆっくりと沈んでいったのだろう。
「あー、空腹が満たされると機嫌がいいな、この階は」
先輩はスマホで次の物件の地図を開きながら、
いつも通りに言った。
「よし、契約成立だ。
次の“エサやり”に行くぞ」
消化音が遠ざかっていく。
廊下の照明が、ぴしり――と明滅した。
胃袋の蠕動に合わせるように。
俺は、
この都市全体が巨大な生き物であることを、
ようやく理解した。
そして俺たちは、
その生き物に餌を運ぶ、
ただの給仕係だ。
いつか俺も、
飲み込まれるのだろう。
ゆっくり溶けていく部屋 ささやきねこ @SasayakiNeko
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